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夢占

「夜さまざま物思いにふけり、いつ寝入るともなく眠りに入って自然に夢をみている」と、江戸時代中頃の文人柳沢淇園が随筆『ひとりね』に書いています。淇園はあの柳沢吉保から苗字を許された一族に生まれながら、武士=治者の生き方を嫌い、文人画家としてディレッタント的一生を選んだ変わり種です。少年時から英才教育を受けて育ち、えらく早熟で、十代から遊里に入り浸り、女体鑑賞にかけては一流の鑑識眼をもっていました。そんな淇園ですから、夢でもさぞや「夜ごとの美女」を堪能したと思うのですが、当人は不満げにこう書いています。

「たまたま恋しい人に会っても、相手はいっこう嬉しそうな顔をせず、自分があちらを向くと相手はこちらを向くという風に拗ねた姿を見せる、そしてその姿が男に変わったり、ひょいと硯箱みたいになったりして、いやはや何とも取り留めのないものだ」(92条)。

しかし、たとえそんな風に取り留めないものであり、「夢幻」という言葉があるように夢はまとまりがなく、定めないことのたとえにされるようなものであっても、昔はそれほど怪しいものだとは考えていなかったようだと淇園はいい、『周礼(しゅらい)』に見える「六夢」を引いています。①正夢②霊夢③思夢④窹夢(ごむ)⑤喜夢⑥懼夢(くむ)の6つです。それらを解釈して、未來を予測する夢占(ゆめうら)の材料にしたそうです。一々注釈することはしませんが、「喜夢」は「喜悦して夢みるなり」としているのが面白いところです。淇園にいわせれば、古代の聖人は「夢のようなものをさえ自分の心から出た物だとして、決して軽視されなかった」(『柳淇園先生一筆』)のですから、その夢を見たとき自分が喜悦している状態だったことはすこぶる大切なのです。

さて、これからお話する拙老の夢などは、さしずめ間違いなく「喜夢」に分類されるでありましょう。古い夢です。神戸に来て間もない1968年の頃のものです。青谷という場所にあった下宿の一部屋で見た夢です。拙老はまだ30歳そこそこの年齢でした。

不思議なことに、この夢の話者はI教授でした。拙老を神戸の大学に呼んで下さり、たいへんお世話になった人物です。夢中の出来事の一切は、教授の語りとして進行します。語られたことがすべて夢者、夢見人(ゆめみにん)たる拙老の目の前で起こるのです。それどころか、空気の揺らぎや水の波動の感覚もそっくり残っています。言い替えれば、I教授の話の中に拙老の五官がそのまま復原されていたのかも知れません。

青谷の下宿はいつのまにか浴室になっていました。まん中に置かれた大きな浴槽には硫酸銅の色をした湯が湛えられ、その中にI教授がゆったり漬かっていました。浴室の戸が開き、女子学生が一人、一糸まとわぬ姿で近づいて来ます。誰も入っていないと思っているようで、浴槽のへりをまたいで湯に漬かろうとします。が、すぐにI教授に気づき、キャアと羞恥の嬌声を発すると、両手で乳首と恥毛を蔽い、あわてて全身を湯に沈め、頭から水に潜って泡のように溶けてしまいました。

続いて2人目の女性が現れ、同じような仕草をして水に溶けました。その後も3人目、4人目、5人目と同じ情景が続きました。その一部始終を拙老は夢の中で眺めていました。

それから今日(2016年8月20日)までこの奇妙な夢を人に話したことはありません。I教授にも、あの夜夢に出現した往年の女子学生たちにも、です。固有名詞は差し控えますが、すでに他界した人もいますし、その後かなり体形の変わった方々もおあれます。しかし今からほぼ半世紀前には、皆さん、剥きたての水蜜桃のような肌をなさっていました。その実物は時間の風化作用によって見る影もなくなっているかもしれませんが、イメージは夢像の記憶に永遠に滅びることなく保存されています。

この夢はいろいろな概念を思い起こさせます。まず「夢の話法」、それに関連して「夢の人称」。拙老にはいまだに、この夢の主人公はI教授であるのに、I教授が登場する場面を見ていたのが拙老だったというカラクリが腑に落ちません。拙老はいったいどこにいたのでしょうか。能楽用語でいう「見所」という言葉を思い出します。普通、観客席を意味するとされますが、実際には夢幻能を見る人――ワキの見る夢をさらに一回り外から見る――という意味の超越的視座のようなものであり、ことによったら拙老はそんな視座にいたのではないでしょうか。(了)

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