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わがポスト・パンデミック――烏化佯仙(うかしょうせん)

お久しぶりです。世が世ですから、世の中で何か画期的なことが起きているのかと思って待機していましたが、人間社会では何事も起きていないかのように事態を処理しているみたいですので、仕方がないから自前で「ポスト・パンデミック」の世界に対処することにします。拙老の周囲でいちばん身近なのは介護の皆さんの社会ですが、ここではコロナと熱中症が同程度に危険だということで、やたら水分ばかり取らされて閉口しています。

何でも今回の時疫の特色は、無症状で強力な感染力を持つヴィールスを蔓延まんえんさせていることにあるそうです。無害に偽装する戦略ですね。ヴィールスも生き延びるために必死で、突然変異のかたちで遺伝形質を発現させているのです。人類も急いで「進化」しなくてはとても追い付きません。

とはいっても、拙老一代のうちに突然変異するのは無理ですので、せめて頭の中で想念をまとめてみようと思います。拙老が最近夢想しているのは、次の画の中の猫のようなイメージになりきることです。これは有名な『不思議の国のアリス』に出て来る《チェシャ猫」の挿絵で、御覧のとおり猫の身体を透かして葉の茂みが見えています。アリスは言います:「あれれ変だわ。笑わない猫はしょっちゅう見るけど、猫がなくて笑いだけ見えるのは初めてだわ」。http://www.alice-in-the-wonderlander/resources/pictures/cheshire-cat/

つまり、猫の肉体は消えて、笑いだけが残っているのです。具体性のない抽象的存在なのです。よく「背後に実在のないアイデア」のたとえに使われるイメージです。こんな具合に、みずからはただの無機的な抽象物と化して下界をニヤニヤ眺めながら余生を楽しんでいるのが拙生老来の日々です。

しかし物事はそううまくは運びません。一たび人間じんかんに生まれたからには、否応なく有機物が混じり込んでいて、スッキリ風化できないのです。わが東洋の伝承では「羽化登仙」といって、白い羽根が生えて鶴に化身し、俗塵を去って悠々と仙界に飛翔することになっています。死んでも完全に気化して遺骸などは残らないそうです。

これにあやかろうと、拙老も日々仙道修業に励んでいますが、芸が未熟なものですから、どうしても思うように羽化できません。できるのは「羽化登仙」ならぬ「烏化佯仙カラスになって仙人のふりをする」くらいのものです。最近この界隈で見かける烏たちにとみに親愛の感情を抱くようにありました。次の写真は、ヘルパーさんが撮ってくれたものです。

えらく自信たっぷりの顔をしています。あわてず、騒がず、ゆっくり急がずに時間を待とう。いずれ人間たちは滅びていなくなり、俺たちはこマンションの主人になるのだ、とうそぶいている感じです。写真のタイトルは「あるじ顔の烏」です。

ポスト・パンデミックの世界では、地球上のあらゆる生命体の距離が縮まり、たがいの差が狭まることです。人間と烏の差などは知れたものです。平均サイズも百何十センチメートルと何十センチかとの違いにすぎません。コロナ・ヴィールスの体長は1万分の1ミリ(100ナノメートル)程度だそうです。桁の大小が違うだけで、同じ尺度で測れる相手なのです。肉眼では見えないのですが、サイズの差を越えてその実在が確かに感じ取れます。

これからの――ポスト・パンデミックの――世界は、今まで目に見えなかった、あるいは、たんに見えないというだけの理由で無視されてきた地球上の生命存在たちがけなげに自己主張する時代が到来すると思います。生命体という有機物が細胞膜を距てて嬉々として交感し合っているのです。

そう思って眺めると、身の回りにはいろいろな生命たちがひしめいています。昆虫はみなチャンス到来と出番を待っています。

左のバッタはいかにも罪のない顔をして草の茎を囓っていますが、ケニアではお仲間が2億匹発生し、穀物を食い荒らして中近東からアジア大陸へ移動中とのことです。さしずめコロナバッタでしょう。旧約聖書の『出エジプト記』に見える蝗害の再来です。人類と微生物の体長差が物の数ではないスケールで考えれば、古代と現代の時差などはほんの一またぎにすぎないのです。

右の写真は、友人が朝の散歩で久しぶりに見かけた生きているタマムシです。嬉しそうに触角をうごめかしていたそうです。そういえば拙老も長いこと箪笥の中で干からびている死んだタマムシしか見たことがありませんでした。日が当たれば美しく輝きます。もちろん玉虫色に。今日、東京ではアラートが解除され、赤色が消えてレインボウブリッジが虹色に照明されました。本当は玉虫色なのです。 畢

コメント4件

 綺翁 | 2020.06.28 22:22

日本古代の語り部的呪術者達やその親玉は様々な鳥たちを自在に操り使役し情報収集や邪魔者征伐をしていたという話です。先生もそろそろその境地に達しつつ在られるような気がします。我らには難しいですが何とか追っかけます。どんどん行ってください。先生にはもう誕生日の日付や年齢は意味のないものになっている気がしますが一応長生きおめでとうございます。

 ugk66960 | 2020.06.29 20:37

最近なにかと烏に親しみを感じることが多くて、俳号を「桃烏(とうう、モモイロカラス)」にしようかと思っていたが、テレビではコロナ禍と連動する社会の敵になりつつあるかを見て、やめにしました。わが身には何の変調もなし。ヴィールスにも見放されたのか、罹っていても自覚症状がないのかどちらでもよいという境地です。呵々

 金子伸郎(のぶお) | 2020.07.09 14:56

この三月くらいにサイトを発見して、古い書き込みもふくめ、拝読させていただいています。
本文内容にはあまり、関係ないのですが「佯」の読みは「よう」(ヤウ)であるように思います(典拠『字源』)。

このあともお大事にお過ごしください。Stay safe and stay healthy.

 ugk66960 | 2020.07.12 15:36

お初にコメントをいただきました。一面識もなき老生ごとき者のブログに御寓目下さったこと大変恐縮です。もしや扶桑社にお勤めの金子伸郎さんと同一人物でいらっしゃるでしょうか。それはさておき、貴台のコメントは、拙文中」で「佯」字をシャウと読んだのに対し、『字源』に依拠しつつ、これはヤウと読むのが正しいのではないかというご指摘でした。
 老生はいい年をしてけっこうマケズギライですので、さっそく『字源』はもとより諸橋轍次『大漢和辞典』・白川静『字通』・藤堂明保『漢和大字典』などを端から点検してみましたが、諸辞典いずれも参照する『説文解字』の用例中に「佯」をシャウと読んでいる語は一例も見当たりませんでした。どうやら当方のミスだったと認めざるを得ないようです。
 しかしです。転んでも只は起きない老生は、決して負け惜しみではなく、このミスがかえって「怪我の功名」のきっかけになるのではないかと考えています。「佯仙」という造語では例外的に「佯」をシャウと音読しても構わないのではないか。「羊」を旁(ツクリ)とする漢字には古来音(オン)をヨウと読むものと並んでシャウとする系列が牢固として存在します。「祥」「詳」「翔」「庠」のごとし。ヒツジ偏(へん)に声符(しょうふ)シャウを付けた形声文字とするわけです。『字源』系の解字ではだいたいそうで、それもそのはず、根底には白川静の浩瀚な字源理論の体系があります。たとえば「祥」字の説明に「羊神判によって吉凶を判ずることから、その意となったものであろう」とあるように古代中国の習俗にまで遡る背景が広がっています。が、そのいわゆる白川文字学の基本にあるのは、どこまでも「羊」字の字形に見られる、ヒツジの象形(しょうけい)視覚心象です。白川学は原理的に「字形学」なのです。
 白川静の盛名が轟いたのには、あの全共闘の時代、学生に封鎖された立命館大学で研究室に閉じこもって剛毅に学問を続け、周囲から一目置かれたという逸話が示すような理由もあります。それにつけて思い出すのですが、実はそれよりも一時代古く、東大紛争のさなかに辞職し、1985年に世を去った藤堂明保という学者がいました。いわば聴覚心象に徹底する立場から、伝統的な文字学ではなく、字音の異同を重視し、字形が異なっていても字音が同じであれば何らかの意義の共通性があると考える「単語家族説」を提唱したのです。古代中国ではたとえば後世シャウとヤウに発音が分化する以前の|*?アウ|としか表記できないような原音があったはずだということになります。老生の記憶では、「母」という語はボともモとも発音しますが、これも古くは[mbo]という原音があったと考えればよいという講義が強く印象に残っています。mとbとを同時に発音するのです。なるほどと蒙を啓かれた思いでした。現代人にはとても発音できない奇怪な音声だったかもしれないが、今は地上から失われた幻の音韻がかつて実在したはずです。シャウとヤウの場合についても、そんな音韻を想定できないものでしょうか
言葉とは何よりもまず、耳で聞き、口で話して、相手に伝えるものです。脳出血このかたロレツが怪しくなり、発音・発声筋肉に不自由を覚えている昨今、しみじみと言葉の聴覚性を痛感します。――どうかお読み捨て下さい。
 

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