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江橋崇著 『かるた』

「かるた」という言葉には奇妙な二義性がある。もともと外来語なのに、いつのまにか日本語になりきっている。「かるたを取る」といえば、百人一首のことだし、「かるたを打つ」といえばトランプのことだ。この微妙な使い分けからは、すでに日本の風土に溶け込んだカルタ文化の特質が見てとれよう。

つい最近、面白いニュースをテレビで見た。さぬきうどんのコマーシャルのために募集した「いろはがるた」の一枚にクレームが付いたというのである。「つ」の読み札に「強いコシ 色白太目 まるで妻」という川柳が入選したのはよいが、それに不穏当な語句があるという抗議の投書が舞い込んだそうなのだ。投書子のセンスについては別に論評しないが、たとえばこんなことがテレビニュースになるほど、カルタ文化は人々の生活に浸透しているわけである。

江橋崇(たかし)氏の近著『かるた』(ものと人間の文化史173 法政大学出版局)が刊行された。著者の本職は憲法学を専門とする法学者で、当然この分野の著書もある。だが同時に遊戯史学会の役員もしているし、本書と同じ文化史シリーズで『花札』も出している。マージャン関係の圖録も監修している。遊び事、勝負事も好きな法律家らしいのである。

本書には氏の深い造詣が惜しまず注ぎ込まれ、これまで蒐集した三つの資料群を支柱にしている。①状況証拠としての文献記録、②物的証拠としての実物(残存するウンスンカルタなどの品物)、③法制史的環境(かるた賭博禁令公布・花札販売の解禁など)の三つである。特に読者に有難いのは図版入りで示される豊富な「物品史料」だ。マニアには垂涎(すいぜん)の代物だろう。

さて本書の眼目は、日本のこうしたカルタ文化史の流れの中で特別な位置を占めている「百人一首」論である

日本では百人一首が、ヨーロッパの聖書、中国の四書五経、イスラム社会のコーランと並んで、「社会の共通言語の骨格」をなしたとするのが筆者の持論だ。百人一首は、近代の「標準語」が作られるよりはるか以前の時代から、教養人共通の必須知識として共有された。それが高尚な古典文化教育にとどまらなかったのは、カルタの大衆的な遊技性に媒介されたからである。

その際決定的な役割を演じたのは、百人一首が他のカード類と違って、「表配りのゲーム」だった点にある。秘匿された不完全な情報から相手の持ち札や狙いを推理する「裏配り」に対して、取り札が全部あけっぴろげに開示される「表配り」では、記憶を生かした情報処理のスピードで勝敗が競われる。著者はこの配り方の差異に「驚異的な発想の転換」を見る。そこに外来文物をみごとに咀嚼して自国の伝統に取り込んだ日本のカルタ文化の創意があるという。

総じて、この一冊をユニークなカルタ文化論に仕上げているのは、自国に「百個の詩篇を人々が共通して記憶しているという高度の文化」の伝統があることをを誇ると同時に、歴史上何度も施行されてきた禁令にもかかわらず、しぶとくカルタの諸形態を生き延びさせてきた人々の射倖性・賭博愛好性の伝承にも周到な目配りを忘れていないバランス感覚である。百人一首にも花札のように得点を計算して勝負する「むべ山」というバクチの仕法があったくらいだ。「むべ山風を嵐といふらん」という下の句の札を取った者は「役札」として銭何文かを得るといった寸法である。日本のカルタ文化史はこういったダイナミックな均衡の上にずっと成り立って来ている。後世にもぜひ持ち伝えたいものだ。

本書評は12月下旬に諸新聞に配信される『共同通信』の書評欄に書いた原稿に手を加えたものである。

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