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高橋敏著 『大坂落城異聞』

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高橋敏『大坂落城異聞』  岩波書店

東京はいざ知らず、こちら関西の地では、「大坂落城」の悲劇はいまだに人々を感奮させてやまない情動的喚起力をそなえている。豊臣氏を滅ぼした徳川政権への憎悪は一種の遺伝形質として現代にまで持ち伝えられ、大阪人の東京嫌い・中央政府への根強い反感・地方主権主義・ポピュリズムの母胎になっている。「大坂落城」はそれら複合的な感情の象徴なのである。

かねて歴史の本道から一歩裏街道に踏み込んだ独特のスタンスで、『国定忠治』『清水次郎長と幕末維新』『小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)と幕末維新』などの仕事に取り組み、幕末史に立体的な深みを与え続けている高橋敏(さとし)氏の近著『大坂落城異聞』は、江戸時代を通じて徳川政権から出版を禁止されながらも、「口承、伝承の非文学の世界に受け継がれ」てきた稗史(はいし)――正史が公認しない民間伝承による歴史――を読み起こした力作である。

では、正史から黙殺された「大坂落城」の稗史では、どのような事柄が語り継がれていたのだろうか。本書はそれを4つの章に分けて読みたどる。第1は、落城以後行方知れずになった大野治房(おおのはるふさ)のその後。第2に豊臣秀頼存生説。第3に大坂夏の陣の戦没者の慰霊さまざま。そして第4に、実録『厭蝕太平楽記(えんしょくたいへいらくき)』の世界で締めくくる。この「実録」は。じつをいえば、秀頼が後藤又兵衛・真田幸村・長宗我部盛親ら(現実にはいずれも討死したり刑死したりしている)に助けられて大坂城を退去し。島津義弘に身を寄せて捲土重来(けんどじゅうらい)を期するという架空の戦史である。

今は遠い昔になったが、半世紀も前の1960年代、東京には「かたばみ座」という小芝居の一座がまだあった。小芝居とは、江戸時代、中村・市村・森田の「江戸三座」と呼ばれた大劇場以外のいろいろな芝居小屋で演じられた歌舞伎劇の総称である。明治になってから大歌舞伎が「芸術」として洗練されたのに対して、小芝居の方は、江戸以来の庶民性を持ち伝え、他では見られない演(だ)し物や珍しい型を見せた。

「かたばみ座」には、板東竹若(たけじやく)・板東薪車(しんしや)・市川女猿(じよえん)・市川門三郎といった役者たちが生き残っていた。みんな相当な老優だったが、いずれも芸達者でしかも大車輪で熱演したから、観衆は滅多に見られないコッテリした芸風が楽しめた。たとえば『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)』の8段目、通称「盛綱陣屋」。戦国の習いで佐々木盛綱・高綱兄弟が敵味方に分かれて戦う悲劇である。

モデルは大坂夏の陣の当時豊臣方・徳川方に分かれた真田信之・信繁(のぶゆき・のぶしげ)兄弟である。(信繁は真田幸村の本名だ。)高綱は戦場で討たれたと見せかけて味方を欺こうとする。陣屋に持ってこられた高綱の首は贋首だったが、囚われていた高綱の実子小四郎は、敵を欺いて本物と思わせようと刀を腹に突き立てる。子役が腸を掴んで苦悶する姿は残酷なまでにリアルだったし、それを見て高綱の謀略を見破りながらも骨肉の情に引き裂かれて苦悩する盛綱の思い入れが凄かった。あんな風に顔面筋肉を総動員する表情作りは、お上品な大歌舞伎ではゼッタイに見られない芸だった。残酷と血まみれの表現主義そのものの舞台だった。

そこでは自己の悲惨さ、被虐性を過激に誇張する怨念の旋律が奏でられ、著者も強調する『大坂夏の陣屏風』――その凄惨な描写は、よくピカソのゲルニカになぞらえられるという――とも通底するものがある。勝ちに乗じた徳川勢は敗兵の首を1万数千級切りまくり、略奪・婦女暴行はやりたい放題という地獄図絵を繰り広げた。

https://www.google.co.jp/search?q=大坂夏の陣屏風 より

(もちろん、この画面には良識の検閲フィルターが掛かっている。本当に酸鼻をきわめるシーンは、描かれなかった次の場面にあるだろう。)

このように歴史の巨大なローラーに轢き潰された人々の声なき怨嗟の叫び、無告の訴えは後世に届かないのか? もし正史がそれをよく伝えないのだったら、そも正史とは何ものぞ! ――著者高橋氏は、ここで一種の義憤・公憤につらぬかれて稗史の世界に目を向ける。正史の落丁に着眼することにより、いわば落丁の空白をニッチとして活用し、そこに稗史の胚芽を増殖させるのである。

第1章では、正史が「不当に姦悪な愚物」にしている大野治房像に、著者は新発見の史料――治房の軍令状――を対置し、「別れ別れとなって転変、伝えられたものが400年のタイムトンネルを抜けて、今ひとつに合体」させる。だが著者の主たる関心事は、正史には無視された治房の妻子・一類の探索・処断の顛末を、稗史の中に求め、やがてこうした「子孫の物語」に新たな稗史ロマンを敗退させる構想と見受けられる。果たして第2章以下では、「秀頼生存説」を軸とする一連の大坂落城後日譚シリーズがそれぞれに展開されることになる。正史ではもちろん落命、一子国松はとらえられて斬首されるが、稗史では、国松と秀頼の息女霊樹院は細川家に庇護されたという伝承になる。第3章では、塙団右衞門(ばんだんえもん)・薄田隼人(すすきだはやと)・真田幸村・後藤又兵衛などの慰霊の記録に言及される。これが次章における豊臣家再興幻想の伏線と位置づけられていることはいうまでもない。第4章で取り上げられる『厭蝕太平楽記』の登場で、文字通り「稗史が正史を喰う事態が起こった」のである。何しろこの架空の実録では、首を斬られた国松は実は替え玉であり、秀頼一類は薩摩に徳川政権への永遠のアンチテーゼとしてサバイバルするのだから。

高橋敏氏は、「大坂落城」の異聞の息の長い伝承を、「大阪の生んだ江戸の徳川の権威に対するアンチテーゼ」「大阪の原点を豊臣の時代に求め、徳川の支配を関東からの闖入者と揶揄する、大阪の地域住民の本音」と見ている。その通りであろう。しかし拙老としては、著者はやはり歴史学者なのだなあという感慨を禁じ得ない。氏は、芸の下地が何といっても式楽なのである。

高橋氏は「表の正史と裏の稗史が棲み分け状態で共存していた」といっている。表と裏とは、正と奇・陽と陰・明と暗といった一連の対概念と類似のカテゴリーであり、けっきょくは水平軸上にあるように思われる。これをいっそ垂直軸に置き換えることはできないものだろうか。正史と稗史は,うまくいえないが、意識と下意識の両界に分かれて「深さ」で対立するものではないのか。

何だか言いがかりを付けたようで気が引ける。スミマセン。ともかくも拙老は、歴史学者ではないのが勿怪(もっけ)の幸い、もし寿命が 許してくれるならば、稗史にもっとズカズカ踏み込み、これと一緒になって正史を踏み荒らす蛮勇を振ってみたいものだと思っている。

コメント2件

 山本秀一 | 2020.02.11 8:50

大阪落城異聞姪が送ってくれたのでこれから読みます。高橋先生にはこれから連絡しようとおもつてます。私の家は明治維新まで鳥取藩士でしたが鳥取博物館に所蔵されている藩士の家譜によりますと初代が大野主馬の孫として備前の国で抱えられその後池田家の国替えで鳥取に移ったようになってますがその辺を高橋先生に聞いてみようと思ってるのですが。。。

 ugk66960 | 2020.02.11 12:16

すみません。老来とんと昔の記憶が薄くなってご尊名からお顔が浮かびません。どちら様でしたっけ?

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