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公は私に背く

このところ世の中は舛添東京都知事の金銭スキャンダルの報道で持ちきりです。折から伊勢志摩のサミット会議、来日したオバマ米国大統領の広島訪問と重大ニュースはいろいろあるはずなのですが、なぜか人々の面白がり方ではこちらの方が押しています。次々と、新たな「不祥事」が発覚するたびに、皆さん明らかに楽しんでおいでのように拝見されます。

この「面白がる」という反応にこそ、一つの《社会現象性》が見て取れるのではないでしょうか。

「人の不幸は蜜の味」という言葉がありますが、一般に、有名人の没落やエリートの失敗ほど民衆を喜ばせる話題はありません。拙老などもその最たる者で、昔一時アメリカにいた時分、いつも東大の英文科の先生に「オマエの英語の発音じゃとても通じないよ」と言われてシュンとしていたのを思い出します。しかしある時レストランでくだんの先生がスパゲッティを注文したら紅茶(ティー)を持って来られて目を白黒されたのを見た日は一日中シアワセでした。

東京都知事のポストは最近どうやらケチが付きっきりのようです。猪瀬前知事の突然の辞任は金銭疑惑がらみだったし、今回の騒ぎもまだ結末は分かりませんが、似たような匂いがします。問題は、この種のスキャンダルが、①なぜ東京の首長というポストに、②猪瀬・舛添といったインテリ文化人に集中して起きたかということです。大坂はちょっと微妙ですが、東京都の知事があまたある道府県の首長と違うのは、行政権限や財政規模の大きさは別として、選出に当たって都市知識人の世論が大きく反映することにあると思います。たんに目先の経済利害だけにこだわらない思考ができる人口部分です。

この人口部分は、おおむねいわゆる中間階層に属します。有名なピケティ理論による世界普遍的な公式――「r>ɡ」(株や不動産など資産の収益率は経済成長率を上廻る)という不等式――をあてはめれば、いつも全社会的な富が偏在すること(永久に不等式の右辺にいなくちゃならない)のワリを喰わされていながら、自分たちは最下層ではないと思っていられる階層です。昇給の機会を窺い、失業の脅威にあたふたする流動常なき人口部分です。この階層から政治家が出るとしたら、ウエーバーのいう「職業政治の二種類」のうち第二の「政治に《よって》生活するタイプ」に属することになりましょう。

ここから、猪瀬・舛添御両人に共通する一連の悲喜劇が生じます。猪瀬さんはかつて信州大学の全共闘議長でした。それなりの理想に燃えてらしたと思います。それともこの時代、氏が身に付けたのは駆け引きと人心統合術だけだったのでしょうか。舛添さんは最高学府で成績はいつも上、それ以来ずっとエリートコースをたどって来られました。そして二人とも《職業政治家》の道を選ばれました。衆目が集まるのも当然です。

ところで、政治家の世界には、これまた世界普遍的な公式があります。さきほどのピケティの不等式のひそみに倣うなら、「公>私」とでも表記できましょう。オオヤケをいつもワタクシに優先しなくてはならないのです。そういうものなのです。今度のことでも、「公私混同」が取り沙汰されているのも偶然ではありません。「わしゃ断乎として公益より私利を追及する」と公約した政治家を聞いたことはありません。正直かもしれませんが、当選する見込はありません。政治はそういうタテマエになっていないのです。

古語に「公は私に背く(『韓非子』)」という言葉があります。「公」は「八」と「ム」の会意。ムは「私」の古字、一説に「八」は「背」の古形。 八を左右に背く形と解するのだそうです。どうも昔から、公と私は折り合いが悪かったみたいです。むしろ利害背反的だったのかも。本当は「公<私」なのだがタテマエ上「公>私」ということにしておくのでしょうけれど。

わが国の現行政治制度はデモクラシーということになっています。タテマエとしては、身分・階級・性別・年齢・財産の差異に関係なく、政治家になれることになっています。しかし現実には決してタテマエ通りにはいきません。誰にでも生活時間を全部政治にふり向ける余裕があるとは限らないからです。政治家にもどうしたって格差ができます。その事実に目をつぶって、政治家は「公>私」の看板を掲げますし、被治者の民衆もそれを期待します。

それだから余計、民衆が失望した時の反応は辛辣(しんらつ)なのです。19世紀フランスの政治思想家トクヴィルはこんなことを言っています:「偶然によって権力の地位に上がった者の腐敗にはなにかしら粗野で下卑たところがあり、そのために一般大衆もまたその腐敗に染まってしまう」「公金を横領したり、国家の恩典を金で売ることならば、極貧の民でもよく分かり、次は自分の番だと期待することができる。(『アメリカのデモクラシー』、松本令二訳)」。21世紀の日本のこととして、東京都知事の公私混淆が人々の笑い物になっているのは日本のデモクラシーがまだ健康である証拠とはいえないでしょうか。少なくとも皆がわれもわれもと「次は自分の番だ」と期待してはいないようですから。(野口武彦記)

 

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