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宮川のカメ

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カメカメハ王朝の盛衰

足が立たなくなってから、拙老の行動半径はほんとうに短くなりました。何年か前までは近所をよく歩いたものですが、最近はさっぱり外へ出なくなりました。それどころか、世界は手の届く所にある書物と眼の前のパソコン画面にしかありません。ロレツもうまく回らないものですから、電話も自粛しています。蔵書量は多い方だと思いますが 、書斎にも書庫にも歩くのが難儀なのでつい足が遠のきます。

そんなわけですから、今回の写真は、介護保険のおかげで我が家に来て下さるヘルパーさんに撮って来てもらったものです。ヘルパー派遣センターから我が家に来る道筋に、宮川の河口付近を通り掛かるとこういう風景が見られるそうです。写っているのは最近やたらに殖えたミドリガメで、日本固有種ではありませんが、旺盛な繁殖力を発揮してすっかり主人顔をしています。古来「亀は万年」というくらいですから、今後きっと長生きするでしょう。(ミドリガメの寿命は野性では3百年あるそうです。)

年を取ると不思議な能力が身に付きます。ただボケるだけではないようです。その一つが、古い記憶を鮮明に蘇らせることです。老人は昨日今日の出来事は端から忘れるけれども、幼時に起きたことを正確に思い出すと言います。それも未生以前の日々にさかのぼって記憶が再生できるのです。ちょうど近頃性能のよくなったドライブレコーダーが、事故が起きた時点より過去の時間のシーンを再現できるのと似た仕組みです。メカニズムはよくわかりませんが、それと同じ原理でしょう。未生以前の記憶のことですから、わが生誕の何年前、何十年前、何百何千年前の事象でも構わないわけです、写真の亀たちは1万年前を知りますまい。しかしこの原理によって、太古の昔、宮川がまだ現在の形でなかった頃の地形も非在の記憶として見えるはずです。錯視・幻視・妄誕のたぐいだと笑われるかも知れません。しかしこういう視像は老来拙老の身に付いてきた新しい光学装置であることは間違いのないところです。

芦屋に象が住んでいた頃――今から7万年前~1万年前の最終氷期すなわち更新世(かつては洪積世といった)終期――が終わり、完新世(沖積世)になると、今の阪神地方の山と海では大規模な地殻変動が起こりました。「六甲変動」と呼ばれる地形形成運動です。山の方では、六甲山地が隆起し、この高地から流れ下る住吉川・芦屋川・宮川などの河川群が山地を削り、山麓に扇状地を形成しました。海の方では、現在の芦屋市域北部にまで広がっていた古大坂湖が――縄文海進に伴って――紀淡海峡から海水が流れ込んで古大坂湾になりました。今は亀のいる現宮川もその時分にはいわば「古宮川」として盛んに暴れていたことでしょう。

宮川は、昔「打出川(うちでがわ)」「呉川(くれかわ)」などと呼ばれたこともあるそうです。今日打出天神に合祀(ごうし)されている金毘羅宮(こんぴらぐう)があったのでこの名が付いたとも、中流に芦屋神社があるからだともいい、説はいろいろあるようです。かれこれ40年ほど前、拙老がこの辺に住むようになった頃は、西から天井川(てんじょうがわ)・芦屋川・宮川・夙川(しゅくがわ)と順に並んで海(大坂湾)に向かって南流する川筋の一本であり、大雨の時など水面が膨れ上がりましたが、たいして荒れる川ではなく、まあごく普通の川でした。時には壊れた安楽椅子などが投げ込んでありました。この辺の海岸は、かつては白砂青松の海水浴場だったそうですが、拙老が芦屋の里に居を構えた時分にはもうそんな面影はありませんでした。阪神国道からちょっと南下すれば黒ずんだ砂浜にぶち当たったのを覚えています。

昭和44年(1969)に芦屋浜の埋立てが始まってから、様子がだいぶ変わりました。海が遠ざかって行ったのです。海とこれまでの海岸平地の間に芦屋浜シーサイドタウンやら芦屋中央公園やらが割り込んで陸がそれだけ広くなりました。宮川の川筋もつまりその分延長したわけです。この一帯には新しい人種のホームタウンが開けましたが、水辺の小動物たちにも新たな環境の出現でした。

写真で川岸の石を占拠しているミドリガメの本名はミシシッピーアカミミガメというそうです。外来種です。えらくのんびりしているようですが、水面下では在来種と激しい生存競争を繰り広げているのかも知れません。でも、宮川の写真を撮ったあたりは淡水と海水が入り混じる汽水域だそうですから、ミドリガメには最適の生存条件なのでしょう。河口ではボラも釣れます。新種生物のコロニーができたわけです。

写真のキャプションに使った「カメカメハ」という語句は、十九世紀にハワイを統一した「カメハメハ王朝」のたんなる語呂合わせです。日本で明治維新が実現した1686年にはカメハメハの後継者クラカウア王のもとでハワイ王国はまだ健在でした。

徳川旧幕臣の榎本武揚は艦隊を率いて江戸湾を脱走します。そして結局、北海道に「箱館共和国」を樹立して明治政府に抵抗するわけですが、その前に榎本艦隊がまだ仙台にいて奥羽越列藩同盟の敗色が濃くなっていた頃、徳川旧家臣団を連れてハワイに来ないかという話が持ち込まれたことがあります。榎本はそれを断って、北海道で開拓と北方警備に当たるというコースを選び、箱館に向かって北上したのです。こういう歴史の曲がり角では、歴史の「もしも」も決して抽象的な確率ではなく、麻雀でいえば国士無双で上がり損なったぐらいの惜しさで感じられます。武揚のチョイス一つでは面白い結果になっていたでしょう。日米関係も今日の姿ではなかったと思います。

アメリカザリガニ、セイタカアワダチソウ、シーバスなどの例のように、外来種が日本の生態系を変える度合いもかなり違っていたでしょう。

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