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市原悦子さんを悼む

1月12日に女優の市原悦子さんが亡くなりました。拙老より一つ年上のご年齢でした。感慨ひとしおです。

一つ思い出すことがあります。まだ年号が昭和だった頃の話です。その時分拙老が教えていた女子学生に、お世辞のつもりて「きみは最近市原悦子に似てきたねえ」と言ったら、泣き出されて往生したことがあります。なぜだかわかりませんでした。拙老としては本気で褒めたつもりだったのです。長い間、市原悦子はわが憧れの舞台女優だったからです。

人に相談して、やっとワケがわかりました。若い女性ーー1985年に20代だった世代ーーにとって、市原悦子といったら「家政婦は見た」のオバサンだったのです。一方、拙老の脳裡にあったのは、自分がもっと若い頃、東京六本木の俳優座劇場の舞台で見た『ハムレット』のオフェリアであり、フランスの風俗喜劇『クルヴェット天から舞い降りる』の可憐な娼婦役だったのです。楚々とし、ホッソリスラリとしていました。その後テレビで有名になってから見ていません。

神戸に来てから数年後、地震前の国際会館にあった劇場の楽屋で会ったことがあります。『しんげき忠臣蔵』の公演中でした。市原さんはお軽の役でした。たしか『袴垂はどこだ』の作者、福田善之氏と一緒だったと思います。市原さんに紹介してくれましたが、他の座員たちはあまりよい空気ではありませんでした。当時はまだ、60年安保闘争の傷跡が濃厚に残っていて、若い役者連がみなブンド(共産主義学生同盟)色に染まっていました。鏡の前でメイキャップをしていた東野 英治郎ーー後にテレビドラマ『水戸黄門』で主役を演じますーーが「野口武彦か!」と吐き捨てるように言ったのを覚えています。

それでも憧れの女優に会えたので夢中になって、拙老は「いつかあなたに戯曲を書いて捧げます」と口にしたことを思い出します。市原さんは「マア嬉しい」と言ってくれました。あれから50年が経ちましたが、拙老はまだその約束をはたしていません。あの年『しんげき忠臣蔵』の頃には、その後自分が『花の忠臣蔵』を書こうとは思っていませんでした。読んでいただけたかどうか分りませんが、市原さん、これは書けずに終わった戯曲に変わる、せめてもの一本刀土俵入りで ござんす。   幕