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忘却の女神

あてもなしに拙老の名を見出し語にしてネット・サーフィングをしていたら、幸いヒットしたまではよかったが、「ご存命のようです」と注記してあったのには苦笑させられた。なるほど、拙老もいつのまにか、世間からそう見られて当然の年齢に達しているわけか。古代ローマのキケロも「人生における老年は芝居における終幕のようなもの」(『老年について』、中務哲郎訳)と言っている。いずれ幕は下りる。いつまでも世間はスポットライトを浴びせ続けてはくれまい。

〽数ならぬ身にはあれども梓弓入りてまじらん世々の人数

この一首に篭めたギャグ(何が本歌か?)が通じない人はまだ若い証拠だと思ってどうかご安心下さい。拙老のひとりよがりなのも分かっている。年齢の証明書のようなつもりで口ずさんでみたわけなり。

拙老には世間から忘れ去られることよりも、もっと切実に身に迫る問題がある。他人が拙老を忘れるのは、自分が自分自身を忘れるよりまだはるかにマシなのである。

近頃、身近な人々の近況ニュースに「誰それさんがアルツハイマーの療養中です」といった知らせが多くなって淋しくなる。症状はいろいろあるようだが、記憶が壊れてゆくという点では共通している。「忘却とは忘れ去ることなり」というのは、この前の戦争が終わって間もない頃、一世を風靡した名高いラジオ・ドラマの言葉であるが、――まだ覚えている人はあまりいるまい――一種「忘却力」とでも呼べるような不思議な権能が老人たちに支配力を揮い始めている。拙老にとっては、どうもこちらの方が主敵であるらしい。

忘却は一見やさしい慰謝のかたちを取る。忘却は女身である。忘却の女神レテ。ギリシャ神話よれば、レテは死の神タナトスの姉妹であり、冥府に流れ込む大河の一つであり、よく「三途の川」と訳されるスティンクスの支流であるという。うっかりその流れに身を任せたら、いつしか冥府に運ばれかねない危険な水路である。これに対抗することはできないのだろうか。

ギリシャ神話には、なるほど記憶の女神ムネモシュネもいる。ヘシオドスの『神統記』によれば、ゼウスと交わって詩神ミューズを産む女神だ。しかし残念ながら「記憶」が「忘却」と抗争してこれに打ち克ったという伝承を聞かない。ヘシオドスも、ミューズがひとたび甘美な声で神々の讃歌を歌えば、たちまち人は「身の憂さを忘れ 切ないこともなにひとつ 思い出しはしない」(広川洋一訳)という状態になり、けっきょく、もう一つ種類の違う忘却に陥ってしまうからである。

ギリシャ神話に限らず――北欧神話でも記紀神話でもよい――神話的語彙がよく精神医学の用語に使われる――たとえばエディポス・コンプレックスとかナルシシズムとか――のは、神話に語られる原始的・野性的な、直情的な心性が人間精神の深層と通い合うところがあるからだ。語源(言語の深層)がしばしば人類の過去を明らかにするのと同じ構造である。このような用語圏を「神話的深層」の領域と呼ぶことにしよう。幼時だけが問題なのではない。老年期にさしかかった人間もまた、思考とか判断力とか精神の位相ばかりか、知能や本能をつかさどる脳髄のレベルで、数々の「神話的深層」でしかお目にかかれないような異象にめぐり会うのだ。

高齢化社会とは、老年という環境条件が普遍化した状況でいくつもの「神話的深層」がすれ違うことに他ならない。人は誰でもこうした各自にとって未曾有な、未踏の界域に踏み込んでゆくしかないのだ。今や、各人自前の個人的神話が活動期を迎える頃合だろう。

拙老もなりふり構っていられる年齢ではもうなくなった。若い頃にはその存在にさえ気付かなかった人や物と目を見交わしたり、声を掛けたりすることが多くなったとしても別に驚くには当たらない。最近、忘却の女神レテがたいへん親密に寄り添ってくるように感じられるのも決して嘘ではない。

◯ 水音も忍びがちなり夜の川太古ながらにレテは流るる

◯ われはしも忘れ形見ぞ人みなの思ひ出失せし後に残れる

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