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デカメロンと連句

とうとうWHOがパンデミックを宣言しました。昔の日本人が軍記物で不慮の最後のことを「もしも自然じねんのことあらば」と表現した自然=無常の感覚が日常化してきたようです。

今は「歴史的緊急事態」なのだそうです。方々でイベント中止やら日常業務の休止やらのニュースが伝えられ、世間は騒がしい限りです。それよりも拙老のブログにもラインにも便りがふっつり来なくなったことが、世の中の異変をしみじみ実感させます。寂せきとして声なきありさまです。無理もない。皆さんはまだ現役なのですね。

拙老は現在なんだか『真夏の夜の夢』に出てくる妖精パックのような視点から世の「緊急事態」を眺めている気分ですが、どうか、今回のコロナに感染したら致死率80%と言う年齢に免じて御勘弁下さい。あるいはこうも申せましょう。今日の事態は数学的帰納法でゆけば精神的に切り抜けられるのです。n回目まで何度もピンチを潜り抜けてきた。∴n+1回目もダイジョブに違いない、と。

こんな御時世にこういうことを書いたら不謹慎だと叱られるかも知りませんが、14世紀に世界でペストが大流行した時、イタリヤ人はフィレンツェ郊外に閉じこもってデカメロンを作りました。

デカメロンに描かれた人々は愛欲のエネルギーをバネにして、世を覆う疫病の恐怖を克服したのだといえますが、もちろんこれは絵空事です。しかしここには、一般に「世界史的危機」の時代が到来し、またそれが現実として誰にも体感されている状況の下で取られる人々の反応の基本型が示されています。語られるのは色欲ばかりではありません。物欲も金銭欲も、要するに生命の危険を前にしていよいよつのる我執がいっせいに揃い踏みするわけです。

デカメロンというのは、もっぱら好色文学として知られています。拙老は小学生のみぎり人に借りて読んだが、サッパリ分からなかったのを思い出します。それなのにえらく怒られて割に合いませんでした。今にして思えば、ずいぶんマセタ子供だと思われたに違いありません。誤解です。拙老はまだ思春期前でしたが、何かイケナイことが書いてあるとはうっすら感じていただけです。

さて、21世紀の日本人はどうしているのでしょうか? インターネットを見たら、こんな俳句が投稿されていました――「春眠やコロナウイルス寝るが勝ち」というのです。たいへん失礼ですが、こりゃただの川柳ですね。昔、若い頃の永井荷風が『冷笑』で、日本の風土をすべて「川柳式のあきらめと生悟り」で事に当たろうとすると八つ当たりしていたのを思い出します。ただグウグウ惰眠を貪っていれば、疫病は自然に過ぎ去るだろう、というのはちょっと覇気がなさすぎるのではないでしょうか。

時疫は天変・地異・人災のどれに属するのでしょうか。いずれにせよ乱世の道具立ての一つでしょう。こういう一種「特異点」的な時代には、あたかも地球が彗星の尾の中を通過でもするかのように周囲が不思議な光気に包まれ、人間の感受性は異様に研ぎ澄まされます。ふだんは気が付かないような事物への感覚が開けるのです。

生活する、生計を立てる、生動するといった「実在」レヴェルではなく、いわば「実存」しているという次元での生存感覚が芽生えるのです。それよりも自分が「存在」している生なまの実感かもしれません。その特別な実感の現れ方は人によってさまざまです。

たとえば、権力者が強力な権限を掌握したがるのも現在が「例外状態」であるという意識の現れです。が、よほど用心しないと個人的な権勢欲がすぐに忍び込みます。世界各地で最近とみに顕著な要人たちのつきせぬ我執です。某国現首相のことはさておき、習近平はこの頃何となく秦の始皇帝に似てきました。

そういう乱世には、川柳でも俳句でもなく連句が何よりも力になります。五七五の韻律が問いかけ、七七の韻律が応じる。およびその逆。言葉の意味よりも音韻が心を通じ合えるのです。〽つくばねの道ぞゆかしき春の暮、〽木の芽ふくらむこぞの踏み跡。

 

 

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