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スティーヴン・キング著 『ジョイランド』

ジョイランドというのは遊園地のことです。21世紀の遊園地はテーマパークなどと呼ばれ、やたらに規模が大きく、スペクタキュラーで、設備にもテクノロジーを駆使した豪華なものばかりが目立ちますが、作中に出て来るサウス・カロライナのジョイランドは、語り手にして主人公デヴィンがいうように、「ディズニーワールドの足もとにもおよばないがそれなりに目立つ広さ」があるくあいの、こぢんまりした適正スケールの、まだどこか牧歌的なところが残ったものなつかしい場所です。ここが一つの青春精神劇の舞台になります。

もっときちんといえば、その遊園地のアミューズメント施設の一つである「幽霊屋敷」で事件は起きます。日本にもよくある「お化け屋敷」みたいなものでしょう。仕掛けだったと思っていた幽霊が本物だったのです。

時は1973年。同じキングが『アトランティスのこころ』で描いたように大学キャンパスで反ヴェトナム戦争運動の波がうねり、また、アメリカン・ドリームが破れて人々が多元的な価値観に分裂して、思い思いの目標を追求し始めていた時代です。ですが、主人公はそうした大問題には関わりを持たず、むしろ平凡に、アルバイトをして学費を稼いだり、手頃な女子学生と恋愛・失恋をしたりと、まあごく普通の学生生活を送ります。この「普通さ」の中に、主人公が目撃し、かつ解決するホラーじみた殺人事件が起こるのです。物語は、40年後の回想という形でなされます。

この小説は一応ミステリーですから、書評にもルールが適用されます。犯人が誰であるかを言ってはならないのです。その点に留意して話題から外し、ここではちょっと意想外かもしれませんが、キングのホラー小説から透けて見える無意識の宗教観いついて考えてみようと思います。

 

何かのエッセイで、キングがぽつんと洩らした言葉があります:自分が書くホラー物の根源には、どうも、幼少年時に教会や家庭で無意識に刷り込まれた悪人が死後行く地獄の恐怖がひそんでいるようだ、と。この「教会」が、どんな宗派、どんな教団に属しているかは、拙老が忘れたのか、そもそもキングが言及していないのか判然としませんが、まあありきたりのメソジスト監督派とか福音派とかだったような気がします。つまり、その下地は意外に「常識的」だったようなのです。そういえば、題は忘れましたが、SF系の作品群には、作中人物が気に入らない奴を超能力で宇宙の外に追放する話がいくつか出て来ました。この宇宙の外というイメージは、そこに光も音も時間もないただの空無の広がりがあるという《絶対外部》の直覚像になっています。その辺地へたったひとりで放り出されるのですから、その徹底性においてこれは地獄の原層です。

また近作『アンダー・ザ・ドーム』では、人間が蟻をレンズで集めた光で焼き殺すように、人類をほしいままに生殺与奪して別に残酷とも感じない超知能を持った高度の宇宙知性体が想像されています。これなども子供の頃さんざん聞かされた神の全知全能がいかにもSF的に造型されているといえます。

しかし幸いにキングの宗教的下地は現在世界中で――もちろんアメリカでも――抬頭しているファンダメンタリズム(原理主義)とは無縁なようです。最近,アメリカの「聖書根本主義派」のうち、「天啓的史観」を標榜(ひょうぼう)するグループの間では「キリストの再臨は世界核戦争というハルマゲドンを経てこそ実現する」という信念が強固に形成されていると言います。同じ主張をしているわけではありませんが、トランプさんなどの言動を思い合わせるとちょっぴり心配になります。

話を『ジョイランド』に戻しましょう。作中には、主人公デヴィンを失恋の痛手を癒やし、命を助け、性的救済まで施して主人公を青春彷徨から抜け出させるアニーという年上の女が登場します。この女性の暴君的な父親が、ゴリゴリの原理主義者のテレビ説教師に設定されていることに、拙老はキングという作家が現今の宗教問題に対して取っている絶妙なスタンスを感じます。「悪魔だって聖書を引用できますから」という作中主人公の言葉には、作者キングならではのアイロニーが篭められていると感じます。(了)

 

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