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慶応2年にはこうだった

          町奉行市中巡行図(「播磨屋中井両替店記録」、国文学研究資料館蔵)

これは幕末も幕末の慶応2年(1866)9月19日、江戸日本橋の金吹町(かねふきちょう、後の本石町)にあった播磨屋中井両替店近くで見受けられた街頭の光景です。

播磨屋中井両替店は昭和まで続いた中井銀行の前身で、当時は手広く大名貸しなどをおこなって江戸金融の中心でした。折しも、江戸の町には貧窮組が横行し、播磨屋のような富商富豪はいつ自分の店が襲われるかとビクビクしていました。貧窮組は一昔前の打ち壊しよりもはるかに組織化されていて、決して金品を取らず、ただ食料をねだって歩くだけでした。ですがこの頃40万人ほどといた江戸の窮民が米や味噌を求めて街頭に繰り出すのは、幕府に相当な威圧を与えたようで、この日はちょうど町奉行が民衆を説得するために巡行する日取りになっていたわけです。

当日、当番だったのは北町奉行の井上信濃守清直(いのうえしなののかみきよなお)だったらしいことが、同心が掲げている幟(のぼり)の「井桁」の家紋からわかります。この日の巡行がよっぽど心細かったのでしょう、大勢を護衛に引き連れています。上図では左から順に、町役人(名主・家主)2人、金棒引き(かなぼうひき、触れ役)2人、馬に乗った奉行の周囲を与力・同心がぐるりと囲むのはまあ普段通りだとしても、ちと異様なのは、上図から下図にずらりと連なっている多数の人数です。

先頭やや後ろに鼓手に先に立てて、鉄砲の筒先に銃剣を付けて「担え銃(になえつつ)」をしている一隊は幕府の歩兵隊です。奉行・与力・同心の一団を挟んで揃いの笠で整列している集団は別手組(べってぐみ)の面々です。別手組というのは、開国後頻発した攘夷テロに手を焼いた幕府が外国人警固のため、文久3年(1863)「に創設した組織ですが、この頃には江戸の治安維持にも転用されていたらしいです。歩兵隊にしても別手組にしても奉行所は従来通りの警察だけでは不安だったと見えます。

それにしても、町奉行所をはじめ治安当局者をかくも不安がらせていたのはいったい何だったのでしょうか。前日の9日18日に浅草蔵前で外国人を巻き込んだ騒擾事件が起きていました。アメリカ公使ら数人の男女のグループが、こんな時世によせばいのに王子から浅草まで乗馬を楽しんだ帰り、運悪く御蔵前(幕府の米蔵)に群がっていた貧窮組の面々に囲まれてしまったのです。馬に跨がった西洋女の「上から目線」も憎まれたらしい。「こいつらのお蔭で、暮らし向きが悪くなったんだ」「そうだそうだ」と不穏な群衆心理がたちまち広がり、最初はバラバラと、次いですぐ一斉に投石が始まりました。別手組が、職務上やむなく刀を抜き、はずみで近くにいた者にケガをさせます。群衆はいよいよいきりたち、屋根に上って瓦を投げつけます。外国人は馬を走らせてその場を逃れましたが、哀れや遅れた下男は半殺しにされました。別手組の役人は必死で米蔵の隣の米会所に逃げ込みます。群衆は役人が抜刀すると蜘蛛の子を散らすように四方へ逃げ、刀を納めるとまた押し寄せてきたそうです。

こんな具合に貧窮組の面々は日に日に行動半径を拡大し、だんだん今日いう「都心部」に近づいていました。初めに触れた日本橋界隈の江戸金融センターです。そこが貧窮組に蹂躙(じゅうりん)されたりしたら、いわば日銀に赤旗が立つようなものですから、幕府も町奉行所も神経質になったのも当然でした。9月19日 に見せた異様な警備ぶりもそう考えると納得がゆきます。何しろ江戸の治安を維持するためにたんなる警察力(町奉行所)だけでは安心できず、軍隊(幕府歩兵隊)まで動員したのですから。

歩兵隊に銃剣を持たせたことは散々の不評でした。実をいえば、江戸がこんな有様だったにも拘わらず、幕府は西日本で長州戦争(元治元年1864~慶応2年1866。江戸幕府が幕命に従わない長州藩を征討しようとした内戦)を続けていたのですが、どうしても勝てませんでした。戦時インフレで物価が高騰して、人々は米が食えなくなりました。貧窮組騒動もこれが原因でした。それを鎮圧するのに歩兵を使ったのは失敗です。戦争に負けて帰ってきた歩兵たちはは方々で乱暴を働いてただでさえ嫌われていました。「鉄砲を持ったゴロツキ」だという声までありました。そんな手合を警備に繰り出したのですから、評判がよいはずはありません。

しかし世の中の成りゆきはわからないもので、9月19日のこの巡行を境にしてさしもの騒動もやがて沈静に向かったようです。町奉行に説得されたからではありません。幕府が必死になって打った手が幸いにも効を奏したのです。幕府は急遽「御救小屋(おすくいごや)」を建てて5日間で13万人を収容しました。また、日本で初めてガイマイを緊急輸入して民衆の飢えをしのぎました。

そうしたドタバタ騒ぎのうちに年は暮れ、徳川慶喜――ちなみにお江戸ではケイキさんと呼びます。間違ってもヨシノブたあ言いヤセン――が将軍になり(12月5日)、あっという間に慶応3年(1867)になります。その後、主要な歴史のドラマはほとんど京都で起きます。10月14日の大政奉還も京都の二条城でなされました。この1年間というもの、江戸っ子はノーテンキといえばノーテンキでした。慶応4年(1868、明治元年)の3月、官軍が江戸に占領軍として乗り込んで来るまで、誰もまさか徳川幕府が瓦解――江戸/東京では「維新」などとは申しません。必ず「御瓦解」と言います――するとは思っていなかったのですから。

かねてから不思議に思っていたのですが、徳川幕府は1868年のみぎり、なぜああもあっさり権力を手放したのでしょうか。幕末の一連の出来事をつぶさに見て来ると、長い間の不審がだんだん晴れてくるような気がします。政治権力はラッキョウのようなものであり、一枚一枚皮を剥いてゆくと中には何も残らないからなのではないでしょうか?   了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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