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79歳の未來

今年の6月28日は拙老79歳の誕生日でした。世の中では誕生日を個人的な祝日のように扱うようですが、当人としましてはそう「めでたい」とばかりは言っていられません。先立つものはカネという言葉がありますが、この年齢になると「先立つものは時間」というのが正直なところです。「人生の残り時間」は着実に目減りしてゆくのですから、それを見越した生活設計が必要だと痛感しています。

何にしても、人間は手持ちの札で勝負するっきゃありません。預金残高ならぬ「余時間残高」で最終ゲームに臨むしかないわけです。ところが困ったことには、この残り時間ばかりはあらかじめ計算できないのです。予想することにもあまり意味があるとも思えません。まあ、ゲームは今やロスタイムたけなわであり、夢中でプレイしているうちにいつか最期のホイッスルが鳴るが、当人は気が付かない――そんな風にシアワセに終わるだろうとしごく楽観的に考えています。

若い頃は、文学の諸先達の享年を調べてそれより拙老が長生きしていたら満足でした。芥川龍之介や太宰治などの自殺組は別として――もちろん、三島由紀夫もです――夏目漱石の49,森鷗外の60はとうにクリアーしました。泉鏡花は65歳でしたから、これもいつしかスルー(和製英語ではありません)。とうとう谷崎潤一郎の79歳に肩を並べました。もっとも、拙老は80まで生き延びなければ、記録を抜いたことにはなりません。

こういう年齢になったら、人はいったいどんなことを考えるのでしょうか。うまい具合に、谷崎潤一郎が絶筆になった『七十九歳の春』という文章を書き残してくれています。「当時私自身は、必ず生きて見せるというほど力み返る気にはならなかったし、死んだら死んだで仕方がないと、半分はあきらめるようにもなっていた」と、ごく淡泊に自分の状態を受け入れていたようです。自分がどれだけ死に近づいていたかは、当の本人には案外わからないものだということもありますが、拙老は谷崎のこういう心境になんら虚飾はないと感じます。谷崎は決して嘘を語っていません。

しかし、谷﨑潤一郎よりももっともっと参考になる実例が身近にありました。2015年12月9日に物故された野坂昭如氏です。しかも氏は12年前の2003年5月26日に脳梗塞で倒れ、その後、72歳から85歳まで闘病生活を送られています。幸か不幸かご生前にお目にかかったことはありませんでしたが、拙老にとっては長いこと無関心ではいられない存在でした。野坂氏が2004年から死の直前まで綴った日記が、『絶筆』と題する単行本として刊行されています。何事にも先達はあらまほしきものと申しますから、勝手ながらこれか勉強させていただきます。

「ぼくは、日本の高齢化は一過性のものとみている。昭和ヒトケタ生まれから十歳ぐらい下までが、最期の長生きする世代じゃないか。」(2011年11月某日)

氏はこの年81歳でした。右の言葉が我田引水でない証拠にはその後85歳まで長生きされ、「老境の醍醐味」を満喫されたのです。あやかりたいものです。この予想ないしは予感には拙老も共感します。拙老ら昭和10年代生まれもやがて老熟するでしょう。けれど、「老」いるのは確実ですが、果たして「熟」するや否や。こればかりは公約できないのが悲しいところです

野坂昭如氏といえば、あれはまだ前世紀の末の頃。ある関西の民放のテレビ番組に出演していたのを見た記憶があります。『火垂るの墓』を話題にした番組でした。野坂氏は酔っ払っていました。肉身の妹の死ををモデルにした話で大ヒットしたことに自分は深い居たたまれなさを感じる、という主旨のことを話されたのですが、そんな述懐はとてもシラフで語ることはできない――そのことを感じさせる痛々しい酔態でした。

その番組にはレギュラーとしてよく顔の売れた漫才師が出演していました。女性のコンビもいました。野坂氏が何者か知らなかったのかも知れません。野坂氏がただ酒気を帯びて職場を荒らしに来たとしか見えなかったのでしょう。怒って、憎悪の光さえ目に浮かべて氏を非難し、あまっさえ氏の頭にヘルメットを被せて、みんなで紙の筒でポカポカ殴りました。野坂氏はじっと自己懲罰に耐える風情でしたが、男女の漫才師の表情には露骨な反知性主義がありありと見えました。

この時ほど強く、野坂昭如氏の孤独を感じたことはありません。孤独である限り、この作家がポピュリズムに陥ることは決してないでしょう。(野口武彦記)

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