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権力の無人階段

金正男殺害事件が世界中の注目を浴びています。VXでの殺人劇には、某国国家元首の意向やら大使館の関与やらオツムの弱そうな東南アジア系美女の参加やらで、関係者の範囲はどんどん広がり、登場人物のやたらに多い政治劇になっています。本日のニュースでは中国が北朝鮮からの石炭輸入を禁止したそうで、これを経済的制裁と見るならば、「国ぐるみの謀略説」はいよいよ動かし難いようです。中国がマレーシアに圧力をかけた(北朝鮮庇護か?)と伝えられるのも同様です。

世論では、北朝鮮の非人道性を非難する論調ばかりがかまびすしく叫ばれていますが、拙老には、これは果たして国家の制度だけの問題だろうかという気がします。つまり、全体主義国家だからこういう事件が起きるのではなく、これからはいわゆるデモクラシイの世界でもこんな政治劇は繰り返されるのではないのでしょうか。

拙老がまだ若い時分、たしか昭和31年(1956)頃、日本で封切られたローレンス・オリヴィエ――なんていったってもう知っている人はいないか――主演の『リチャード3世』という映画がありました。15世紀のイギリス、薔薇戦争と呼ばれる30年も断続的に続いた血なまぐさい内乱の末期に、王位を簒奪して「リチャード3世」となった男を主人公にした歴史映画です。

英国プランタジネット王朝の二分家ランカスター家とヨーク家が王位継承をめぐって抗争し、ランカスターは赤い薔薇、ヨークは白薔薇をそれぞれ紋章にして相争ったのでこの名があります。しかし、実情は綺麗事ではなく、近親や兄弟が殺し合う凄惨な権力闘争でした。1555年から1585年まで続きます。

圧巻は最期に1585年のボズワースの戦場で敗死するシーンでした。リチャードは落馬して「馬をくれ、馬を、馬を持って来たら俺の王国をやるぞ!」と叫んで奮戦し、ずたずたに切りさいなまれて芋虫のように転がります。取り囲んでいた兵士たちが弾かれたように後ずさりします。執念で起き上がろうとする敵に畏怖を感じたのです。血で隈取られた断末魔の表情が大写しになり、ついに力尽きて息絶える姿が凄かったです。前進座の名優河原崎長十郎――この役者を知っている人も居くなりました――が、この《落ち入り》は歌舞伎の殺し場そっくりだと感嘆していたのをよく覚えています。

このリチャード3世(ヨーク家)は自分が王位を手に入れるために、兄エドワード4世の急死をよいことにその子(リチャードの甥)をロンドン塔に幽閉して殺しています。しかしそのエドワード4世もかつてはヘンリー6世(ランカスター家)をやはりロンドン塔に押し込めて廃位しています。殺害したとする説もあります。そしてボズワースの戦勝はヘンリー7世の戴冠につながります。その他一々例は挙げませんが、イギリス国王の系譜の背景には何度も繰り返される王族内部の相互殺戮が透けて見えるわけです。今でこそ、イギリスは憲政のモデルのようにいわれていますが、前世紀にはけっこう血なまぐさかったのです。薔薇戦争などは、紅白入り乱れた源平合戦を思わせます。

クワランプールの空港の医療センターで、テレビの画面に大写しになった金正男の姿は悲哀を感じさせました。そこにはいかなる美学的救済もありませんでした。源平合戦も薔薇戦争も(その他いかなる歴史的名場面も)ドキュメントにしたらそうなるでしょう。あの笑止な――この言葉の原義はワライ・ヤム(日葡辞書)であって、「嗤うべき」ではありません――絶命直前の姿からは、現代における政治死の普遍的な位相が見えて来ます。これはもう近親憎悪なんてものではない、自己に対立する者は必ず排除しなければならない権力者のルールなのです。

ポーランドの批評家ヤン・コットはその卓抜なシェークスピア史劇論の中で、リチャード3世の舞台後景には「無人の階段」があるといっています。王位という頂点に人を導く階段。一人が上り、それに次が続きます。それにまた次の次が続いて、リチャードとかヘンリーとか名は違っても永遠に階段のドラマが繰り返されます。シェークスピアが閃かせているのは、歴史とはそういう永劫の自己同一性ではないかという怖しい啓示です。

金正男暗殺は、おそらく「白頭山王朝」に伝わる権力葛藤のドラマを現前させたと思われます。この王朝が存続する限り、クーデター・予防的反クーデター(粛清・暗殺)が繰り返されるでしょう。遺伝形質は発現せずにはいないのです。

国家元首が3代にわたって世襲されるのは民主主義の時代に逆行すると言われます。たしかに、それは封建時代に支配的だった権力委譲の方式でした。しかしこの現象――慣習ではなく――は、ある意味暗示的に、今後の世界で政治的支配層が不可避的に直面する権力継承とい処方の提出であるとは考えられないでしょうか。もちろん、世襲制がよいというのではありません。一般に、権力を後継する者は何を基準にして選ばれるべきなのか、平たくいえば、誰を信用して後事を任せられるのか、という問題です。

封建社会あるいは封建遺制の強い社会では、血族・姻族・藩閥・県人会・学閥などの直接的人脈が物を言います。気心が分かることが優先します。同臭だからこそ信用できるのです。その点、近代民主主義というやつは両刃(もろは)の釼でした。たとえ毛色の違う相手とでも一緒に議論し、かつ平等に投票させて政策決定しなければならないのです。しかも近年では、民主主義がまさにその原理――無選別性・資格不問性・多数決制など――ゆえに反・民主主義に転ずる場合がしきりに起きています。たとえば、トランプさんのアメリカ、EU離脱を決めたイギリス、右翼が政権に就きそうなイタリアやフランスなど。(そしてたぶんわが国も)。これらすべてを公式化していえば、《民主主義を多数決で否決した民主主義》という逆説的な現実なのです。

困りますねえ、どうしたものでしょうか?  了

 

 

 

 

 

 

 

 

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