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『花の忠臣蔵』 作者口上

いつのまにか、忠臣蔵とは長いつきあいになりました。最初は『忠臣蔵  赤穂事件・史実の肉声』(一九九四・ちくま新書)、二冊目は『忠臣蔵まで  「喧嘩」から見た日本人』(二〇一三・講談社)、そして今回この『花の忠臣蔵』を読者の皆さんのお目にかけることになったような次第です。

「花の」とはまた、派手好みの、大向こう狙いの、躁状態的発揚のあげくの命名かと思われるかもしれませんが  事実、半ばはそうなのですが  、拙老の見るところでは忠臣蔵事件は元禄という一時代を飾る「花」だったのではないかという気がします。

このホームページを読んで下さる方々のうち、一九七〇年の三島由紀夫事件を知っている人はもう少数かもしれません。でも、この事件が同時代に広げた衝撃波の大きさは理解しているように思います。明治四十三年の「大逆事件」ですでに大正が始まり、大正二年の関東大震災でもう昭和が始まっていたように、三島事件は昭和の胎内に早くも平成を孕ませていたといえましょう。三島は空前の経済繁栄とそれに続く平成バブルの水面下で進行していた精神の荒廃を予感していたのです。三島の死は、拝金と長寿しか生き甲斐にできなくなっていた日本人を何かひやりとさせました。

拙老は、元禄の忠臣蔵事件はその三島事件と似たような役割を果たしたと思うのです。 元禄時代はひところ「昭和元禄」という言葉が流行したくらい、昭和の時代と共通点があります。どちらも経済的に繁栄したというだけでなく、その繁栄を享有し、謳歌することが自然にできるようになったのです。「昭和元禄」なる流行語も「高度経済成長期の天下太平、安逸」をメルクマールにして、第六十七代首相になった福田赳夫が昭和三十九年(一九六四)に言い出した言葉だそうです。元禄の井原西鶴は「何によらず銀徳にて叶わざる事」(『日本永代蔵』)はないと豪語しています。

どちらの社会も今目前にあるこの繁華が、今後いつまでも右肩上がりに、上昇しこそすれ下降したり停滞したりすることがあろうとは、夢にも考えていなかったんですね。忠臣蔵事件も三島事件もこの根拠なき楽観論、永続反映の幻想に水をさし、警告を発する不吉な予言として起きたみたいなものです。

どっちの事件もそれが起きるまでの社会が無理に眼をつぶり、故意に無視してきた影の部分を明るみに引き出しました。なるほど平成不況(バブル崩壊)は三島切腹の結果ではないし、元禄地震や富士山噴火の原因は忠臣蔵事件ではないでしょう。しかし、今も昔も民衆の集団的幻想の世界では物事が不思議な因果でつながるものなのです。

幕末の安政江戸地震に優るとも劣らない規模で江戸を壊滅させた元禄地震が、当時、怨みを呑んで切腹した赤穂義士の怨霊の祟りと信じられ、「亡魂地震」と呼ばれた事実については拙著『花の忠臣蔵』を参照されたし。

このように考えて来ると、忠臣蔵の世界はこれまで知られているよりも、もっと奥深い広がりを持っていたことがわかります。拙老の世代には浪曲・講談・大衆小説・歌舞伎・映画などを通じて血肉化し、一種の共有財産」になった物語であり、若い世代にとっては毎年テレビドラマで繰り返されるオールド・ストーリーですが、それらでおなじみの数々の名場面だけが忠臣蔵のすべてではありません。まだまだ未探索・未発掘の地下鉱脈があちこちに残っていると思われます。

今回の『花の忠臣蔵』には大勢の人間が登場します。武士ばかりでなく、学者・文人・俳人も出て来ます。儒学者荻生徂徠、国学者荷田在満、俳句の宗匠宝井其角などが次々と姿を現して嬉しい限りです。そう、忠臣蔵事件とは、いろいろな文化人が舞台に引っ張り出された文化的事件でもあったのです。

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