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氏家幹人著 『江戸時代の罪と罰』

氏家幹人氏は独特の「世界」に読者を引き込む歴史学者である。

『江戸時代の罪と罰』というタイトルに偽りなく、もちろん本書は江戸時代260年間にわたる犯罪史・刑罰史・治罪史・法制史の基本的な輪郭をたどっているが、決してただそれだけにはとどまらない。そうした個別領域にそれぞれの形で現象する「罪と罰」の総体を底流しているある実体への研ぎ済まされた感覚の光である。

あらゆる人間は全身を経めぐる血流のどこかの部分に「悪」のDNAを蔵している。普通いつもは人知れず伏在しているその因子が、何らかの個体的・環境的・社会的な条件と結びつくと、さまざまな人間事象として発現する。「罪」はそのアクトアウトした形態であり、「罰」とはそれに対する社会的報復である。「罰」はその立場上、常に「善」の看板を掲げざるを得ないし、「罪」は「悪」と地続きだ。そしてこういっちゃナンだが、「悪」からはどこか蠱惑的な匂いがする。

氏家氏に独特の「世界」というのは、氏の特異な嗅覚が「悪」に固有する匂いを探りたどって、もろもろの歴史事象をつらぬくいわば歴史の「深層文法」を追及しているからである。特に「罪と罰」の歴史とあっては、その文脈は顕著である。

本書は、第1部「残酷時代」、第2部「将軍吉宗の改革」、第3部「冤罪」、第4部「地獄の慈悲」という4部構成をそなえている。だいたい戦国乱世の余習を残した殺伐な自力救済の社会から、8代吉宗による成文法典の編纂を経て、近代的罪刑法定主義が支配的になる法治国家に至るまでの道筋が大まかな構図として示されているのだが、この著者の持ち味は、むしろ著者自身が「他にかえがたい史料」(「あとがきにかえて」)と呼ぶ、現代では滅多に見られない稀覯書(きこうしょ)の類を博捜して読者の目に触れさせつつ、分析の対象にしている法例・判例のいくつかであろう。それはちょうど精神医学の書物を読んでいて、そこに引かれている症例が無類に面白いのと軌を一にしている。

たとえば、幕末期に江戸町奉行所与力を務め、明治の法曹界でも活躍した佐久間長敬(おさひろ)の『拷問実記』。同書によれば、奉行所では水責・火責・水牢(みずろう)・木馬(もくば)といった戦国の遺風を伝える残虐な方法は廃止し、笞打(むちうち)・石抱(いしだき)・海老責(えびぜめ)・釣責(つりぜめ)の4種類に限定したのだそうだ。何だか聞くだに恐ろしい。4種類はまた4段階でもあって、囚人の頑健さに応じて白状しなければ一段ずつエスカレートする。最後が釣責である。これにかかると「縄しだいに皮肉に食い込み、その苦痛最も堪えがたく」、たいがいの者は白状するが、たまにはそれでも頑張る奴もいる。そうすると同囚から賞讃を浴びたという。何しろ自白に証拠能力ありとされた時代だから、拷問の苦痛から逃れようと自白したら最後、即座に死刑にされてしまうのだ。頑張る囚人が英雄視されたわけもわかる。

しかし罪人に自白させるのは正義だと信じられていた時代だったから、取り調べる側は拷問を悪い事とは感じなかったし、自白強要もよくあったろう。また中には囚人が苦しむのを見て楽しむ輩(やから)もいたに違いない。「罪と罰」の歴史の根底には「悪」の深さの領域が広がっている。そしてこの深層からはおずおずとした声で、ある根源的な問いかけが聞こえて来る。

もしかしたら「悪」に敵対するのは「善」ではなく、ともすればもう一つの対抗「悪」でしかないのではないか。パリの集団テロはなるほど「悪」であるかもしれない。だがもともとそれへの報復が理由だとイスラム側が主張するシリア空爆は「善」だといえるだろうか。世界の人々は今あれよあれよという間に旧約聖書の太古に引き戻されたかの感がある。それは必ずしも、たがいに唯一の絶対善が絶対悪とせめぎあう原始宗教への復帰ではなく複数の「悪」と「善」が交錯する人類の始原状態の蘇りではないだろうか。ことによったら、われわれは新しい世界体験に踏み入る度に、その都度、「罪と罰」の想念・思念を一からやり直さなければならないのではあるまいか。

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