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桃叟だより
2017-12-24 | 日暦

『元禄六花撰』発刊おひろめ

長いことお待たせしましたが、拙老懸渇の作品集『元禄六花撰』が講談社から刊行される運びになりました。これまで主として幕末の時代に題材を求めて書いてきた拙老が、一挙に200年もさかのぼって「元禄」の世界からスタートを切り直したわけですし、また、これまでとかく小説だかエッセイだか分からないという批判があった作風も、この作品集からは、小説スタイルを基調とする《ネオフィクション》ジャンルをめざそうと決心したこともあり、出版までに時間がかかりました。が幸い理解のある編集者に恵まれて今回の発刊に至りました。

刊行日は2018年、つまり来年の1月17日です。アマゾンでは1月18日からだそうです。内容は今年1月13日に「新刊御披露目」として予告しましたように、6篇の小説で構成していますが、ちょっとだけ変更があります。『チカラ伝説』は次の作品集(仮題『元禄六道絵巻』)に回して、代わりに『大奥のオイチョカブ』を加えます。江戸城大奥には春日局かすがのつぼね遺愛のトランプ一組が伝わり、それを使って幕府高官がカード勝負を競い、最高人事を取り決めるという物語です。勘定奉行荻原重秀や新井白石も登場します。後の5篇は以前ご紹介した通りです(「新刊御披露目」参照)。元禄は何も忠臣蔵だけではない。心中事件始めフツーの男女の、イヤになるくらい日常的な事件があちこちで起きていたのです。

まさに帯封のコピーにあるように、「どこが違うんや? 元禄と平成」といったところです。帯封を取った本書カバーの写真には足袋を履いた足が写っていますが、実はこの画像には本書でも重要な役割を果たす人形浄瑠璃『曽根崎心中』に引っ掛けた絵謎が篭められています。ふつう文楽では女形おやま人形に足はありません。しかし、『曽根崎心中』のお初にだけは例外的に足があるのです。天満屋の場面でお初徳兵衛が心中を決意するくだりで、この足がクローズアップされることは周知の通りです。掲げたのはその舞台写真ではありませんが、いかにもぴったりです。

朗報がもう一つあります。『花の忠臣蔵』が中国語訳されるそうです。あの国でもまだ「忠」とか「義」とかの徳目に興味があるのかとくすぐったい気持になりました。初版は4000部とのこと。有難い話です。ひょっとしたらわが母国より多いかも。人口が多いせいでしょうか。   了

 

 

 

 

 

 

2017-12-07 | 日暦

『鳥羽伏見の戦い』テレビ放映のお知らせ

来たる12月30日(土)の21:00~23:00に、NHKBSプレミアム「決戦!鳥羽伏見の戦い ~日本の未来を決めた80時間~」(仮)が放映されます。ディレクターによると、「鳥羽伏見の戦場の取材や資料に基づくドキュメンタリーパートとドラマによる番組構成」とのことですが、2時間たっぷり時間をかけてNHK独自の取材力を発揮したダイナミックな番組になるだろうと楽しみです。ドラマのパートには半田健人さん・宍戸開さんなどの俳優陣が出演されるすで大いに期待されます。

番組の土台になっている鳥羽伏見の一戦の評価や位置づけは、拙著『鳥羽伏見の戦い――幕府の命運を決した4日間』(2010)をだいぶ参考にしていただいたそうです。有難いことです。拙老があの本でいちばん力を入れたのは、何はさておき、戦闘現場で当時最新式だった元込銃が使用されていた事実の文献的確証を提出することでした。その証跡を『慶明雑録』という薩摩側の記録からやっと掘り出したのです。なぜその事実にこだわるかといえば、従来、鳥羽伏見での旧幕府軍の敗因は、徳川方が近代兵器を持っていなかったからだ、徳川は亡ぶべき封建的反動勢力だったから敗北は「必然」だったという《神話》が作り上げられ、それがいつのまにか「常識」化されているからです。

ここに掲げた一枚の絵は、やはり薩摩側が描いたものですが、淀川堤を敗走する旧幕伝習歩兵をスケッチしたものです。軍帽をかぶり、ランドセルを背負い、銃剣を担いだ歩兵が、昔ながらの笠を頭に載せた薩摩兵に追い立てられています。もちろん戦争画ですから、薩摩兵は強そうに、旧幕兵は弱く描くものと相場は決まっていますが、この画面にとらえられている銃こそ眼目の元込銃(シャスポー銃)なのです。やたらに長く見えますが、それは銃先に銃剣が取り付けられているからで、まさにその事実がこの銃は元込銃であることの動かぬ証拠です。(一斉射撃に続き、銃剣突撃に移るのが伝習歩兵の主要な戦法でした。)

この画面では戦闘現場にさりげなく本込銃が描かれていますし、『慶明雑録』では「本込」の2字がハッキリ書き込まれています。旧幕府軍の装備が遅れていたのが敗因だったとする通説は事実として否定されるのです。それにもかかわらず、歴史学界でも大河ドラマでもその俗説が再生産され続けているのが現状です。

来年2018年は、「大政奉還150年目」に当たるそうです。また来年のNHK大河ドラマは「西郷隆盛」だそうです。例によって、わが国の歴史知識が大衆小説でリードされる日々が続きますが――かつて頼山陽の『日本外史』・徳富蘇峯の『近世日本国民史』が果たしていた役割は、現在、司馬遼太郎史観が占めています――、そんな昨今に、このNHKBSプレミアムが、新鮮な歴史感覚に目覚めるキッカケになってくれることが期待されます。

明治維新を新しい目で見ることは、われわれの現代日本を見直すことです。  了

 

 

 

2017-11-16 | 日暦

2017新刊お披露目――『ほんとはものすごい幕末幕府』

世は出版不況の時代だそうです。なんでも若者の活字離れはすさまじいのだそうで、ともかく本が売れないという話です。需要がないのだから供給にも声がかからないのも道理で、拙老ごときに注文が来なくなるのは理の当然でしょう。しかし「捨てる神ありゃ拾う神」で、このたび、ほぼ2年ぶりに1冊の本を刊行する運びになりました。             ここにお広めをさせていただきます。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         書名は『ほんとはものすごい幕末幕府』といいます。多少キャッチフレーズじみたタイトルですが、つ

ねづね自分は時代遅れの、というより時期外れの(アナクロの)佐幕派であるこちを公言している拙老にはお誂え向きだと思いましたので、引き受けさせていただきました。旧幕時代は明治以来の近代日本から闇雲に否定されましたが、真相はそうではなくて、江戸時代がいかに近代日本を準備・用意していたかを虚心に眺めようという立場です。

拙老はこの本で初めて「監修」というお役目をしてみました。何人かのライターに書いていただいた原稿をチェックし、必要だったら手を加え、全冊のトーンを統一する仕事です。幸い皆さん江戸幕府がお好きなようなので、別に支障はありませんでした(パート1~パート3)。拙老自身の文章はパート4及びエピローグです。2枚目の写真にあるように「そんな幕府がなぜ滅亡したのか」というテーマです。もっと砕いていうと、もし幕府がそんなにいいことづくめだったのなら、なぜ潰れる羽目になったのかという自問自答です。パート1~3までで力説してきたことをパート4ではひっくり返さなければならないわけです。

これは実をいうと大変難問なのです。拙老はその難問性を読者に分かってもらうために、野村元阪神タイガース監督の名言を借りて「不思議の負け」と表現しました。この不思議さは、近代日本からおそらくは故意に見落とされて来たものです。

近代日本の2つの支配的な史観――皇国史観とコミンテルン史観――は、どちらも、あっさり「必然性」という言葉で説明しています。皇国史観は明治天皇制政体を日本古来の天皇親政に復帰する「王政復古」と見なし、それを必然とかんがえました。コミンテルンン史観は明治維新を前近代の封建制から近代の資本制にいこうするのは歴史的な必然であると考えました。江戸時代(徳川日本)を否定するために右翼と左翼が手を握ったわけです。以来、「必然」という語が幅をきかせるようになりました。今でも「徳川慶喜が伏見鳥羽で負けたのは歴史の必然だった」などと平気でいう人がいます。

拙老はそれに対して、歴史とはもっと融通の利く、柔軟な構造を持っていると思います。世が移り変わってゆく間に偶発的な出来事が介在してるのは不可避であり――「必然」だけでなく「偶然」も作用し――、「もしこうだったら」と幅を持たせるる余地があるものだと考えます。たとえば、慶応4年(1868)1月4日、京都南部の鳥羽街道には猛烈な北風が吹き付けましたが、もしこの風がなかったら戦局はどう変わっていたか分かりません。

幕末に誰が幕府の最高責任者だったかも偶然です。すぐれた行政能力を持つ政治家が同時に優秀な軍事指揮官であるとは限りません。もし両方兼ね合わせた政治家が政権のトップに立っていたとしたら、それは僥倖というものであり、それこそ偶然中の偶然です。しかも幕府始まって以来のピンチの時期に、そんな人物が居合わせる確率はきわめて低いでしょう。人間の歴史も、手持ちのカードで勝負するしかないのです。

拙老は、明治維新と呼ばれる権力交替期には、あった通りとは違う顔ぶれの権力者集団が政権を樹立し、歴史も起きたのとは違う経過をたどった可塑性が豊富にあったと思います。ふり仰ぐ夜の空に、今とまったく図柄の異なる星座群が広がっているわけです。   了

 

 

 

 

 

 

 

 

2017-11-01 | 日暦

人界鳥瞰

いつぞやこの欄でご紹介した老鴉スローニンを覚えておいででしょうか。その日の記事は、この老友が若いカラスの群に邪魔にされ、「あっちへ行け」と追い払われてスゴスゴどこかへ歩いていったところで終わっています。それ以来ずっと、リハビリで屋上に出るたびにに、毎回彼の行方を案じてばかりおりました。ところが――――

いたのです! 無事に生きていました。相変わらず尾羽打ち枯らした痩せぎすの姿でしたが、いつも見慣れた隣のマンションの避雷針に留まってじっと身動きもせずにいました。カアカア鳴き交わしながら、塒ねぐらへと急いでいる群鴉どもには目もくれず、一心に下界に目を凝らしているようです。きっとその視界には眼下の人界が文字通りの鳥瞰図として映じていたに違いありません。

スローニンの視線の先には、いつも目に馴染んでいる恐竜山(「甲山に異変」の記事で「イグアノドンの岡」と呼んだ丘を改名)がうずくまっています。これを見ると、なんとなんと、今まで気づかずにいましたが、いつの間にかえらく寸法が縮まって『亀の子山」としか言いようのない姿になってしまっているではありませんか。

念のために、これを前回「イグアノドンの岡」として掲げた写真と比べて見ましょう。

下手な写真で恐縮ですが、以前は長かった恐竜の尻尾が断ち切られて、宅地らしきものに変わっている様子が明らかではありませんか。     

わが友老鴉スローニンは、いったいどんな気持でこうした人界の転変を見守っているのでしょうか。拙老はカラスにも鳥類エゴイズムがあると思います。たぶん同族が巣を作れる山林がどんどん削られるのに心穏やかでないだろうと想像します。カラス仲間では縄張りが世襲されるらしいのですが、そうなると自分の跡取りの幼鳥に譲るはずだった場所が森でなくなり、コンクリートの建物になっいたりして困惑することが起こるわけです。狭くなる土地をめぐって遺産争いも生じるでしょう。

「桑田そうでん変じて滄海そうかいとなる」という古い言葉があります。反対に「滄海変じて桑田となる」という場合もあります。世の中の転変が激しいという意味ですが、ただの物の譬えだと思っていたら、実景でした。文字通りのこういう情景は考古地理学の世界では珍しくないし、また核ミサイルが落ちた後の都会地を想像すれば容易に目に浮かびます。明治の東京は、江戸時代から続いていた武家屋敷を全部つぶして一面の「桑田」に変えました。都市計画もヘチマもありません。当時、人気の輸出商品だった絹の商売にあやかろうという浅ましい人欲のなせる業わざです。

恐竜山を掘り崩した住宅地に住む人々は、より快適な住環境をめざすだけのしょせんしがない善男善女でしょう。しかしどこそこ構わず住宅地にしようという土地会社・不動産業者はやっぱり人欲に衝き動かされて「山林を変じて廃屋と化す」るやからと言えるでしょう。なあそうだろうといって老鴉を顧みると、スローニンはカアカアと返事をしてくれました。カラス語で「そうだそうだ」という意味です。 嗚呼。

 

 

 

2017-10-03 | 日暦

植物時間・人類時間・政治時間

去年もたしかヒガンバナの写真を当ホームページに載せましたが(『ヒガンバナ幻想」参照)、それに比べると、庭のヒガンバナは今年の方が威勢がいいようです。少くとも株の数が増えています。最初はいかにも貧弱な花叢がヒョロヒョロと伸びただけでしたが、毎年着実に地面の占有面積を増やしています。短命な花の癖に、種(しゅ)としての命はしぶとく長いのです。かといって、たとえば皇居のお堀の斜面の見事な、「火の花団」と呼びたくなるような群落にまで成長するにはあと何百年もかかると思います。(左は自撮、右はmokurou.blockspot.com より)

〽曼珠沙華過ぎし彼岸を訪ぬれば主無き庭に花の一叢

きっと拙老がいなくなった後、この地面には憎たらしいくらい元気なヒガンバナの繁茂と開花で賑わうことでしょう。週に何日かリハビリで屋上に出ますが、そこで小耳に挟むカラスたちの会話では、人間がいなくなった跡地をどう分け合うかの談合はもう成立しているようです。しかしそのうちに生ゴミも出なくなってカラスの飢死は不可避で、その後の時代はゴキブリの天下になるそうです。だけど、動物は放射能に弱いから次々と死に絶えて地球はやがて植物の世界になり、それが何百世紀も続いた後は、ただ粘菌類だけが嬉々として地表を這い廻る生命体の千年王国が実現するでしょう。

人の一生は長いようで短く、花の命は短いようで、けっこう長いのです。

長い短いは必ずしも寿命のことだけではありません。「~~時間」というふうに何かの世界に固有する時間の構造はだいたいその何かの再生産サイクルに関係しているようです。植物の時間は地球の公転周期に依存しているし、人類の時間は、文明の発達度にもよりますが、概して月の公転周期が基本的リズムをなしているような気がします。月々の女性の生理循環やサラリーマンの月給制などにその新旧の痕跡が残っています。

政治時間にも周期はあります。しかしきわめて短いのです。ひとしく再生産に関係するといっても、主として個体保存をめざし、種属保存を指向するものではなくなっているからでしょう。自分の仕事の「公(おおやけ)」性、公共性、「みんなのため」という目的への奉仕、人間社会への貢献etc.を公言しない政治家はいません。政治家は表看板として常に「公」性を堅持しなくてはなりません。つまり人類の種属保存に貢献することを旨とします。

しかしその反面、政治家は一私人でもあります。「公」が100パーセントで「私」がゼロであるような政治家は、皆無とは申せますまいが、マアあまりいらっしゃらないでしょう。私利私益の追求は、もちろん、一個人が個体保存のみをめざす本能から発しています。

政治家の私利私欲といっても、よくマスコミの餌食になるような「物欲」「金銭欲」「色欲」「名誉欲」ばかりではありません。政治家にとって時にはプラスにも作用し、それだけでは毒とも薬ともいえない「権勢欲」というものがあります。短周期の政治時間は、行きつくところ、この権勢欲の成就という極限に収束するみたいです。多くの政治家はこれに執着して身を滅ぼします。そういう筋書を絵に描いたように、生々しい政局ドラマがつい最近起きているじゃないですか。才女、才に溺る。一時は政治地図を塗り替えるほどの勢いを示した一女性政治家がいかにも女性的な好悪の感情を押さえきれなかった結果、せっかくのチャンスをフイにしました。アレヨアレヨという間の、物の哀れさえ感じさせる結末でした。  了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017-09-16 | 日暦

天から剣

いつだったか故橋川文三氏から昔の思い出話を聞いたことがあります。今知っている人は少ないでしょうが、昔、♪箱根の山は天下の険…という歌詞で始まる小学唱歌『箱根八里』というのがありました。滝廉太郎作曲の名曲です。まだ子供だった橋川さんはそれを耳から覚えたのですが、長い間ずっと、その語句を「蛸寝の山は天から剣」とカンチガイしていたそうです。タコが箱根山でのうのうと昼寝をしているところへ空からツルギが落ちかかってくる、とちゃんと場面性もストーリー性もある思い違いだったわけです。

タコにしてみれば、いつ剣が上から落ちてくるかわからないケンノンな状態に置かれているのですから、毎日いつも不安定な、落ち着かない日々を送っていただろうと思います。といって、このタコは箱根を離れようともしていないのですから、不安な日常に安住してもいるわけです。日常化した不安のうちに棲息しているともいえます。突然時を定めず、ラジオやテレビ、スマートフォンから不意にJ-alertが鳴り響くようになった昨今も、タコの夢の中でで頭上に剣が吊されているのと似たような状況なのかもしれません。

若い人たちはどうか知りませんが、拙老の年齢層にとっては、この感覚は生まれて初めてではありません。何しろ空襲警報のサイレンを子守歌同然に聞いて育った世代なのですから。戦争不安・政治不安・社会不安・世界不安etc.は、みな予行演習が済んでいるのです。そうそう、予行演習といえば、テレビで報道された避難訓練。笑っちゃいけないとは思うのですが、いつの世でもオカミのなさることは同じなんだなあと微笑を誘われます。75年前の防空演習でも、火叩き(竹竿の先に短く切った縄の束を付けたもの)で燃え上がった屋根の火を消す・バケツリレーで水を運ぶ・防空壕に入るなどが奨励されましたが、いざB29の大編隊が現われて焼夷弾の雨を降らせた本番では何の役にも立ちませんでした。

一方、北朝鮮のニュース画面を見ると、浪曲師みたいに盛装したオバサンが「撃ちてしやまん」と叫んでいるし、ピョンヤンの街頭では青年が口々に「アメリカをやっつけろ」と元気よく語っています。まさに日本の昭和16年12月8日(真珠湾攻撃)前夜の雰囲気です。かの国でも「鬼畜米英」「進め一億火の玉だ!」と連呼していた当時の日本同様、異論など一言もいえない空気なのでしょう。金正恩体制は明らかに昭和20年までの天皇制を模倣しています。孤立すればするほど、その孤立感は「世界に冠たる証し」なのですから、わが国の過去をかんがみても、やめろといってやめるわけはありません。

どうも煎じ詰めると、この際、地球人類の生存のためには、相争う諸勢力の相互疲弊を待つしかないようです。トコトンまでやあせて、双方がくたびれてもらうのを待つのです。

しかし何だかんだ言っても、こういう不安ワクチンの予防接種で治療できるのはせいぜい戦争恐怖症までであって戦争そのものではありません。戦争の最中のことは考えたくもないですから、拙老は人間が一人もいなくなった後、この世界はいったいどうなっているであろうかと想像することにしています。動物は人間の巻き添えになるが、植物はまず無事に生き残るでしょう。地上の幹や枝は焼け焦げて消滅しても、地下の球根はしぶとく生き延びると思います。拙老はわが亡き後も、庭に毎年咲くヒガンバナの永世性を夢想します。

左の写真はもう10年も前に庭に植えたリコリス・アウレア(金色曼珠沙華?)という西洋種のヒガンバナです。洋の東西を問わず、ヒガンバナは毎年秋の彼岸の頃にまず花だけが、地面に顔を出します。この品種は通常種より花期が早く、いつも彼岸の数日前に咲く律儀な習性を持っていて、スケジュールが狂ったことはありません。人間が忘れていても、向こうからちゃんと季節を教えてくれます。

本物の(?)国産ヒガンバナはまだ時節が早いのか目下待機中というところで、やっと地面から蕾の茎を伸ばし始めたばかりです。今西から接近中の台風18号に吹き倒さなければ、今年も庭の片隅にひっそりと点火したようにしてくれるでしょう。

ヒガンバナから「死」や「墓場」を連想するイメージは、たぶんこの植物が自生する自然環境に関係していると思いますが、拙老がこの花から思い浮かべるのはなぜか「戦火」です。昭和20年、終戦の8月に続く9月、東京の焼跡にはこの短命なくせに強靱な花がいっぱい咲き狂っていたに違いありません。  了

 

 

 

 

 

 

 

 

2017-09-02 | 日暦

8月の幻想

年配の人でもあまりよく覚えていないでしょうが、前世紀の70年代の末の頃(1978)、一本の映画がヒットしたことがあります。小林久三原作/山本薩夫監督の『皇帝のいない八月』といふ作品です。自衛隊のクーデター未遂をテーマにした松本清張風の社会派スリラー、ポリティカル・フィクションですが、ちょうど三島由紀夫の市谷事件の後でもあり、だいぶ評判になりました。売り出しの俳優陣として吉永小百合・渡瀬恒彦などが出演していたことも興行が当たった理由でしょう。今でもDVDで見られるようです。

『小説現代』昭和52年6月号初出(講談社) https://www.youtube.com/watch?v=0tXeaZEuf0U

この原作はもともと『鉤十字(ハーケンクロイツ)の葬送』というタイトルで雑誌『小説現代』に掲載され、後に『皇帝のいない八月』と改題されて、講談社から単行本で刊行された作品です。もしかしたら、ヒットした映画の原作だというので小説のタイトルに逆輸入したのかもしれません。

ところで山本薩夫作品のシナリオには、原作にはなかったドイツ語のエピグラフが付いています。~DER KAISER IST NICHT AM AUGUST~というものです。直訳すれば「皇帝は8月にはいない」という意味になるのでしょうが、この語句はいったいどこから来たのでしょうか?

見当が付きません。35年も前のうっすらとした記憶をたどってみると、何かの資料にドイツのポピュラー音楽の曲名だという説があったような気がします。ヒトラーならともかくカイゼルなんて知ってる若者はいないでしょうから、まさかロック音楽ではありますまい。カイゼルといえば、ふつう長期間ドイツ帝国皇帝の位にあって、第一次大戦で退位したヴィルヘルムⅡ世を思い起こしますが、この帝王がくだんの獄中のカイゼルだとは思えません。退位したのも11月です。

もしもエピグラフ中の「カイゼル」がヴィルヘルムⅡ世のことだとしたら、この楽曲はその名前が人々の記憶にまだ生々しく残っていた時代の作だということになります。そう、ワイマール時代です。この文化的にも多産な一時期に、コンチネンタル・タンゴの名曲「皇帝のいない8月」があったりして。

山本薩夫は人も知る左翼文化人でした。そのレパートリイの中にワイマール文化の知識があったとしても別に不思議はありません。しかし、問題の語句がかりにドイツ起源のものだったとしても、それは複合的に日本風に染色されています。拙老は「皇帝のいない八月」というタイトルを初めて見た時、センスのよさにほとんど嫉妬しました。みごとな物語性を孕んでいると想像したからです。疑いもなく「八月」という言葉のせいです。この言葉は、前回『八月断想』で書いた真夏の炎熱感と共に昭和20年8月だけに固有の一回的なあの喪失感・虚脱感を呼び覚ましました。「八月に不在の皇帝」とは天皇をさす暗語に他ならない、と感じたのです。

が、それはたぶん拙老の考えすぎで、実際には映画にも小説にもそれだけの膨らみはありませんでした。「皇帝のいない八月」はついに「天皇のいない八月」とは読み替えられませんでした。本当は、あの時日本には、歴史上滅多にない無主空位の時代が一瞬の天の晴れ間のように輝き出ていたのです。「皇帝のいない八月」という語句は、あたかも美しい花のかたい蕾のように、まだ開かぬ何かへの夢想をそそります。   了

 

 

 

 

 

 

 

 

2017-08-17 | 日暦

8月断想

夏の幉 butterflyandsky.fan.coocan.jp より

今年の夏は猛暑でした。(もっとも、これは西国に限ってのことらしい。)生来身体は丈夫な方で、あまり夏バテなどしたことのない拙老でしたが、今年ばかりは年齢のせいかギラギラ照りつける太陽には閉口しました。8月はどうも叶いません。T.S.エリオットの『荒地』の有名な冒頭:「4月は残酷きわまる月だ」じゃないが、どうやら拙老たちのような「生き残り」年齢層にとっては「8月は一種特別な月」であるようです。

日本浪曼派の詩人伊東静雄に「8月の石にすがりて」(詩集『夏花』)という絶唱があります。

八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。
わが運命(さだめ)を知りしのち、
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ。

いつだったかこの最初の5行を読んだ時、拙老は不思議な錯覚を感じたことを覚えています。これはてっきり昭和20年8月15日つまり「敗戦の日」の感情を先取りたもののように思えたからです。もちろん、そんなことはあり得ません。この詩は昭和11年に作られた作品ですから、9年後に日本が戦争に負けることなど知るはずはないのです。でも、この詩は驚くほど予感的です。敗戦の運命(さだめ)がすでにいち早く感じ取られています。詩的真実というものはやはり時間を越えているのです。

昭和20年の夏も猛暑でした。少くとも敗戦の日、東京の天気は太陽が輝く晴天でした。作家の髙見順は『敗戦日記』の8月15日の条にこう書いています。

——遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。
夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。
蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。

たしかに、あの日は蝉の声が盛んで、まるで耳に沁みるようでした。そのことは、いろんな人がいろんな風に書き残しています。しかし、次のように記した人もいます。実際に蝉が鳴かなかったのか、それとも耳に入らなかったのかは分かりません。

十五日(水)炎天                                      ◯帝國ツイニ敵ニ屈ス。

当日、こうとだけしか書けなかったのは山田風太郎です。引用したのは『戦中派不戦日記』のこの日の記載の全文です。翌16日からは打って変わったように多弁になりますから、かえって、この意気消沈ぶりが実感だったろうと推察できます。「炎天」――焼けるように照りつける日ざしだけが印象に刻み込まれたのでしょう。

8月は、「大日本帝國」時代の記憶と結び付いて、朝鮮民族にも特別な季節だという印象が残っているようです。 8月15日は日本による植民地支配が終結した日ということで、韓国では「光復節」、北朝鮮では「祖国解放記念日」となり、それぞれ特別な日にされています。とりわけ今年は北朝鮮がグアム島周辺にICBMを射ち込む計画を立てているとかで、こういう情勢になると、8月はまた新たな炎暑の悪夢に魘(うな)されることになりそうです。すなわち熱核戦争による破局の予感です。

しかしわれら現代人は意外にケリリとしています。数十年前のキューバ危機の時ほど深刻には受け止めていないようです。すっかり慢性化した脅威にワルズレして鈍感になっているのでしょうか。それともいたずらに恐怖症に罹らないための防衛機制が効いているのでしょうか。

いずれにせよ、極熱の8月はもうすでに先験的に内面化されているものです。  了

 

 

 

 

 

2017-07-31 | 日暦

天保14年にはこうだった

水野忠邦上屋敷(天保江戸切絵図)      二重橋付近の皇居前広場地図(Google Mapより)

 

いったん落ち目になった政治家の末路は、いつの世でも同じようなものです。

江戸時代の終わりの始まりだったと見てよい天保期(1830-44)に大きな権勢を揮い、幕府再建の最後の危機打開策といえる「天保の改革」を実行した政治家、水野越前守みずのえちぜんのかみただくに場合も決して例外ではありませんでした。

忠邦は若い頃から青雲の志に富んでいて、いろいろ昇進運動をし、時にはワイロも裏工作も辞せず、老中首座の地位にまで上り詰めてきた人物です。そういう政治家にふさわしい威権がなくてはなりません。それなりのステータスが必要です。たとえばどこに居を構えるか。老中首座といえば、現代ではさしずめ総理大臣に当たります。歴代総理が必ず首相官邸に入るように、江戸時代の老中首座が住む屋敷はだいたい場所が決まっていました。この時代、「西丸下」と通称されていた区画です。西丸――現在の皇居――の建つ台地の直下に広がる一画で、江戸城最寄りの、当時としてはいちばん格式のある土地柄でした。代々の老中首座がその屋敷の住人になりました。

このあたりは、今ではだだっぴろい皇居前広場になっていて、屋敷はおろか家の一軒もありません。もともと海の入江だった場所を埋め立てた造成地だったので地盤脆弱と見なされて 明治以後の東京では建物が禁止されました。そうした弱点が最初に露呈したのは安政江戸地震の時です。西丸下の武家屋敷は軒並み壊滅したか炎上しました。現在、二重橋見学のためにバスから観光客がぞろぞろ降りるあたりに水野忠邦邸はあったわけです。切絵図は小さくて読みにくいですが、「西之御丸」の「西」字と向かい合った長方形の区画の西北隅、「水野エチゼン」とあって「沢潟おもだか」の紋の付いている屋敷がそうです。

切絵図では「西之御丸」の東南の角に「凸」型に出っ張った濃い輪郭線が堀との境界を示していますが、その「凸」型はそのままの姿でグーグルマップにも見えます。つまり、地形は江戸時代から全然変わっていないわけです。

 天保14年閏9月13日の深夜、水野邸は江戸中から集まって来た夥しい数の群衆に囲まれていました。その日のうちに、忠邦が老中を罷免されたという噂が町中に広がっていたのです。人々の間から自然発生的に「エーイエーイ、ワーイワーイ」と鬨ときの声が湧き上がります。誰からともなく石を投げ始め、ひっそり静まりかえった邸内に雨あられと降り注ぎました。いつもなら権力の中枢として近寄りがたい権威に包まれ、厳しく警固されている場所なのだが、今や火事場のような騒ぎに包まれています。門前の番小屋まで襲われています。

群衆はドヤドヤと小屋になだれこみ、畳やら障子やら、さらに家具の類までを手当たり次第に持ち出して堀に投げ込みます。番人の足軽は命からがらで逃げ出します。殴られてケガをする不運な奴もいます。もう誰にも止められません。群衆の数はどんどん増え、物見高い見物人も押し寄せてきて、人出は数万に達しました。

こんな面白いことは滅多にありません。みんな大興奮ではしゃぎ回り、西丸下はちょっとしたお祭り状態でした。サッカー競技場なみの騒ぎです。

隣近所の老中や若年寄の屋敷の門前には高張提灯たかはりぢょうちんが赤々と灯されて自邸を守り、手勢を派遣して近くの坂下門・桜田門・西丸大手門を警備します。制止札が掲げられるが、群衆はおとなしく解散するどころかいよいよ意気盛んで、お先っぱしりの調子者が門扉を打ち破る勢いさえ見せます。群衆の潮はなかなか引きませんでした。

 ところがこの騒動のさなかに不可解な動きをする人物が一人いました。時刻は子時ねどき(午前零時)を過ぎました。この時間になってようやく、南町奉行の鳥居甲斐守忠耀ただてるが与力・同心の一隊を引き連れ、物々しい火事装束に身を固めて馬に乗って駆け付けて来ました。暴れ騒ぐ群衆を遠巻きにする位置に陣取って、「静まれ 、静まれ」と呼ばわりますが、いかにもマニュアル通りにやっているだけで、あまり熱心な様子には見えません。町奉行といえば暴徒を鎮圧して治安を守るのが職務なのに、耀蔵ようぞう(忠耀の通称)はひそかに眼前の光景を楽しんでいるようでした。いや、内心ではほくそえんでさえいたのです。

 耀蔵は忠邦追放の陰謀にちゃんと一枚噛んでいました。天保改革をやりすぎた忠邦を失脚させる多数派工作にちゃっかり便乗していたのです。いつの時代でも、政府に危機が訪れ、代替わりが必至となった局面になると、必ずこういう手合いが姿を現します。民衆は物事をしっかり見ています。当時の川柳に、〽鳥居をば残し本社は打ちこわし。鳥居耀蔵は裏切り、水野一党は全滅したと政局をうまく読んでいるではありませんか。

江戸の民衆は大喜びでした。天保改革のおかげで不景気に陥り、すっかり火が消えたようになっていた江戸の町々に活気がよみがえり、江戸中が「アアラ、嬉しいな、めでたいな」と浮かれ立ちました。事件当夜に投石の現行犯で捕まった者は39人います。多くは裏長屋に住んでいる中間ちゅうげん・小者・鳶の者です。いずれも不景気で働き口が乏しく、日銭も減って困窮していたその日稼ぎの連中でした。「なぜお屋敷に石を投げたのじゃ」と調べの役人に問われて、「イイエ石を投げたのじゃございません。意趣を返したのでございます」。   了

 

 

 

 

2017-07-15 | 日暦

慶応2年にはこうだった

          町奉行市中巡行図(「播磨屋中井両替店記録」、国文学研究資料館蔵)

これは幕末も幕末の慶応2年(1866)9月19日、江戸日本橋の金吹町(かねふきちょう、後の本石町)にあった播磨屋中井両替店近くで見受けられた街頭の光景です。

播磨屋中井両替店は昭和まで続いた中井銀行の前身で、当時は手広く大名貸しなどをおこなって江戸金融の中心でした。折しも、江戸の町には貧窮組が横行し、播磨屋のような富商富豪はいつ自分の店が襲われるかとビクビクしていました。貧窮組は一昔前の打ち壊しよりもはるかに組織化されていて、決して金品を取らず、ただ食料をねだって歩くだけでした。ですがこの頃40万人ほどといた江戸の窮民が米や味噌を求めて街頭に繰り出すのは、幕府に相当な威圧を与えたようで、この日はちょうど町奉行が民衆を説得するために巡行する日取りになっていたわけです。

当日、当番だったのは北町奉行の井上信濃守清直(いのうえしなののかみきよなお)だったらしいことが、同心が掲げている幟(のぼり)の「井桁」の家紋からわかります。この日の巡行がよっぽど心細かったのでしょう、大勢を護衛に引き連れています。上図では左から順に、町役人(名主・家主)2人、金棒引き(かなぼうひき、触れ役)2人、馬に乗った奉行の周囲を与力・同心がぐるりと囲むのはまあ普段通りだとしても、ちと異様なのは、上図から下図にずらりと連なっている多数の人数です。

先頭やや後ろに鼓手に先に立てて、鉄砲の筒先に銃剣を付けて「担え銃(になえつつ)」をしている一隊は幕府の歩兵隊です。奉行・与力・同心の一団を挟んで揃いの笠で整列している集団は別手組(べってぐみ)の面々です。別手組というのは、開国後頻発した攘夷テロに手を焼いた幕府が外国人警固のため、文久3年(1863)「に創設した組織ですが、この頃には江戸の治安維持にも転用されていたらしいです。歩兵隊にしても別手組にしても奉行所は従来通りの警察だけでは不安だったと見えます。

それにしても、町奉行所をはじめ治安当局者をかくも不安がらせていたのはいったい何だったのでしょうか。前日の9日18日に浅草蔵前で外国人を巻き込んだ騒擾事件が起きていました。アメリカ公使ら数人の男女のグループが、こんな時世によせばいのに王子から浅草まで乗馬を楽しんだ帰り、運悪く御蔵前(幕府の米蔵)に群がっていた貧窮組の面々に囲まれてしまったのです。馬に跨がった西洋女の「上から目線」も憎まれたらしい。「こいつらのお蔭で、暮らし向きが悪くなったんだ」「そうだそうだ」と不穏な群衆心理がたちまち広がり、最初はバラバラと、次いですぐ一斉に投石が始まりました。別手組が、職務上やむなく刀を抜き、はずみで近くにいた者にケガをさせます。群衆はいよいよいきりたち、屋根に上って瓦を投げつけます。外国人は馬を走らせてその場を逃れましたが、哀れや遅れた下男は半殺しにされました。別手組の役人は必死で米蔵の隣の米会所に逃げ込みます。群衆は役人が抜刀すると蜘蛛の子を散らすように四方へ逃げ、刀を納めるとまた押し寄せてきたそうです。

こんな具合に貧窮組の面々は日に日に行動半径を拡大し、だんだん今日いう「都心部」に近づいていました。初めに触れた日本橋界隈の江戸金融センターです。そこが貧窮組に蹂躙(じゅうりん)されたりしたら、いわば日銀に赤旗が立つようなものですから、幕府も町奉行所も神経質になったのも当然でした。9月19日 に見せた異様な警備ぶりもそう考えると納得がゆきます。何しろ江戸の治安を維持するためにたんなる警察力(町奉行所)だけでは安心できず、軍隊(幕府歩兵隊)まで動員したのですから。

歩兵隊に銃剣を持たせたことは散々の不評でした。実をいえば、江戸がこんな有様だったにも拘わらず、幕府は西日本で長州戦争(元治元年1864~慶応2年1866。江戸幕府が幕命に従わない長州藩を征討しようとした内戦)を続けていたのですが、どうしても勝てませんでした。戦時インフレで物価が高騰して、人々は米が食えなくなりました。貧窮組騒動もこれが原因でした。それを鎮圧するのに歩兵を使ったのは失敗です。戦争に負けて帰ってきた歩兵たちはは方々で乱暴を働いてただでさえ嫌われていました。「鉄砲を持ったゴロツキ」だという声までありました。そんな手合を警備に繰り出したのですから、評判がよいはずはありません。

しかし世の中の成りゆきはわからないもので、9月19日のこの巡行を境にしてさしもの騒動もやがて沈静に向かったようです。町奉行に説得されたからではありません。幕府が必死になって打った手が幸いにも効を奏したのです。幕府は急遽「御救小屋(おすくいごや)」を建てて5日間で13万人を収容しました。また、日本で初めてガイマイを緊急輸入して民衆の飢えをしのぎました。

そうしたドタバタ騒ぎのうちに年は暮れ、徳川慶喜――ちなみにお江戸ではケイキさんと呼びます。間違ってもヨシノブたあ言いヤセン――が将軍になり(12月5日)、あっという間に慶応3年(1867)になります。その後、主要な歴史のドラマはほとんど京都で起きます。10月14日の大政奉還も京都の二条城でなされました。この1年間というもの、江戸っ子はノーテンキといえばノーテンキでした。慶応4年(1868、明治元年)の3月、官軍が江戸に占領軍として乗り込んで来るまで、誰もまさか徳川幕府が瓦解――江戸/東京では「維新」などとは申しません。必ず「御瓦解」と言います――するとは思っていなかったのですから。

かねてから不思議に思っていたのですが、徳川幕府は1868年のみぎり、なぜああもあっさり権力を手放したのでしょうか。幕末の一連の出来事をつぶさに見て来ると、長い間の不審がだんだん晴れてくるような気がします。政治権力はラッキョウのようなものであり、一枚一枚皮を剥いてゆくと中には何も残らないからなのではないでしょうか?   了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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