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わが現在地――「ゲンロン」創刊号をめぐって

ゲンダイ表紙

去年の暮(2015年12月)、批評雑誌『ゲンダイ』が創刊され、「特集 現代日本の批評」と銘打った「共同討議 昭和批評の諸問題 1975-1989」が載っている。主宰の東浩紀(あづまひろき)氏が司会をして、市川真人(いちかわまこと)・大沢聡(おおさわさとし)・福嶋亮大(ふくしまりょうた)の3氏が加わった4人の座談会である。主として1970年代生まれの新進批評家だ。80年代に生まれた人もいる。

この座談会は、かつて『季刊思潮』『批評空間』誌上で前世紀の80年代になされた共同討論「近代日本の批評」(柄谷行人・蓮見重彦・三浦雅士・浅田彰)が打ち出したパノラマ図を受け継ぎ、それをその通りにはやれないといわば否定的媒介にして、新世紀の問題状況に立ち向かおうとしている。その意図や壮。拙老はたいへん好意的に見る。が、現役世代の仕事をあれこれ論評するのは拙老のニンではない。ただ、何のはずみか、同座談会には一ヶ所だけ拙老の名前が出て来るところがあるので年甲斐もなく嬉しくなり、それを機会に物を言ってみようというわけだ。

共同討論の中で、大沢氏が発言したことを、東氏がこう引き取っている。

大沢 前田愛や野口武彦なんかは、研究者と批評家の中間に位置しましたが、近現代ではなく近世の専門家ですね。それが強みになっている。

東 いまの「カルチャー批評」に欠けているのは、まさにその距離感ですね。まさに「外部」。外国や過去から現代を見る視点。

へえ、そんな風に見えるのか、と拙老は感心する。買いかぶりもいいところだ。いつだったかももう思い出せないが、かれこれ35年ほど前のこと、突然柄谷氏から電話をもらって、「近代日本の批評」のシンポジウムにお呼びがかかったのである。参加したのは「大正篇」と「昭和篇」の一部だった。亡くなった前田愛氏の代役だったのだと思う。めちゃくちゃ緊張したのを覚えている。「外部」から見るどころではない。当時この業界では、「外部」という言葉――柄谷語だと思う――がやたらに流行していて、パソコンができなかった拙老などは「野口さんは江戸時代の人だから」とさんざんからかわれたくらいだ。江戸時代という日本の「内部」専門で、とても「外部」なんかお呼びではなかった。その後中央の動向からさっぱり縁が切れたのもそのせいだろう。

こういう新現役の進出によって、ほぼ10年ごとに交替する「新思潮」が小気味よく“相対化”されてゆく光景には、感嘆と詠嘆こもごもの複雑な感想を持つ。たとえば「柄谷さんは“勉強してないのに本質を突く”とか“海外の動向をぜんぜん知らないのに世界の最先端”みたいなことを言われすぎなんだよね。一種の神話がある」(東)といったような発言を見よ。先達をバッサリ斬る気魄に満ちているではないか。だがこれもけっきょくのところ、日本の思想界でこれまでずっと続いてきた“先進世代を相対化するゲーム”の継続版にすぎないのではあるまいか。拙老などほんの木っ端で結構であるが、前田愛氏は「プレニューアカ」(大沢)に位置づけられているから、10年新陳代謝論によれば80年代に消え去ったことになる。拙老も同断である。つまり、すでに「過去の人」の扱いだからいっそ気が楽だ。

80年代の「外部」はどこへ行ったのだろう。あれから無慮35年、拙老は「内部」にとどまりっぱなしで、いまだに忠臣蔵などに引っ掛かっている始末。その間、外界では輸入思想の新品入れ替えがどんどん進み、空回りして、一度見たような光景を繰り返しているような気がする。

今世紀はもう16年を数え、「昭和」の文物は今や回想と再評価の対象になった。昭和人にとっての「明治」のような存在と化したのである。拙老のようにもうだいぶ過去の人物になった者にも、まだ「現在地」を探すよすがはあるのかもしれない。 了

 

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