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文の本分

〽時ぞ今咲くや五月の花あやめ筋目すぐなる文ふみのいさをし

最近いやなニュースばかりが多い昨今ですが、久しぶりに実にさわやかな話に接しました。読者の皆さんも同感されると思いますが、日大アメフト部で正直に事実をオープンにした若い学生のことです。拙老はこの出来事から、日本の「文」の伝統が根強く生き残っていると感じ、大いに我が意を得たりと思いました。わが国の文運はまだまだ隆昌です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/アヤメ より

文運と申しましたが、そもそも「文」の本義は何でしょうか。考えてみると、この言葉にはいくつもの語意が重層・複合しています。文人などと気取っていても、当人には自分のいったいどこが「文」なのかよくわかってないのです。元々はもちろん漢語ですが、長い年月のうちにいつしか「ふみ」という和訓と分かちがたく結び付きいて使われ、ほとんど区別が付かなくなっています。「ふみ」は「ぶん」の転訛だという説もあるくらいです。「「文」は日本起源のものではありませんから、ある程度まで妥当な説です。

第一に文書とか文献とか「書かれたもの」、第二に手紙(恋文とか文通とか)、第三にある纏まりで思考が表現される一定の言語様式(文章)といったような具合に、語義や用法では相互に微妙につながりあい、重なり合いながらも、それぞれに独立した意味の面積を確保する単語の集まりが「文」であるともいえましょう。

しかし、こうして「文」の語義のいくつもの側面を列挙してみたところで、それだけでは何か大切なものを忘れているという欠落感があることは否めません。「文雅」「文事」「文華」といった一連の熟語がひとしく含意している「みやびな」「洗練された」「垢抜けた」等々のニュアンスです。「文」の反対語は、よくいわれているように「武」なのではなく、もっと古くは「質」――生地むき出し・野性的・素質そのもの――なのです。だいたい「文化」という言葉自体、カルチャーといった静態的な意味以前に、、社会を「文」に「化」するという能動的な語意を持っています。

事の起こりは、やはり「文」の字源にあるようです。「文」の始原は「文身」つまりイレズミだったそうで、それがだんだん描くもの・彫り込むもの・ペイントするもの等々に変わってきました。文字もそこから派生しました。字形が重んじられるゆえんです。文様(模様)も形成されます。「文」字に「かざり」という訓があるのはそのためです。「あや」と読まれることもあります。植物のアヤメも「文目」と漢字表記されることもあります。

「文理」という言葉があります。文科と理科という分類があるように、最近ずっと「文」と「理」とは反対語のように考えられていますが、そうではなくて、「文理」とは本来《文章の筋目》という意味です。「文」とは基本的に、視覚的には「文字」形象の集合(聴覚的な《音韻」連鎖の配列)の形態を取りますが、ただ無雑作に並ぶのではなく、いちばん合理的に文意を結ぶ筋道があります。それが「文理」です。「文目あやめ」の元々の意味です。文飾とか文彩とかの外見の奥底には確固たる「文理」があり、強力な「文勢」が一筋貫いています。

現代日本で最近立て続けに起きている出来事は、まっすぐな筋目――物事のアヤメ――が、国会の多数意見(森友・加計事件)や「事実が確証できない」とする第三者委員会の法理鳥尾(日大アメフト事件)のもとに圧殺され、まさにその圧力のもとで本来の輝きを発する「文理」の実在を人々に確信させる機縁になるでしょう。これこそが「文」の本分なのです。  了

 

 

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