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恋の原義

 

恋せじと御手洗河にせしみそぎ 神はうけずぞなりにけらしも

『古今集』「恋」一(#501)にある有名な歌である。作者は読人不知とあるが、在原業平とされている。大意は、「もう恋はするまいと心に誓って御手洗川(みたらしがわ)で禊(みそぎ)をしたが、神はこの誓いを受けてくれなかったらしいよ。恋は募ってゆくばかりだ」というものだ。

もとは『伊勢物語』65段の話だ。業平が時の天皇に寵愛されている染殿の后に恋慕するが、この禁断の恋を続けていたら、身の破滅だと、賀茂の神に「恋を忘れさせて下さい」とミソギをして祈ったが無駄であった、という一篇の歌物語が下敷きにある。

折口信夫は、「恋」とは昔相手の「霊魂を迎え招く」ことだったと言っている(「恋及び恋歌)。「恋」とはもと「魂()ごひ」だったというのである。「恋う」はかつて「乞う」と同語源とする説(『大言海』など)があったが、現在では、両動詞には甲音・乙音の区別があり、二つの語はもともと別音だから、この説は成り立たないと否定されている(大野晋『岩波古語辞典』)。

折口がいうには、文語の「恋ふ」はふつう上二段に活用する動詞に使われるが、この言葉には、古来、四段に活用する「こふ」――漢字を宛てれば「乞ふ」に近い意味内容だ――が潜在していて、活用形式を越えて浸出していた。つまり、後に「恋ふ」「乞ふ」と別々の動詞になる以前の「*こふ」という古意を表す言葉が存在したのである。(*は言語学で「文献にはないが,こうだったろうと推定される語形」を示す記号。)折口は、奈良時代には主として助詞ニを受けていた「恋ふ」が平安時代からはヲに接続する語法に変わった、とする。以下はその例:

わが脊子に恋ふれば苦し暇(いとま)あらば拾(ひり)ひて行かむ恋忘れ貝(万葉集・巻六#964)

夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふあまつ空なる人を恋ふとて(古今集・恋一#484)

『万葉集』の歌に出て来る「恋忘れ貝」とは「拾えば恋の苦しさを忘れさせるという伝承のあるワスレガイの別名である。こんなに苦しい恋をするよりは思い切って忘れるためにあのワスレガイを拾いに行こう、というのだ。折口信夫の『万葉集事典』はワスレガイの項で、「蛤(はまぐり)に似て、殻が深く、縦に深い筋があり、且(かつ)、茶褐色の斑(まだら)がある」と記し、「浪のひいた後に遺(のこ)っている処から、浪のわすれ貝の意」としている。「忘れ」という言葉については次回に後述。

恋とは、本来ただ異性が好きになるという意味ではなく、原義は「威霊あるものを迎える」意味だったと折口はいう。威霊を自分の方へ移させることなのである。思う相手の内部に何か威伏されるべき力を感じ取らなければ恋は始まらない。恋愛感情はしばしば対象を過度に美化したり、神格化したりするが、そうした心理の始原には相手の霊魂を招き寄せ、自分の物にしようとする呪力が働いている。万葉の「恋ふ」は近代の「こがれる」に近い語感だが、それではまだ言い尽くしていないと折口は留保を加え、「恋」の原義はもっと濃い密度のものだったろうと想像する。

古代人の「恋」を後世の恋情になぞらえて理解してはならない。たとえば、古来恋の名歌としてよく知られた仁徳天皇皇后、磐媛(いわのひめ)の一首も独特の解釈を与えられる。

かくばかり恋ひつつあらずは高山の岩根しまきて死なましものを(『万葉集』巻二#86)

この歌の現代語訳はふつう、「こんなに恋い焦がれているのに、待ち続けて苦しむくらいなら、険しい山の岩を枕にして死んでしまった方がましだわ」というふうになるのだが、折口によれば、それなどは「恋ふ」を後代の意味で「思い焦がれる」と誤解したものだと片付けられる。そもそもこの短歌が『万葉集』で「相聞(恋歌)」の部に分類されているのが間違いで、本来は「挽歌(哀悼歌)」だったのだ。(『万葉集』巻二は全巻が「相聞」に部立てされている。)奥山の墓所で山の巌を枕(ま)いて、死んだ人の「魂ごい」をする時の詞章がこの歌だった。それを「相聞」の部に入れたのは、すでに『万葉集』の編纂者、あるいはその材料になった「古歌集」の蒐集者の頃から「恋ふ」の原義が不明になっていたからだ、と折口はいうのである。

折口民俗学とは、先史学であり、古層言語学である。折口は、天性としかいいようのない言語感覚をもって、拙老がさきほど「*こふ」と表記した仮想の動詞が実在したことを探り当てる。「*こふ」とは、「恋」「乞」その他の始原的情感を含意した動詞である。「こふ」に「恋」と「乞」の両儀があるのではなく、つまり恋+乞という和ではなく、恋×乞という積があったことを復原して見せる。

次回は「恋」の逆数である「忘却」について考えたい。

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