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『池上彰が世界の知性に聞くどうなっている日本経済、世界の危機』

16-02-07

米よこせ雀2

米よこせ雀

テレビで最近「わかりやすい」ニュース解説者として高名な池上彰氏が対談集の本を出した。題して『池上彰が世界の知性に聞く どうなっている日本経済、世界の危機』。内容は、(1)著者自身のマエセツ、(2)「世界の知性に聞く」という章題のもとにトマ・ピケティ、エマニュエル・トッド、岩井克人(いわいかつひと)の3氏との対談、(3)第二次大戦後の日本経済の節目々々に大きな役割を演じた政府高官、企業経営者7人へのインタビューという3部構成になっている。

このうち第3部は拙老に歯が立つ世界ではないから敬遠して、ここではもっぱら、第1部と、第2部の対談相手がいずれも世界の現在情勢についてある程度マクロで長期的な展望を語っているダイアローグに関心を向けて感想を申し述べたい。

 

池上氏が大学時代にマルクス経済学を学んだといっているのは多少意外だった。その理由は次のようなものだったという。「実は私も数学は苦手でした。それで数学を駆使する近代経済学――今で言うマクロ経済学、ミクロ経済学はあきらめて、あまり数学を使わないマルクス経済学を学ぶことにしました」というのである。前世紀の60年代の末期、日本では全共闘の世代がマルクス主義との訣別に「死ぬような」思いをしたのを目の当たりにした拙老などの世代は、両経済学の違いが数学使用の度合で片付けられるのに多少心外な気持はなくもないが、まあこの場合あまり尖ったことはいわないとして、1950年生まれの池上氏と37年生まれの拙生との間にあるわずか13年の時差のうちに、あたかも違う大陸プレートが出現したかのような精神史的な地殻変動があったに違いないとだけコメントしておこう。

 

日本の思想風土には大正から昭和にかけて、どう否定しようもなく、それが好きか嫌いかに関係なく、マルクス主義が人々の基礎教養になった時代、そしてその時代の空気を吸って育った世代が存在する。それは明治にダーウィニズムが、江戸時代に朱子学の理気二元論が、支配的思想として一世を風靡したのと同じことだ。どれもたんなる個別学説ではなく、世界観思想だったのである。同じ社会の中にいくら反対や批判があっても、それはどこまでも反論としてだ。花田清輝という批評家の名言でいうなら「アンチテーゼはテーゼに規定される」のだ。

 

思い出す言葉がある。「下(しも)をわが苦世話(くぜわ)に致し候心御座なく、国家を治むる道を知り申さず候わば。何の益もこれ無き事に候(下々をわが事のように気苦労にかけ、国を治める道に責任を負わなければ何の用にも立ちません)」(『徂徠先生答問書(そらいせんせいとうもんしょ)』)という一文」である。もとより、徂徠学をマルクス主義に比定するつもりはない。また、既成マルクス主義の功罪を今更あげつらう気もない。ただ、一昔前の良質のマルクス主義の根底には「下をわが苦世話に致す」心があったということを思い出しておくまでだ。

 

氏が二つの経済学を特徴づけて、マルクス経済学は「もう今の資本主義社会は駄目だ、打ち壊すしかないんだという死亡宣告」の処方箋、ケインズ経済学は「いやそうではない、総需要をきちんとコントロールすれば、大恐慌にならずに済むんだ」という処方箋をそれぞれ書いていると要約して見せるのも、読者の理解のために必要な単純化としてわからないではない。しかし、経済学は果たして処方箋を書くだけでよいのかと疑問を投げかけたい気持は残るけれども。もっとも氏自身は現代では「深刻な不況はあるけれど、大恐慌にはならない」という社会常識に寄り添った 見方をしている。だから、今「世界で最も大きな問題のひとつ」として「経済格差の広がり」をクローズアップし、第2部の対談全部に底流させた時も、自然に、格差の問題はいずれコントロールできるだろうという楽観的なムードに包まれているように見える。

 

国際的なベストセラー『21世紀の資本』の著者T・ピケティは日本にも多くの読者がいる。ピケティ理論のエッセンスは「r>ɡ」(株や不動産など資産の収益率は経済成長率を上廻る)という不等式である。これまでずっとそうだったし、今後もそうだろう。ピケティはこの数字を「歴史的な証拠に基づいて」統計資料として提出し、マルクスのように直感と論理と推論のみでアプローチした不備を克服したと胸を張る。そのデータはオンラインで開示されている。このような不等式は、全社会的な富の偏在、アメリカの共和党大統領候補サンダースがいみじくもいった「グロテスクなまでに拡大した」経済格差が実在することの客観的裏付けとして今後広く引照されるだろう。
そしてピケティは問題の解決法として「所得税、相続税、年次の累進性のある資産税」を提案しているのだが、難はそれを誰が超高額所得者に強制できるかの問題にあり、最後には強制実行者として権力の問題に回帰せざるを得ない。権力の問題は、経済外的強制ではあるがいわば臨界領域としてマルクス経済学が内部にに導入せざるを得なかった項目である。事柄は再びマルクス経済学の問題圏内に戻ってしまうのである。池上氏は対談を「この本(『21世紀の資本』)が民主主義の本であることが確認できました」と如才なくまとめているが、果たしてどうなのであろうか。
二人目のE・トッドは、独創的な家族関係論を武器にマルクス主義に異論を唱える歴史人口学者であるが、これまた、別の角度から「経済格差の広がり」を指摘している。ヨーロッパの国際関係に見られる格差である。特に、ドイツとギリシャの間で顕著な経済的→政治的力関係の落差。トッドは「第1次大戦前の帝政ドイツ、1930‐40年代のナチス、そして21世紀のこれから」と三度にわたる実体験にもとづき、「合理的であまりに強すぎるドイツ」が「いずれ理性的な態度を逸脱していくだろう」とちょっと不吉な予言をしている。最近におけるその現れが、何あろう昨年日本でも大きな話題になったギリシャの財政危機である。ギリシャが債務減免や返済期限の猶予を求めたのに対して、ドイツは強く緊縮財政を主張して引かなかった。
今回のコラムの冒頭に「米よこせ雀」と題する写真を貼り付けたのは――だいぶ前の「デモクラ雀」もそうだが――拙老が庭にやって来るスズメたちの姿をギリシャの民衆に重ね合わせて見ているところがあるからだ。テレビの論調では働かずに要求ばかりしている、けしからんとかなり否定的だったようだが、拙老などはむしろ応援したい気分だった。ドイツはえらくギリシャを後進国扱いするけれども、考えて見りゃデモクラシーだってギリシャの方が大先輩ではないか。何てったって先様は西暦紀元前からデモクラティアの本場なのだ。民主主義の酸いも甘いも知り尽しているのではなかろうか。

 

[ギリシャ経済の再生のためには債務の減免が不可欠である」とトッドはいうが、その解決方は「昔からまるで変わらない」ドイツの強引な政策でついに実現することはなかった。自国フランスの隣に「強大すぎる」ドイツを持っているトッドは、対談の結びで池上氏に「あなた方日本の隣には、デカすぎる中国がある。そこがお互い悩ましい問題ですね(笑)」と話を振り、氏は苦笑して「冗談ではないですよ」と受け流すのだが、実はこのやりとりには、民主主義とデモクラシーをそう無邪気に等置してよいのかというかなり深刻な問いかけが孕まれている。
さて、三人目の対談相手の岩井克人氏については、日頃そのユニークな貨幣論から多くを学んでいる拙老としてはいずれ本格的に勉強するつもりである。残念ながら、主要な話題になっている「日本的経営」論にはあまり興味がないとしかここではいえないが、それでも一つ、池上氏との対話の中で、日本資本主義と中国経済との関わりに触れて発言したことが、おそらく偶然でなく、現今の中国株バブルが世界連続不況の引金になった事実を予見しているように思えるので、その点だけは記しておきたい。岩井氏はいう。
「今までなぜ大丈夫であったかといえば、中国経済が実践してきた資本主義というのは、要するに産業資本主義といわれている、古い形態の資本主義だからです。
これはカール・マルクスが前提としていた資本主義で、機械制工場で安い労働者を使って大量生産する。イギリスの産業革命後の資本主義がこれにあたります。
…… …… ……
共産党は投資ではなく消費による内需拡大政策に転換をはじめた。その政策のひとつが住宅振興だったんですけど、すぐ行きすぎて、住宅市場がバブル化しはじめる。習近平政権になって株式市場へと資金が流れるよう意図的に動かした。」
筋の通る説明である。そして、この間に生じた不良債権が溜りに溜ったマグマとしてはじける時、「リーマンショックと似たような衝撃」が周囲を襲うだろう。もちろん日本をも。そんな危機感を抱きつつ、氏はアベノミクスにも一言せざるを得ない。。今は「日本経済を内需中心に立て直して、中国バブル崩壊に備えるのが、アベノミクスの最大の存在理由であるとすら、私は思っています。しかし、いま安部さんはアベノミクスそっちのけで安保法案一辺倒なので、ちょっと心配になってきます。」

 

『池上彰世界の知性に聞くどうなっている日本経済、世界の危機』   文藝春秋刊

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