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商売としての政治

このところ連日、舛添東京都知事を俎上(そじょう)に乗せるニュースがテレビの画面を賑わせています。殊に、拙老が見ているのは関西のテレビ局製作の番組ですから、製作者も視聴者も「東京憎し」のアンダートーンで盛り上がり、舛添さんが苦しい答弁を繰り返すたびに大いにはしゃいでいるように見受けられます。

拙老はかねてから世は末造(まつぞう)の時代と達観していますから、東京も大坂も眼中にありません。日本中どこででも、中央でも地方でも、現在「政治家」と呼ばれる人々、そう称する人々にとっての共通の問題を取り上げようと思います。

末造期を生きる政治家とはどういう人々なのでしょうか。「末造」という言葉はあまりなじみはないでしょうが、元は『礼記(らいき)』に「諸侯の冠礼あるは夏(か)の末造なり(諸侯が元服で冠を付けるようになったのは、夏王朝の末期からである)」とある典拠から出た言葉で、王朝末期ということです。これを今は「政体末期」というぐらいの意味で使っています。政権末期よりは一つ大きい単位です。「終末期」というと変にユダヤ=キリスト教臭いし、「末法時代」というと佛教臭いし、「末日」というとモルモン教か エホバ教臭いので、まったくニュートラルに「末造期」という無味無臭の言葉を選びます。

政治家といえば、マックス・ウエーバーの古典的な名著に『職業としての政治』というのがあります。原題は Politik als Beruf です。今更めいて気が引ける次第ですが、このBeuf なる語はberufen(英語ではcall)の名詞形であり、原義にはrufen「呼ぶ」「呼び寄せる」「召す」などの語意が生きていて。「任命」「使命」「呼集」といった訳語があてられます。中でもいちばんよく知られているのは、「召命」というキリスト教用語でしょう。信徒になるべく、神が人間個人に呼びかけるという意味です。この語義がつねに基層にありますから、ウエーバーの著書もせめて『使命としての政治』とでも訳しておけばよかったのです。それを『職業としての…』とやったものだから、後の混乱が始まったというわけです。もちろん Beruf には「天職」という訳語もあり、「天が与えた職」という考えを仲介にして「職業」という語義が派生します。不幸なことにこっちの方が世に流布してしまったのですね。

ヘボンの『和英語林集成』は慶応3年(1867)に初版を発行し、その後、続々と見出し語を35618語に増やし、明治日本も基本的語彙を収めた三版は明治19年(1866)に刊行されました。「職業」という日本語に対応する英語の名詞には、business,avocation,occupation,pursuit,employment,work,duty,tradeと、都合8語が列挙されています。ドイツ語の(というよりウエーバーの)Beruf と英語の(ヘボンの)business とではだいぶ違います。Avocation(副業)はまさか vocation(天職)の誤りではないと思われますから、そうすればよけいに、明治の「職業」は宗教性を脱色していることになります。Business はなるほど天から与えられた使命(天職)ではありませんが、人と人の間の契約に基づくものなのです。

一方、「職」という漢字にも長い歴史があります。原義には「しるし」という意味の底層があり、耳扁(へん)がついているのは、白川静(しらかわしずか)説では、昔、戦功の証拠に敵の左耳を切ってしるしにしたからだそうです。「しるしのある物」から「唯一の」「占有の」「ひたすら」「もっぱら」等の語義が派生しました。荻生徂徠もある仕事に専念することを「職として」事にあたると表現しています。徂徠学には「天命」の概念がすでにありましたから、幕末・明治の漢学的知識人たちは Beruf といった言葉に出会っても別に驚かなかったのです。

しかし、21世紀の日本での「職業としての政治」は、横文字でいうならさしずめ Politics as job とでも表現するのが適当なように思われます。いっそ「商売としての政治」といった方がすっきりするかもしれません。「商売としての」という言い方ががドギツイならば「生計のための政治」としてもよいです。じつはウエーバー自身もすでに同書中の「職業政治の二種類」という段落で、職業政治家を①政治の「ために」生活するタイプ、②政治に「よって」生活するタイプの二つに分類しています。つまり、国家および市町村の議員、知事・市町村長、閣僚ならびに高級官僚などの俸給生活者のおおむねがこの②のグループに所属すると見てよいでしょう。シビリアン・コントロールが優勢な現代では特に、選挙で選ばれた政治家が行政府の「役人」を動かすシステムが出来上がっていますから、政治家商売も大繁盛のようです。

昨年、公金を私的な旅行に注ぎ込んだのを県議会で追及されて、「せっかく県会議員になれたのにイ」と号泣してすっかり有名になった野々村さんという人物がいました。今度の舛添さんのケースも、「せっかく東京都知事になれたのに」という点でまさに同格と申せましょう。でも、高校生の時は模擬大学入試で毎年全国2,3位を争い、大学ではつねに優等生であり、東大教授をやめて政界入りをしたようなヒトは、普通こんなことは言わないものです。そういうヒトが政治の大道を歩むところにこそ、現代の「末造期」たるゆえんがあるのでしょう。ウエーバーも言ってます:「彼(職業政治家)の収入は、彼が常に彼の労働力と彼の思考力とを、完全に、またははるかに圧倒的に、彼の収入を獲得する勤務におくということに依存してはいけないということであります」(西島芳二訳)と。よく分からない訳文ですが、要するに、政治家は自分の給料だけじゃやっちゃいけまいということらしいです。 (野口武彦)

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