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蝶の盛衰

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アオスジアゲハの羽化

最近、町中で蝶を見かけることがめっきり少なくなりました。拙老の少年時代には至る所にモンシロチョウやモンキチョウがひらひら飛び回っていました。第2次世界大戦後の東京にはみごとに自然が復活し、一面の焼野原は武蔵野の再来を思わせるほどでしたから、雑草の茂みも、家庭菜園の一部として菜の花畑もたくさんありましたから、蝶類も自然に繁殖できる環境があったわけです。白いのや黄色いのが毎日屈託なげにそこらへんを舞っていました。ヒョウモンチョウという色も柄も地味な種類のもいて、自信なさそうに地面にはいつくばっていました。

今回掲げた写真は蛹(さなぎ)から出たばかりのアオスジアゲハです。芦屋の町では、庭先によく見かける種類にアゲハチョウ科のものが多くなりました。それも普通のキアゲハではなく――カラタチの垣根が少なくなったせいでしょう――カラスアゲハとかこのアオスジアゲハとかを目にします。大型の蝶が多いです。山や木立ちが近いからでしょうか。蝶ではありませんが、蛾の珍種であるオオミズヒキがマンションのドアに止まっているのを見たことがあります。

さて、アオスジアゲハのことですが、この蝶はアゲハチョウ科にはめずらしく、ふだん翅(はね)を閉じて止まるそうです。翅を縁取っている黒い部分は鱗粉ですが、アオスジの名の由来である前翅・後翅をぶちぬく青緑色のベルト一帯には鱗粉がなく、透き通っているとのことです。鱗粉は体毛が進化したものですから、これを発生史的に眺めれば、この蝶の翅は、まん中の大切な部分が無毛状態で、スケスケのスッポンポンでお目見えしているわけです。そういえば、この蝶から華麗な翅を剥ぎ取った後の正身は必死で生きようともがいている裸虫の姿を曝しています。蝶はつくづく全身がエロティックな生き物なのです。肉感的だとさえいえるかもしれません。

昔から日本にはたくさんいたに違いないのに、『万葉集』に「蝶」という言葉は一語も見えないそうです。意外な感じがします。また、「蝶」に該当する大和言葉も使われません。古語では「かはびらこ」といったという実例は『新撰字鏡』『今昔物語』に見つかるということですが、後世に伝わりませんでした。決定的なのは歌語にならなかったことです。『二十一代集』の歌には「蝶」という外来漢語のままで歌われます。ハイカラな趣味だったのです。一例を挙げましょう。『詞花和歌集(しかわかしゅう)』(1144成立)の一首です。

◯百(もも)とせの花に宿りて過ぐしてきこの世はの夢にぞありける

作者は大江匡房(おおえのまさふさ)。当代切っての漢学者・知識人らしく、頭でこしらえた理知的な歌です。踏まえている故事は『荘子(そうじ)』「斉物論()せいぶつろん」の荘周が夢で胡蝶になったという有名な寓話です。文学語としての「蝶」は、こんな風に高尚でちょっとペダンティックな趣を帯びていました。

それにひきかえ、文学以前の民俗伝承や俗信の領域では、蝶は持ち前の肉感的でエロティックな生態から発散する幻想を広げてきました。蝶はいつも死の予感およびそれと背中合わせの繁殖への衝動に駆り立てられて瞬時瞬時を懸命に生きています。少なくとも、そういう必死の姿を連想させます。そのせいか、蝶をめぐる言い伝えにはどこか不吉な影が差すものが多いように思われます。

『虫めづる姫君』という一風変わった王朝物語があります。ヒロインは蝶を愛でるなどという月並みなことはしません。「蝶はとらふれば手にきりつきていとむつかしきものぞかし(蝶は捕まえると手に鱗粉が付いて気色悪いたらありやしない」と言って、自分では毛虫・カマキリ・カタツムリなどを愛玩する女性です。この特異な嗜好には一種屈折した淫乱さ――鱗粉の生臭さへの鋭敏な感受性は、たとえば思春期の少女が父親の下着に示す潔癖症的な嫌悪感を思い起こさせます――などは、間違いなく蝶独特の生態に連動しています。

昔は、大量の蝶の出現は兵乱の兆しと考えられました。『吾妻鏡(あずまかがみ)』の宝治元年(1247)3月の条には、黄蝶が群飛して鎌倉中に充満し、古老は平将門の乱の時もこうだったと不安がったそうです。江戸時代の延宝8年(1680)閏8月6日には、大風雨のさなかに数十万匹の黄蝶が異常発生ました、。暗君(5代将軍綱吉)が出たからだという人もいました(戸田茂睡(もすい)『御当代記』)。宝暦年間(元年は1751)、江戸両国の回向院(えこういん)には多量の蝶の死骸を埋めた蝶塚があった、と大田南畝が 書いています(『金曾木(かなそぎ)』)。この話に信憑性があるのは、弘化⒋年(1847)9月、信州でまっ白な小蝶が死んで天から降り積もり、所によっては』地面に15~18センチも堆積したという記録が残っているからです。しかも一匹がきちんと2つずつ産卵してから死んだそうです(『天言筆記』)。この変な律儀さが蝶の不気味さです。

戦後間もなく、拙老がまだ純粋無垢な学童だった時代のことです。その頃、人々の婚礼はそれぞれの生家で、家族・親戚・近所の衆が集まり、つつましく挙行されたものでした。当時の慣わしに「雄蝶・雌蝶」という役がありました。新郎新婦が飲み交わす三三九度の盃に銚子から酒を注ぐ附添です。10歳未満の少年少女が選ばれることになっていました。ちゃんと小笠原流の礼法にも定められています。その時、雌蝶を勤めた女の子――たしかアサコという名前でした ――とは、それからずっと会っていませんが、どうしているでしょうか。

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