toggle

サルスベリ慕情

サルスベリサルスベリの花を見るたびに夏の連日の陽射しを思い出します。それも昭和20年(1945)の戦争最中の真夏です。もしかしたら、枝から一斉に紅桃色の炎か噴き上げるように花群を咲き開かせるサルスベリの形状と、同年の東京大空襲の時、くっきり眼に焼き付いた米軍の焼夷弾の炎の色とが一つの心象風景の中で融合しているせいかもしれません。はるか後年、メキシコで街路樹のカエンジュ初めてを見た時、「この花は昔見たことがある」という錯覚に襲われたことがあります。

それらの日々、小学校――もとへ! 国民学校であります――の一年生だった拙老は山梨県甲府へ疎開していました。それも昭和20年4月13日の城北大空襲で淀橋区(現新宿区)柏木の家を焼き払われた後、急遽、甲府の親戚の家へ転がり込むという間抜けな疎開でした。甲府上空は、東京をめざすB29の編隊がすぐ南に聳える富士山を目印に飛来し、東旋回して方角を転じる飛行ルートだったにも拘わらず、人々はすこぶる呑気(のんき)で「かつて武田信玄を守った自然の山岳地形が敵機爆撃に対する強い味方だ」(山梨日日新聞)といって悠然と構えていたそうです。しかし甲府の町は同年7月6日の深夜、絨毯爆撃を食らって炎上しました。

拙老一家は甲府空襲の直前に東京へ帰っていたので、その様子は知りません。甲府は盆地の町です。そこへ絨毯爆撃ですから人々は逃げ場を失い、火災によるフェーン現象も起きて現場はかなりの惨状だったようです。後になって苦労話をいろいろ聞かされましたが、そうなる以前の、甲府がまだ空襲を知らなかった時分には、拙老は何しろまだ数え年9歳の、東京で空襲の炎火をくぐり抜けてきた少年でしたから、珍しがられ、周囲から何となく畏敬の眼差しを注がれていました。一種「語り部」的な少年だったのです。『戦災の思ひ出』という作文を書いて先生にも褒められました。

サルスベリ2

疎開先の家には小さな庭があり、その片隅にサルスベリの木が植わっていました。花が咲くまで拙老は何という木か知りませんでした。初めは、何だか幹のツルツルした妙な木が生えていて、それが盛夏になったら急に花を付けて存在感を主張しはじめたのが目に留まったのです。ピンクの炎がにわかに燃え立ったような花の梢の下に一人の女性がしゃがんでいたのが印象的でした。その情景はそれから70年経った今でも鮮明に記憶に残っています。

その女性は何をしていたのでしょうか。一人で泣いているのを見たような気がします。でも当時9歳だった拙老には、それは覗いて見ることを許されない、遠い世界の出来事のようでした。その甲府の家は、郊外に持っている広い土地で牧畜をやっているとかの旧家で、町中の家にも使用人が何人かいました。その女性もそうした使用人の一人でした。因習的な当家の主(あるじ)との間に、いろいろ男女のことなどがあったのかも知れません。その頃の拙老は、何しろ天使のように純潔でしたから、その辺の事情とはまったく風馬牛だったのです。ほんとです。

拙老の記憶はその情景でふと途切れてしまい、そこで記録映画のフィルムがふっつりと中断したように、それから先はありません。その女性は程なく実家へ帰って、空襲で死んだと戦後になってから聞きました。

戦後の東京は見渡す限り焼野が原でしたが、植物の中でも強靱なものはしぶとく生き残りました。サルスベリもその種類だったのでしょう。戦後の東京に訪れた猛暑の夏、炎天と瓦礫にむしろお似合いの風情で一緒懸命咲いて見せている花があり、あれがサルスベリだと人に教えられたのが、この花の名をきちんと覚えた最初だったと思います。つまり、この花に関する知識はいくつかの段階で拙老の頭に入ったわけです。最初はいやに官能的な幹の形と肌の色で、二度目は鮮やかな紅色の色調で、三度目に、形と色が女人のイメージに複合して。

サルスベリは、その花と樹形の全姿から、いつでも独特な波長のエロティシズムの磁波を発散しています。(了)

 

コメント





コメント

画像を添付される方はこちらで画像を選択して下さい。