toggle

ライン「俳友グループ」開通お知らせ

◯歌仙連衆の一人に慫慂しょうようされてラインというものを始めてみました。ラインじゃないと拙生のブログが読めないなどとヌカスので太いフテエやつだと思いましたが、やてみると結構便利なものです。ただ妙なスタンプを貼ってくるのには閉口します。今の所は5人だけですが、あと少しは増やそうと思います。更新されたブログはグループには届くことになりますが、「ブログへの返信」はどうなるのですかねえ?

◯このたび三山子を「俳友グループ」にお迎えしようと思います。三山子はラインが苦手なので当分の間客分メンバーということになります。グループの皆さん、よろしくお願いします。

桃叟が三山子と接触するのは50年ぶりかと思います。東西にかけ違ってずいぶんになりますが、今でも最初に出会った頃のことを鮮明に思い出します。1958年の春でした。その頃、学生運動は低迷期にあり、W大学文学部の自治会室には誰も寄りつかず、閑古鳥が鳴いていました。そんな折、まだ細っこかった――彼がボクシングの猛者だったことは後で知りました――三山子と、仏文科に進んでマージャンの名人になったN君とのコンビがふらりと自治会室に現れてタテカン作りを手伝ってくれました。

それでゲンが付いてだんんだん人が増え、初めは2人だったのがでもが組めるまでの人数になり、ついに1960年の安保闘争の盛り上がり――大学だけで3000、神宮外苑で50000、国会デモに10万――という数に膨れ上がりました。鰻登りでした。それ以来、物事には波があるということに確信を持ちました。

それからざっと60年。桃叟は82歳になりました。三山子はちょっと若いくらいでしょう。この期間何をなさっていたのかよく知りませんが、俳句を修業されたと見えて、桃叟の連句グループに接触して来られました。下地は一句立ての俳句で、桃叟らとは多少流儀が違いますが、いい刺激になるでしょう。

ですが、同時に桃叟には60年前のゲンをかついでいる所があります。いくら「オイラあ年ア取らねえ」などと強がっていても、傍から見れば老翁に映るかも知れない。なるほど今の瞬間、まわりは人少なだけれども、このゲンにあやかって「夢よもう一度」ではないが、また再度の波の高まりが見込めるのではないか。

現実に戻りましょう。われらは60安保世代の、いや、60年に始まる20世紀思潮の空気を21世紀に持ち伝えられる生き残りです。北小路も唐牛も西部も死にました。黒羽もいなくなりました。井汲も高橋も亡き人になりました。生き残った面々にもそれぞれすることがあるでしょう。あいつは今何かしているらしい、と思うだけでも励みになりましょう。

生き残った個々人は「点」にすぎませんが、点と点を結べば「線」になります。たとえ「面」は無理でもこのくらいはお互いの助けになるのではないかな? 「俳友グループ」とは、決して等質な人間のアンサンブルでなく、何かと突っ張り合う、個性なんてものではない孤立した「点」どもが「線」でつながったものの集合なのです。

◯次のブログで、『囀りに』初ウ4を治定して次に進みます。  了

コメント





コメント

画像を添付される方はこちらで画像を選択して下さい。