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メソパンデミアのさなか

老懶の身には時疫も寄りつくまいとタカを括っていたら、7月27日に発熱して体温たちまち39度1分に駆け上がりました。こりゃてっきりコロナか?とびっくりしましたが、熱冷ましを飲んだら、幸いすぐに35度9分に下がり、いつも熱が出たとき天井に文字が浮かび出て見える視像も消えました。主治医の診断では腎盂炎だろうという見立てで抗生物質を処方してくれました。枯桃はウイルスからも敬遠されるようです。

人間界を見渡すと、どうやら世界の為政者は、現今のいわゆる「コロナ禍」を基本的に押さえ込み可能、つまり一過性の災厄と見なして何とか切り抜けられると段取りを付けたようです。国家指導者の間にも、ドイツのメルケル首相(危機をきちんと危機と見る)からブラジルのポワソナーロ大統領(危機意識などまるでなし)までの幅があるわけですが、それらの根底には共通してある種の奇妙な楽観が見られます。被害の度合はまちまちでも、いつかは終熄して「コロナの世界」が到来するという予想が共有されているのです。

この「楽観」は、いつか引いた人類学者ダイアモンドの「感染者は、短期間のうちに、死亡してしまうか、完全に回復してしまうかのどちらかである。そして、一度感染し、回復した者はその病原菌に対して抗体を持つようになり、それ以降のかなりの長きにわたって、恐らく死ぬまで、同じ病気にかからなくなる」(『銃・病原菌・鉄』)という超客観的で、ある意味突き放したような冷厳な指摘に裏打ちされているのですが、およそ為政者たるものが無神経にそのありのままを口にするわけにはゆきません。死ぬか回復するかはあなたの運しだいだ、ということにもなるのですから。「楽観」は現実の冷厳な側面を忘れさせ、あるいは現実から目を逸らさせ、ひどい場合には「コロナ利権」の温床になりかねないのではないでしょうか。

読者の皆さんは、次のような評語を見て、どうお感じになるでしょうか。

1.近寄るな―――咳する人に

2.鼻口を覆え―――他の為にも・身の為にも

3.予防注射を―――転ばぬ先に

4.うがいせよ―――朝な夕に

これらの評語はどれも尤も至極で、たとえ令和2年のコロナ蔓延に際して安倍内閣から布告されたものだいっても誰も否定しないでしょう。ところが実を言えば、これは大正9年(1920)2月7日、内務省衛生局がインフルエンザ猖獗のみぎりに発行・配布した「流感予防」の文言なのです。このとき印刷されたポスターの見本も残っているから紹介しましょう(平凡社東洋文庫773『流行性感冒』所収)。

 

 

 

 

 

 

 

このポスターは1920のもので、今は2020ですから、ちょうど百年経っているわけですが、してみるとわれら日本人は髪型や服装が違うだけで、どうもまったく同じことを繰り返しているみたいです。

大正8‐9年(1919‐20)にインフルエンザが大流行したした時代には、病源がウイルスであるとはまだ知られていませんでした。内務省衛生局も「『インフルエンザ』の病原問題は猶お未解決なり」と断定しています。

現代ではウイルスが発見されて、その正体は知られていますが、だからといって問題が解決したわけではありません。相手は次々と突然変化を重ねて医療で簡単に退治されるような弱点を露呈しない。このコロナ・ウイルスは、宿主が死亡したら寄生している当のウイルスもただちに死滅しててしまうことを「知って」いて、わざと非致死性の弱毒にとどまる「狡知」を示すのです。この擬人法は果たしてたんなる修辞なのでしょうか。それとも、われわれ21世紀の人類が遭遇する新しい種類の「知能」なのでしょうか。

そもそもウイルスが生物であるかどうかについても議論百出だということです。それ自体は細胞を持たず、宿主の細胞に侵入してしか増殖できない寄生体であるから、生物ではなく「生物学的存在」と呼んでおくのが適切(マシューズ『生化学』)とされているそうだが、もとより這般の事情は拙老ごとき門外漢が口を出す領分ではありません。それよりも大切なのは、このところ立て続けに人間の周辺で起きている、一見些細ながら重大なな意味を持つと実感される一連の事象に気が付くことだろうと考えます。今のような時期には、何よりもこの実感がすべてです。

メソパンデミアの世紀は、われわれ人類のみを機軸に据える発想枠を外側から大きく揺さぶっています。最大の実例がコロナウイルスでしょう。相手は生物でもないのに、「悪意」「悪知恵」としか見えない意思をもってわれわれに対抗する。繁殖の手段を取ることなく増殖する。つまりわれわれはここに「生命」とか「いのち」とかに準ずる存在物を想定せざるを得ないのです。少くとも、明らかに「亜生命」「ほとんど生命体」「いのちモドキ」のたぐいがわれら人類の近傍では連続的に繋がってひしめいている図が目に浮かびます。

こんな風に感じ始めると、日常寓目の風景も違う光に照らされて見えて来るから不思議です。

この写真は、読者の皆さんにはすっかりおなじみの恐竜山の跡地の新聞広告を転写したものです。跡形もなく開発され、広大な住宅地として売られています。これは鳥瞰写真ですが、拙老にはなぜだか上空を舞っているカラスの視点から地上を眺めたもののように思えて仕方がないのです。カラスたちは三々五々群れ集って、慌てず焦らずゆっくり羽根を動かしながら、眼下の土地は人間滅亡の後いずれ自分たちの巣になることを確信して、カアカアと呼び交わしているに違いないのです。

もっと身近な所に目を転じると、水辺にはカエルを探すシラサギがたたずみ、庭の隅にはなぜかいつも忙しげなトカゲが出没します。

 

 

一昔前までは市中あちこちに池や田があり、サギたちも多かったのですが、今ではどこかの森から川べりに飛んでくる姿はだんだん希少価値になります。トカゲたちは平和にカサコソ暮らしています。が、人間社会の情勢も反映しているらしく、ドウセ俺タチャアいつか切り捨てられるんだと、今から尻尾の色を変えているのが哀れです。 尾。

 

 

 

 

 

 

 

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