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『花の忠臣蔵』評判

そろそろ『花の忠臣蔵』の書評が出揃う頃です。発行は去年の12月10日ですから今日で二月(ふたつき)近くなります。これまでの経験からいうと、毎回、刊行した本の世評――もちろん、たいがいは「売れない」という方向――が定まる時分なのです。たとえ一つでも新聞に書評が出れば、出版社は喜んでくれます。酷評でも悪口でも構いません。「悪名は無名に優る」という諺もあるそうです。

もとより人様に批評して頂いて、あれこれ文句をいえる立場ではございません。ですが、書かれるもののすべてが著者の気に染むかどうかはおのずから別問題だと存じます。いかにも逆さまながら、こちらから先方の読み方に注文を付けたくなります。歌舞伎のセリフで申すなら、「どなたもまっぴら御免なすって」というところです。といっても、拙老には今更『花の忠臣蔵』執筆の意図やら動機やらをむしかえすつもりはありません。また、既成書評家諸氏が書いて下さった文章を論評することも致しません。その代わりに、拙老が読んで「わが意を得たり」と快哉を叫び、「なるほど本書が言いたかったのはこういうことだった」と痛感させられた文章を以下に引用させて頂く所存です。多少我田引水に見えるかも知れませんが、引用元は、20年ほど前拙老の学生だった石原隆好氏の私信です。御本人は再録を快諾して下さいました。

なお同氏は現在インターネットにコラム「新・鯨飲馬食記」を連載中であり、時折、端倪(たんげい)すべからざる読書家ぶりを発揮して、犀利な書評を発表しておられます。本欄の読者諸賢もぜひ御一読を

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『花の忠臣蔵』御恵投有り難うございました。

貧乏暇なしで仕事に追われておりましたが、昨日一気に読み上げました。

先生のブログ書評を拝読していても感じたことですが、具体的な歴史上の事象から超歴史的(汎歴史的?)な精神のアーキタイプを透視する視線が印象的でした。『花の詩学』の著者であればそれも当然の帰結と言えるのですけど。

法制度を越えた(法制度の地下に伏流する)ある倫理感覚を瀆されたと思った時に、誰いうともなく「コレハオカシイ」と呟き出すそのシンクロニシティがよく伝わってきました。とはいえ、この「空気感」が大勢を左右する体質、ちょっとやり切れないなあと思うのが半分の感想ですが(幕閣の「如何なものか」的官僚主義とそれは表裏一体をなすのではないか)。

もう半分は、あとがきで書いておられたような、《百万都市で、みんながワクワクしながら見てみないふりをするなか、集団で老人を切り刻むテロ行為》が、これはもう無条件にオモシロイと感じてしまうしかない、という無責任な劇場感覚です。言うまでもなく正義や忠義やといった徳目とは無縁のところで。民衆=the Great Beastとはよく言ったものです。野獣だけに端倪すべからざる直観も持ってるのでしょうが。

 

だからこそ余計に徂徠の透徹が光りますね。法理上の正義/不正では本来事切れない事象を、政治・社会的には穏やかに執り成し、法的には鮮やかに土俵に引きずり込んで決着を付けて見せたところ、さすがは随一の思想家とあらためて感心しました。

風太郎さんが言ってたことですが、忠臣蔵がなければ江戸はいかにのっぺらぼうの時代で終わっていたことか。いかにも日本的なエトスが産んだ事件=伝説がまた逆に日本人の感覚を規定形成していくという、まさに歴史の弁証法そのもののサイクルに一枝の花を捧げて下さいました。なんだか書評的な締めくくりになっちゃいました。

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