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桃叟だより

[皆さんの声をお聞かせ下さい――コメント欄の見つけ方]

今度から『野口武彦公式サイト』は、皆さんの御意見が直接読めるようになりました。ブログごとに付いている「コメント欄」に書き込んでいただくわけですが、
同欄は次のような手順で出します。

トップページの「野口武彦公式サイト」という題字の下に並ぶ「ホーム、お知らせ、著作一覧、桃叟だより」の4カテゴリーのうち、「桃叟だより」を開き、右側サイドメニューの「最新記事」にある記事タイトルをどれでもダブルクリックすれば、その末尾に「コメント欄」が現れます。

そこへ御自由に書き込んでいただければ、読者が皆でシェアできることになっています。ただし、記入者のメールアドレス書き込みは必須ではありません。内容はその時々のブログ内容に関するものでなくても結構です。

ぼくとしては、どういう人々がわがブログを読んで下さっているのか、できるだけ知っておきたいので、よろしくお願いする次第です。以上

2019-06-20 | 日暦, 桃叟だより

先賢名言集

昔の人には先見の明があったのでしょうか。それとも歴史は繰り返すのでしょうか。何百年どころか、何千年も前の古い言葉には、今の事が言われているような気がします。


鞠躬如也、如不勝。(論語・郷党きょうとう編)

きくきゅうじょたり、たえざるがごとし――――鞠まりのように身をかがめて恐れ入り、センセンキョウキョウとしている様子をいう言葉です。


憎まれっ子世に憚る。(江戸いろはかるた)――――特にコメントの必要なし。


敵は本能寺にあり。(明智軍記)――――その瞬間、男の胸には自分も天下を狙えるという野望が兆したのでした。


 

 

 

 

非復呉下阿蒙(三国志・呉志)

またごかのあもうにあらず。――――もういつまでも田舎のオッサンじゃないよ。

 

 

 

 

 

 


巧言令色鮮仁。(論語・学而篇)

こうげんれいしょく、すくなしじん――――故タカジンが菊人形にしたい顔だと言っていたのを思い出します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

上下交征利而國危矣。(孟子・梁惠 王りょうのけいおう

しょうかこもごもりをとりてくにあやうし――――誰も彼もが利得に目の色を変えるばかりだったら、国は亡びますわよ。

 

 

 


 

 

*       *     *     *

みんな古言古辞です。文責先賢。桃叟妄語。  完

2019-06-13 | 日暦, 桃叟だより

『野口武彦公式サイト』の画面一新!

オープンページを開いたら、右側サイドメニューの一番新しい(一番上にある)タイトル――現在は〈『野口武彦公式サイト』の画面一新!〉がそうです――をダブルクリックして下さい。そうすると自由に投稿できる「コメント欄」がページの末に出ます。

そこへ何でも気楽に書き入れて下さい。お名前は仮名(俳号、狂号、戯号、芸名etc.何でもOK)。高校・大学の同級生の皆さん(まだ生きていたら)ヒヤカシをどうぞ。ナントカの冷や水同士です。わが教え子たちよ。呼び水になってくれ。お願いします。

2019-05-31 | 日暦, 桃叟だより

新規おひろめ 本ブログが 双方向に変わりました!

決意というと大袈裟ですが、ちょっと改まった心持ちを述べようという時、昔は特定形式の文章で書き表しました。その形式を「文体」といいます。陶淵明の「帰去来の辞」、蘇軾 (そしょく) の「赤壁の賦」、諸葛孔明の「出師の表すいしのひょう」などがそうで、「辞」「賦」「表」はそれぞれ文体のジャンルです。拙老にとっては今がその時に当たります。どの体を選んだらよいでしょうか。「表」は、「君主への上奏文」と定義されます。拙老は別にアルジモチではありませんが、このブログを読んで下さる皆さんへのきちんとした意思表白という意味では「上奏文」といえますから、「表」の形式を借りることにし、『老春の表』と題することにしました。題に篭めた心は次の3首のごとし。腰折れは御容赦  

老波はいづこの岸に寄るやらん目路に文あやなす水脈みをの跡先

夜をこめて沖の波風荒くともいざいで立たん文の防人さきもり

時こそあれ深山みやまに花を尋め行かんこぞの枝折をたどりたどりて

 

気が付いたら80歳になっていました。日本人男性平均寿命は81.09歳とのことですから、拙老ももうあんまり悠長にしてはいられないわけです。そろそろ残り時間のうちにやっておこうと思う仕事に、あらかじめ目星を付けることにしました。今のうちにやっておきたいことは、わが国の書きことばを保存し21世紀後半にまで持ち伝えることです。前世紀末から今世紀にかけて進行している、すさまじいばかりの言語破壊現象  言葉の無機的記号化・標識化・符牒化、洒落ならぬダジャレの濫用、微妙な言い回しの衰滅、ツイッターと称する電子的オシャベリの盛況、etc. ――が起きた原因はいろいろあるでしょうが、煎じつめれば聞きことばの氾濫に帰一すると私見では愚考致します。コトバをただの音声連続として聴取するだけ、「外声がいせい」としてしか聞こえなくなっている   「内声」がない  ことが弊害を生んでいるのです。(このことは長くなりますから、いずれ席を改めて申し上げます。)

今回このホームページを双方向にしたのは、最近、奇特にも本ブログを寓目して下さる読者  それとも訪問者というのでしょうか  がどんな人たちなのか掴んでおきたい気持がつのって来たからです。話が通じているのでしょうか。拙老としては、おおまかに言って、3つのグループに分けて把握しているつもりです。

①拙老と世代を共にしている人々。いってみれば「六〇年安保」組です。本当をいうと、語りかけるのがちょっと遅すぎたかも知れません。しだいに幽冥所を変えた人々が多くなって、拙老などは「生き残り」の仲間に属します。この年代層だけが体感できた時代の合わせ目のようなものを、もっと語り明かすことができるのではないか、という気がしています。唐牛健太郎は早死しました。北小路敏も世を去りました。青木昌彦も西部邁も亡くなりました。生き残った面々が、このまま黙って埋もれてしまういわれはありません。

②次に考えているのは、思い切って射程を広げ、まだこの世に生まれていない読者に呼び掛けることです。いわば未生の知己へ発信しておくことです。現代日本の《言語衰退》  文運隆盛の反対概念のつもりです  ぶりは当分の間ずっと下降線をたどり、やがてスッテンテンになるでしょうが、その索然砂を噛む時代をみずからも粘菌の胞子のように渇いた原形質と化してひたすら時世に耐え、今はどこかに飛び去っているコトダマが戻って来るのを待ちかねていることを拙老は確信しています。いや、そういう「見ぬ世の友」がどこかにいると直感できます。

思えば、文学の相場が下がった時代  雑書の多量販売とおおむね反比例します  は何度もありました。江戸時代だけに話をかぎっても、天明のピークの後、文化文政・天保・幕末と尻下がりが続きますが、やがて明治の文芸興隆期を迎え、戦争の時代に低迷し、また戦後文学の開花期を迎えました。逆説的になりますが、文学が「丈高く」なるには、前世代の人々が浸っている文化的現状に絶望し、呆れ果て、コリャイカンと気を引き締めるのが前提であるような気がします。してみれば、近い将来のスッテンテンにも、あたかもある種の貝殻成分のうちに真珠が育まれ、地底の岩層のすさまじい重圧がダイヤの原石を結晶させるかのように、環境整備の意味があるのかも知れません。

③最後に、拙老が大学勤務時代に接し、その後も何かとつきあいのある、いわゆる「教え子」たちのグループがいます。前後35年間一つの大学にいたわけですが、今振り返ってみると拙老はあまりいい先生ではなかったように思います。そもそも拙老は学問を教えるのが苦手でした。本を読めば覚えられることをワザワザ教室で習う必要はあるまい、というのが拙老のスタンスでした。当ての外れた昔の学生さんたち、ゴメンナサイ。そのかわり拙老はおよそあらゆる文学の根底にある「情感」を力の及ぶ限り伝えて来たつもりです。「情感」とはすぐれた文学を読んだ時、心の底から駈け上がって全身を揺さぶる、ナマモノの感動のことです。文字通り「動かされる」のです。幸福感・達成感・満足感のきわみにふと兆す「かなしさ」だといっても構いません。(「かなし」という日本語を語根的底層にさかのぼってみると、たんに悲哀を意味するだけでなく、親愛・愛惜・感慨といった領域まで幅広い意味成分を持っています。民俗学者によれば、稀少・珍奇の語義もあるそうです。)

もちろん拙老は「教え子」の皆さんに一緒に「文の防人」をやろうよ、とお誘いしているのではありません。八十面下げて「小説」をめざそうというクレージーな老翁につきあういわれは誰にもないことはよく分かっています。ですが少なくとも、旧師はかなりホンキデ現在の言語状況に危機意識を持ち、なんとか貧者の一灯を献じたいと心願を立てた八十翁であると御承知おき下さい。

終わりに、謙遜が足りないかも知れませんが、恥ずかしながら「己亥改元三つ物」をお目に掛けて、わが心意を披瀝しておこうと思います。

    発  囀りにわが耳籍さん老の春

    脇   ぬくもる潮に芽ぐむ葦牙

    三  遠干潟貝掘る人はまばらにて

どなたか第四を付けてくれませんか。場合によったら新しい歌仙に繰り込みます。しかしこれもまるで心得のない人に強制はできません。本ブログを御覧になって、老いの心意気を少しでもお感じになられるようでしたら、新設ブログ欄にどうぞ御鶴声くだされば幸甚です。桃叟敬白。

 

 

 

2019-05-14 | 日暦, 桃叟だより

令和政界くるわことば

われらが精神風土には江戸時代このかたの牢固たる「様式」があります。江戸っ子風にいえば、「型」ってえものがありやす。気に染まないこと、カッコウの悪いこと、食指の動かないことは頼まれてもやりません。サマにならないこはゼッタイにやらないのです。「江戸っ子はソウイウコトハシネエ」というのが長いこと唯一の、しかし強力なエトスでした

その江戸人は、歴史の変わり目ーーたとえば改元の年などーーごとに、時の政治家連があくせく奔走する政事に対して、みごとなデタッチメントの距離を保ちながら、これを「わるくち」という文芸ジャンルの様式で突き放す習わしになっていました。「わるくち」は決して世の常のワルクチ、ありきたりの悪口雑言ではありません。又の名を「里ことば」とも「郭言葉」ともいい、遊郭の女郎衆が嫖客と床の中で洩らすツブヤキの形式による洒落た風刺文学です。すべてこれい立たせる励ましあり、手管あり、思わず出てしまうホンネの吐息あり、と間然するところのない江戸前のツイッターです。

実物は以下のごとし:

[オヤ大きいねえ] 菅官房長官

[入れたり出したり気が揉めるヨ] 消費税増額

[また立ったよ] 石場元幹事長

[たいそうに出したねえ] 二階幹事長

[まだ届かないよ] 枝野立憲民主党代表

*   *   *   *    *    (了)

2019-04-01 | 日暦, 桃叟だより

戒元令

2019年四月1日am11:30。本日改元の儀あり。いつも暗い表情で冴えない顔をしている内閣官房長官が、今日ばかりは晴れやかな顔つきをして、額縁を掲げてお披露目をしていました。新元号は「令和」だそうです。オヤマアという感じです。拙老ごとき古物の理解では、やまとことばの伝統上ラ行音は古来へりくだった語音とされ、語頭音にされることはありませんでした。あったとすれば外来語でした。嘘ではない証拠には、御手元の国語辞書を御覧なさい。ラ行の言葉が極度に少ないことに気が付かれるでしょう。ですから、元号の漢字にもラ行音は滅多に用いられず、あってもラ・ル・ロはなく、全部で247あるという日本の年号のうち、リ(暦りゃく応、曆仁)、レ(霊亀れいき)の3例だけです。

新しい元号が決まると美辞麗句をもって飾り立てるのが為政者のならいでしょうが、こちとらにもお江戸の仕来りがあります。ワルクチという文化です。ワルクチをただの悪口雑言と思ってはなりません。江戸文芸の一ジャンルだった評判記にはわざわざワルクチと名付けた項目がありました。立派なカテゴリーなのです。江戸が終わって明治になってもこの伝統は持ち伝えられました。「慶応」が「明治」に改められても、人々には世の中が明るく治まるとは信じられませんでした。そこで当時の落首に、「上からは明治だなどと云うけれど 治明(オサマルメエ)と下からは読む」。

「令和」もやはり漢文風に読めます。「令」は使役の助動詞ですから「令和」は「和セシム」と読みます。「ヲシテ」という補語を必要としますが、今の場合は「民ヲシテ」でしょう。名は体を表すと申しますが、この元号漢字は、おそらく選考者の意図に反して、制定者の底意ないしはホンネを言い現してしまっています。世の中の善男善女がみな無邪気に幸福そうに和同するように制令しました、という意味なのでしょう。事実、テレビに東京の新橋や大坂の梅田のシーンが中継され、新元号を知らせる号外を奪い合って 怪我人が出る群衆の混雑を見ると、「民はこれを由らしむべし」という目的はほぼ成就したといえるかもしれません。

人の悪い政治記者の間では、こんなまことしやかなゴシップが囁かれているそうです。政府のある有力者は「安」字を元号に使いたい意向を示し、諸委員のうちにはこれを忖度して、一時は「安和」という案が出かかったが、残念ながらこれは平安時代にすでに先例があり、しかも「安和の変」なる政変も起きた不詳な年号であるので、ついに沙汰止みになったとか。30年前には当時官房長官だった小渕さんが「元号オジサン」として人気者になり、めでたく次の首相になったためしもあるので心配されている由。ホントカネ。  (了)

 

2019-03-23 | 日暦, 桃叟だより

天変・地異・人妖

「恐竜山」と名づけて、ここに掲げたような写真をこれまで何度お見せしてきたことでしょうか。左と右とでは天候のせいで空の色がだいぶ違いますが、時間差は1週間ぐらいしかありません。それほど土地造成のスピードは速かったのです。左の画面では甲羅のなくなった亀みたいになった恐竜山は、どんどん削られて、とうとうシッポが消えて首だけの亀になりました。もうただの樹木の茂みです。これぐらいは残すのでしょうか。

この町の住人になってから無慮50年。屋上から見える恐竜山は、ずっと地面にうずくまり、北の方にある甲山かぶとやまに飛びかかるポーズを取っていました。それは甲山がまだ火山だった太古から、その後六甲山地が隆起する中昔を経て現在まで引き継がれる地形の無言劇を目の辺りにしているようでした。いつか大地が躍動し、甲山が再び噴火する日、恐竜山も嬉々として跳ね上がるはずでした。

ですがこういう画面を眺めていると、地面に横たわる爬虫類の死骸にたくさん虫がたかって食い荒らして いるみたいに見えます。白く蛆虫のように増殖してるのは、以前からある民家やマンションで、恐竜山跡とは違いますが、見た目は同類です。後発メンバーであるにすぎません。どちらもやたら繁殖力が強そうです。

ふと「天変地異人妖」という言葉が頭に浮かびます。「人妖」は馴染みが薄いかもしれませんが、江戸時代からある言葉です(大朏東華おおでとうか『斎諧俗談さいかいぞくだん)。自然災害や天下動乱で社会不安がつのり、人心が不穏な時期に人界に出現する魔性の者、アヤカシのたぐいを言います。天明の江戸打ち壊しや安政江戸地震の折には弁慶のような大男と牛若丸を思わせる美少年の二人組が活躍しましたし、明治維新の前にはエエジャナイカ踊りの狂熱が国中を揺すりました。

80年も人界に棲息してる拙老には、昨今の日本にはまたそろそろ「人妖」が立ち現れる季節が到来したかのように感じられます。最近の「人妖」は必ずしもアヤシゲではなく、ごく日常的な顔立ちで現象します。便利な住宅環境がほしい、土地を遊ばしておくのはもったいない  人々のそういう無邪気で罪のない善意の希望が、集積されるといつしか不気味え破壊的なものに変わるのです。そこには何か悪魔の摂理のようなものが働いているのではないか。  頭だけになった恐竜山の眺めはいろろなことを考えさせます。 (了)

 

 

2019-03-07 | 日暦, 桃叟だより

再録 市原悦子さんを悼む

この文章はもと1月14日、市原悦子さんの訃報に接したその日のうちに書いて本欄に載せたものですが、その後うっかり自分のミスで消してしまいました。サーバーにも保存されていません。覚えているうちにそれを復原しておくことにします。

 

*           *          *

 

あれはいつだったか、まだ大学で教えていた頃、一人の女子学生にお世辞のつもりで「きみは最近市原悦子に似てきたね」と言ったら、急に泣き出されて往生したことがありました。

 

拙老としては褒めたはずなのに案に相違の結果だったので当惑しました。人にその話をしたら大笑いされて、やっと理由がわかりました。向こうが知っている市原悦子は、当時  1990年代  テレビで放映されていた『家政婦は見た』シリーズの主演女優だったのです。一方、拙老の頭にあったのは1960年代に東京は麻布六本木の俳優座劇場でさんざん見た新進女優でした。若く、ほっそり、清楚な姿で『ハムレット』のオフェリアとか、フランス喜劇『クルベット天から舞いおりる』の可憐な娼婦とかを演じていました。ブレヒト『三文オペラ』の海賊ジェニーの歌では、あの顔からは迚も信じられないような野太い声を聞きました。つまり拙老とくだんの女子学生とでは、持っている記憶像の時差がありすぎたのです。

 

拙老も長いこと市原悦子さんの舞台姿を見たことはありませんでした。

 

しかしそういえば1970年のこと、神戸で一度だけ市原さんと会ったことがあります。三宮の国際文化会館に劇場があって、そこへ俳優座が福田善之氏の『しんげき忠臣蔵』を持って来たのです。もちろん、お軽の役は市原さんでした。福田氏が市原さんに紹介してくれるというので、いそいそ楽屋まで出かけて行きました。拙生も勘平さんじゃないが三十になるやならずだったので大変心嬉しかったのです。

 

ところが楽屋の雰囲気はそう良好ではありませんでした。何しろその頃は六十年安保闘争の記憶が生々しく、拙生は「代々木派」と誤解されて  実際には構造改革派でしたから、いわば「千駄ヶ谷派」でしたが  、この時代相当悪役だったのです。俳優座の若手役者たちも多くはブンド(共産主義者同盟)の影響下にありました。みんなソッポを向いていたし、老優東野英治郎までが、鏡に向かってメーキャップをしていましたが、「野口武彦か!」と吐き捨てるように言ったのを覚えています。相手をしてくれたのが櫟原さん一人だったのですが、本当をいうと、拙老はすっかり上がってしまったと見えて、何を話したのかよく覚えていません。ただ一つ、拙老が夢中になって「いつかあなたに戯曲をお贈りさせて下さい。約束します」と口走り、市原さんに「まあ嬉しい」と言ってもらったのを思い出します。

 

あれから50年の月日が流れました。あの時の約束をまだ実現できていません。市原さんは気にも留められなかったでしょうが、拙老は「いつかは、いつかは」と思っているうちに時が経ち、市原さんは他界されてしまいました。長谷川伸の戯曲『一本刀土俵入り』を思い出します。相撲取りになれず今は渡り者の駒形茂兵衛を揮って昔世話になった酌婦お蔦の危難を救い、逃れて行く後ろ姿を見送る幕切れです。手にした一本刀が約束した土俵入りの代わりになるわけです。

 

拙老はまだお約束の戯曲は書けていません。ジャンルは違いますが、『花の忠臣蔵』以下の作品を世に問うのが精々でした。市原さん、これが50年かけて実現した駒形茂兵衛ならぬ野口武彦のせめてもの一本刀土俵入りでござんす。(幕)

 

 

 

 

 

 

2019-02-28 | 日暦, 桃叟だより

番外 『元禄五芒星』お披露目

      

 

きたる3月20日に『元禄五芒星』が発売されます。情報公開が解禁されましたので、ここにお披露目させていただきます。

内容はすでに昨年12月8日の本欄で紹介してありますが、念のため、目次だけここに再度掲げておきますと、次のようになります。

①「チカラ伝説」
②「元禄不義士同盟
③「紫の一本異聞」
④「算法忠臣蔵」
⑤「徂徠豆腐考」

ご覧の通り5篇で1冊になっています。タイトルの「五芒星」はこの数に因んでいますが、元禄の夜空に輝く星の五つの光芒とも取れるし、また五つの星を線で結んで夜空に浮かび出る5稜の仮想の図形でもあります。創造的な渾沌に富む世相を解読する5本のサーチライトが虚空に交錯している形ともいえましょう。

とにかくここには一つのペンタグラム(五角形)が透けて見えて来ます。ご存じのことと思いますが、これは安部晴明の家紋であり、陰陽師の神紋であります。洋の東西を問わぬ魔除けの呪符です。

このたび思いがけなく、人気作家の京極夏彦氏に帯封の文章をいただきました。有難く拝受致します。著者の側から感想を申し上げるのはいかにも逆さまごとですが、氏が「元禄ツアー」と言って下さったのには我が意を得た感じです。

拙著は、時間という経路をたどって元禄空間へ至り着くための旅行案内書です。Bon    voyage! (どうかよいお旅を)

 

2019-02-26 | 日暦, 桃叟だより

夢という時空連続体

拙老が便々と馬齢を重ねている80年の間に、世の中で大きく変わった何かがあります。それが何であるかを一言でいうのは困難ですが、たとえばその一つは、時間と空間のとらえ方です。「時間」と「空間」という別々の言葉で言い表わされていますが、本来は一つながりの事象の二つの位相にすぎない、という見方が支配的になっているそうです。もともと一つの「時空連続体」の異なる現れ方なのだそうです。

その実体を表記するために理数系の人々は、「非可換幾何」とか「 位相多元環」とかの議論を持ち出しますが、拙老のような年寄りにはそんな難しい事はよく分かりません。別にやたら数式を使わなくても      それはそれで、いずれ身に付けなくてはならないでしょうが  感覚ででとらえることも出来るのです。人間の無意識は時空を連続体とキャッチする能力を本来内蔵しているのではないか。

現に、拙老は毎晩見る夢の中で、時間と空間の境界を取り払って自由自在に行き来しています。2月25日に見た夢はこうです。

*        *       *        *       *

私は江戸時代末期の歌舞伎狂言作者になっていた。『四谷怪談』のある一幕を書替狂言にして上演しようとしている。出来上がったホンをまず茶番の形で御披露目しようと茶屋を借りきって思いきりさはしゃぐ。弦歌の騒ぎ、三味太鼓のぞめきが一段落して人々が引き揚げ、座敷がシインとした時、友人がいう。「ダメだダメだ、こりゃ失敗だ。誰も金主に名乗り出ないじゃないか」。私はガックリ落ち込む。目論見がうまくいかないばかりか、茶屋の支払いのために莫大な借財を背負い込むことになったのだ。今は亡き母が現れて、「あたしゃ今年六十三になるんだからーー現実には九十歳まで生きたーーしっかりておくれ」と私を責める。

身辺に借金を取り立てる連中が迫っていた。私は難を逃れて、アメリカの大学で教職に就いているが、もうそこまで追手が来ている。マフィアの一団が取り立てを請け負っているらしい。私はさらに南米に亡命しようとするが間に合わず、すでに大学キャンパスは包囲されている。周囲の樹林に銃器を手にして潜んでいる人影が見える。一団の頭目は クリント・イーストウッドの演ずる九十歳の老人だ。私は反撃に出て、一団の乗ったヘリコプターを撃墜させる。

*        *       *        *       *

その後でどうなったかは記憶にない。  (了)

 

 

2019-02-04 | 日暦, 桃叟だより

精神科医の友への手紙

かれこれ50年ほど前のことだったと記憶します。拙老は金沢大学へ集中講義に行ったことがあります。たしか題目は『谷崎潤一郎の文学」だったと思います。その時教室で熱心に聴講してくれる学生がいました。それが若き日の平井孝男君、いや失礼、平井氏だったのです。その後は互いにかけちがって、ごくたまにしか会う機会がありませんでしたが、その間にたいへん勉強され、たくさん実地を踏まれて、今は立派な精神科医になっています。

「友」と呼ぶのはいささか気が引けるのですが、最近送ってもらった本を読んでいろいろ感じることがありましたので、ご当人のご承諾を得て、同氏宛ての手紙を以下に公開させていただこうと思います。

*          *          *

平井孝男  様

御近著『精神分析の治療ポイント』を御惠投有難うございました。

全部を粗々ながら一応通読、つくづく敬服しました。貴兄は小生などにはとてもできない(尻込みしてしまう)大変なお仕事に真剣に取り組んでおいでです。小生のような物書きと違って、いつもナマモノを扱っておいでですから、書かれることにも迫力がおありです。

御著はどちらかといえば「同業者」向きに、治療のノウハウを記した専門書だと思いますのでそちらの方面は敬遠して、小生にもわかる範囲の事柄だけを話題にするのをお許し下さい。

小生が「!」と心を留めたのは、貴兄が「あらゆる精神医学の潮流は、それぞれの逆転移の結果である。またフロイド以後の精神分析が何百という学派に分かれていくのもそれぞれの逆転移を持つからである」(p.111)と書いている一文です。これは文脈によって、フロイド
以後の学者のフロイド学説に対する逆転移と読めるように思いますが、それでよろしいか?

それならば、ユングのフロイドとの訣別という重要な出来事も「逆転移の一ケース」と解釈できるわけですね。そもそも転移は「治療者に対する感情の総体」(p.80)と定義されていますから、二人の決裂の出発点には、「始めに感情ありき」的な根底があったといえるのではないか。

小生は、貴兄がいかにも現役の精神科医らしく「感情」を重視し、治療者ー患者のアナロジーでフロイド=ユングの師弟関係をとらえておいでなのを面白く(失礼!)拝読しました。

実は小生最近、『鴎外五人女』という小説を書いた機会にユングを少々勉強、例の「元型」説に多少かぶれている所だったので、貴説に特別興味を持ったわけです。

他にも尋ねたいこと、確かめたいこと、疑問、感想などいろいろあるのですが、なにぶんメールのこととてそう長くは書けません。もし貴兄のご賛同があれば、小生のホームページにこの続きを書きたいのですが、いかがなものでしょうか。ここまでのメールもこのまま(もちろん必要な補正を加えて)転載したいのですが許可していただけるでしょうか。右、お尋ね致します。        野口武彦 拝

*          *         *

以下の文章は「尋ねたいこと、確かめたいこと、疑問、感想」についての付け足しです。色々ありますが、今回はさしあたり「感想」だけを申し述べることで御勘弁下さい。

御著の中で、拙老の心に留まった言葉が3つ(正確には3ヶ所)あります。

①貴兄が治療原則として打ち出されている「波長合わせと共同作業」(p.5)という視点。

②「逆転移」を独創的に――あるいは自己診断として?――「治療者の業の深さ」(p.108)と規定していること。(「我と好きこのんで修羅場に踏み込んで行く人間」だそうです。よくわかってらっしゃる!)

③そこから、人間の本性についての、慨嘆にも似た剔決てっけつが下されます。「直りにくいのは人間の本性」であり、「現実には完治はありえず、人間は永遠の寛解かんげ」であり、「治療とは一種の理想型」(p.252)であるのです。

この言や佳し。大いに我が意を得ました。なぜなら拙老近頃、自分の未成年性は死ななきゃ直らない、不可完治の「未成年病」とでもいわなくてはならないのじゃないかと思っているからです。まあ当分の間は、貴兄の被治療者になる気遣いはないと思いますが、老年のこととてわが人生はこれからどう転ぶかわかりません。

拙老は今後人生のアディショナルタイムをずっと慢性の寛解状態で過ごすことになるでしょう。何か起きた場合にはなにぶんよろしくお願い致します。     不一

 

 

 

 

 

 

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