toggle

女房的肉眼

かつて「女房的肉眼」という言葉がありました

この言葉を最初に使ったのは、第一次戦後派で中堅の批評家だった平野謙です。今ではインターネットで検索すると野球の選手をやっていた人の名前が出てきて隔世の感がありますが、一昔前には泣く子も黙るビッグネームでした。平野謙の文芸時評に取り上げられれば一人前だという通説もできたほどです。拙老なども一度はお世話になったことがあります。「女房的肉眼」とは、平野謙が愛用した批評用語で、たしかどんなに壮大な観念的夢想、緻密な理論武装も、すぐ側で岡目八目的に物事を見ている連れ合いの生活リアリズムの目に晒されるとあえなく崩れ去るという意味ではなかったかと理解しています。
fullsizerender
つい最近のことですが、拙老も荊妻の「女房的肉眼」に水を差されました。他のことではない、前回お伝えした当ホームページへの読者の「アクセス回数」のことでございます。

実は拙老、「アクセス回数」が1ケ月に3000なんぼという数字を見て、根が単純なものですから、それだけの数の読者がいると思ってしまっていたのです。ところが、うちの荊妻が冷たい目でいうには、「アクセス回数からは結局のべ人数しか分らないでしょ。一人で月に4回の更新ごとに見てくれる人もいるわけだから、3000の何割かは4で割らなくちゃいけないんじゃない?」――なるほど、ギャフン。それもそうですね。

と申すような次第で、わがホームページの正確なヴィジター数はいまだ不明、というより不可解です、この1週間のうちにアクセス回数は3500に達し、1日でも150を越えましたが、内訳は以前謎です。多少とも見当の付く①②の既知(?)グループよりも数の上では断然多いのが非特定多数の③のグループです。人々がまるでマネキン人形のメリーゴーラウンドのように、何の声もない奇妙なコロスのようにただそこに存在しているような気がします。

こういうのをプチ大衆社会というのかもしれません。(了)

コメント





コメント

画像を添付される方はこちらで画像を選択して下さい。