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クチナシ昨今

クチナシ2

一重のクチナシ

梅雨の季節です。宮川沿いの街路樹の下草にはクチナシがずらりと植え並べられていて、毎年6月になるとそこら辺が香ります。先日、荊妻の運転で西宮の漢方医に連れられて行く途中、久しぶりにあの甘ったるい芳香を嗅ぎました。クチナシといえば、ふつうまず連想するのは薫りでしょう。一重咲きも八重咲きもありますが、あまり白い6片の花びらのことは 話題になりません。花がしぼんだ後、いさぎよく散らず、いつまでも未練たらしく茎にしがみついて茶色に変わり果てても老醜を晒しているのも評判が悪い理由です。

♫今では 指輪がまわるほど、という流行歌の歌詞が町に流れていたのはいつ頃だったでしょうか。たしか「くちなしの白い花  お前のような 花だった」と続いたように思います。ですが、クチナシの花がこんな風に扱われたことは日本の伝統では非常に新しいことなのです。

クチナシの名はすでに『日本書紀』に出ているくらいだから相当古い言葉であり、普通名詞ですから歌語として扱っていいかどうかは微妙ですが、すでに『古今集』から用例が見つかります。

1006  山吹の花色ごろもぬしやたれ問へど答へず口なしにして(山吹の花のような黄金色の衣を着た人にアナタは誰?と訊ねたが、返事はなかった。それもそのはず、クチナシで染めてあるのだもの――巻第19俳諧歌、素性法師 )

1026  耳成(みみなし)の山の口なし得てしがな思ひの色の下染めにせん(耳成山に生えているクチナシが欲しい。その色(山吹色)を下染めにして吾が恋の思いの緋色をぼかしたいものだ。――巻第19俳諧歌、読人不知)

これらが両首とも「俳諧歌 」――語句に滑稽味のある和歌の一体――に分類されているのがミソなのかも知れません。つまり、どちらの歌主(うたぬし)――歌の作者――にとっても、クチナシの花の色や香りはいっさい関係なく、ただ「口無し」という言葉と地口になっていることだけが興味の対象になっているのです。ちなみにクチナシの語原説の一つは、「実が熟しても開かない」ことにあるそうです。熟れた果実はたいがい割れてぱっくり口を開くものなのに、クチナシの実は頑固に口を閉じたままなのだといいます。拙老も昔、クチナシの花を栞にしてそのまま忘れていたら、いつのまにか実が熟れてしまって、本の頁がダイダイ色になって困ったたことがあります。

どうやらクチナシは、平安時代の人々には花の色でも香りでもなく、もっぱら染料の材質としてしか受け取られていなかったようです。もしかしたら、都人たちは実物の植物を見たことがなかったのかも知れません。「山梔子色(くちなしいろ)」という色名は、濃い黄色に染め上げた襲(かさね)の色目から思い浮かべられたものです。クチナシはアカネ科の植物。根から染料ができます。ですから、『古今』『後撰(ごせん)』と続き、三代集の掉尾を飾る『拾遺集(しゅういしゅう)』――1006年頃成立――にあるこんな一首のクチナシにもだいぶ検討の余地がありそうです。

158  くちなしの色をぞ頼む女郎花(おみなえし)花にめでつと人に語るな (おまえはクチナシの色をしているから口が堅いと思うから頼みにするのだ。黄花の女郎花よ。おまえの花に惚れてしまったなどと人に言うなよ。――巻第三秋、小野宮太政大臣)

この歌に出て来る実在の植物はオミナエシだけで、クチナシは色の名でしかありません。どうやら古典和歌の伝統の流れの中では、クチナシは染め色の名と取るのが本流だったみたいです。時代をいっぺんに何世紀もすっ飛ばして、『古今集』の俳諧歌の流れを汲む江戸狂歌を眺めてみても事情は変わりません。江戸人は徹底的に唯物論、むしろ唯モノ論的な人種ですから、三十一文字の滑稽叙情詩といえる狂歌ですら、すこぶる即物的に発想します。クチナシは今や食品加工物の姿になります。

◯山吹のくちなし飯や盛らんとてお玉杓子も井出の玉川 (大田南畝『蜀山百首』、春二十首のうち)

およそ狂歌の現代語訳をするなぞはヤボの極みですが、この一首には若干の注解が必要でしょう。「くちなし飯」とは、こわ飯を赤飯のように黄色く色を付けて炊き上げたもの。現代のサフラン・ライスみたいな感じです。「山吹の」もこうした色彩感覚です。「お玉杓子」は飯を盛る道具ですが、」ここではもちろん蛙の幼生のオタマジャクシに掛けてあります。「井出の玉川」は古来の歌枕で、山吹と蛙(かつては鳴くカジカを意味していました)の名所でした。つまり狂歌作者太田蜀山人は「山吹・蛙(カジカ)・井出の玉川」という古典的な縁語の系列に「くちなし飯・オタマジャクシ」という日常の事物を加えて新しい縁語を造ったわけです。

さて、江戸も庶民の世界になりますと。狂歌の三十一文字ですら長たらしく感じられます。それに縁語だの掛け言葉だのといった七面倒くさい決まりもだんだん荷厄介になります。十七文字の俳句は手軽で扱いやすいが、さりとて季語やら去り嫌いやらいろいろの約束事が窮屈で叶わないという世論が盛んになってきて、もっと気楽に、気張らずに笑えるものが要望されまして、そのうちに雑俳というものが生まれます。おなじみ熊さん・八つぁん、それに長屋のご隠居さんの世界です。この雑俳の世界でも当然クチナシが題材になります。

くちなしや鼻から下はすぐに顎

なるほど! 言い得て妙ではありませんか。吟じたのは熊さんだったか八つぁんだったか忘れました。ご隠居さんは苦笑するばかりでしたが、内心はひどく感心していたのではないでしょうか。実に論旨明快で、五・七・五の定型に嵌まっているし、文句の付けようはないはずです。俳句の形式的定義(①定型性②季語がある)を満たしながら――「くちなし」は夏の季語です――、俳句とはちょっと違うものをこさえて見せるマゼッカエシの精神は大切にしなければなりません。

話は変わりますが、つい最近、イギリスのEU離脱が国民投票というもっともデモクラティックな手段で可決され、みんな頭を抱えています。デモクラシイの多数決原理が誰の予想も付かない結果を引き起こすこともありうる事態が事実によって証明されたわけです。デモクラシイは不確実性と無縁ではありません。いかなる政治形態とも結びつき得ます。これまで対立概念と思われていたデモクラシイとファシズムも、「デモクラ=ファシズム」という形態で結合することも不可能ではありません。

いずれにせよ、付和雷同がデモクラシイの躓きの石になるでしょう。雑俳のマゼッカエシの精神こそ、現代日本人にとっては心強い味方になってくれるのではないでしょうか。 (野口武彦記)

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