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タイタンの黄昏

誰がどう見ても現行世界秩序に一つの「終末」が忍び寄って来ているのは疑いないようです。とりわけ長いこと「民主主義」というブランドとして安全視されていた政治システムが何となく信用できなくなったのが心配です。何事でもワアワア大勢で「賛成!」「反対!!」と決めればそれでいいのかという問題が真剣に考えられているようです。

「世界の終焉」とか「民主主義の末期症状」とか悲観的に物事を見るのが流行していますが、そうした発想の根本にあるのは、やはりユダヤ=キリスト教的時間論に影響された「終末史観」だと思います。世界史は良かれ悪しかれ一つの予定されたend(終止、目的)に向って収束して行くと見る歴史像が描かれます。もちろん、世にはそうではない時間論も史観もいろいろあって、たとえば日本の伝統では――循環史観などと呼ばれますが――物事の終わりと見えるものはすなわち始まりであり、永遠にぐるぐる廻って終末がないのです。気が楽でいいですねえ。

ヨーロッパにも「終末史観」とはいえないのもあります。キリスト教発生以前のギリシャ=ローマ神話に終末論はありません。最近非常に面白いと思うのは、北欧神話です。じつは拙老、昭和23,4(1948~9)頃――満11歳前後の時です――、世を挙げての活字渇望時代に繁盛した貸本屋(あの頃は焼け残った蔵書が資本になりました)から借りて来て愛読したのが『北欧の神話と伝説』という古本でした。その時に覚えた言葉が鮮明によみがえって来たのです。

その一つにラグナロクという言葉があります。昔の本では「ラグナレク」と表記してあったように記憶しますが、古ノルド語ではRagnarøkあるいはRagnarökと綴るそうですから、ゲーテかギョエテかの問題みたいなものでしょう。要するに「北欧神話での終末の日」という意味だそうです。この日には神々も滅亡します。それも巨人族と死闘して共倒れになるのです。エッダ神話では神も永遠不死ではありません。

ワグナーの楽劇に『神々の黄昏』というのがありますが、 Götterdämmerung(ゲッターデメルング)というドイツ語の原題はこのラグナロクの訳語だそうです。リヒアルトの孫ヴィーラント・ワグナー演出の舞台をテレビで見ましたが、神々がみなフロックコートで登場する奇妙なオペラでした。ラインの黄金は金融資本だったのかもしれません。

今回のタイトルを、『神々の黄昏』をなぞって『タイタンの黄昏』などとしてみたのは、最近見かけたある政治家の姿に忍び寄る「終末」の影を感じたからです。去る2月8日、小池東京都知事が都議会の百条委員会に石原慎太郎氏を召喚したいと発言。それに応じて、同委員会まで待っちゃいられないいといって石原氏が3月3日に記者会見を開きました。そのテレビ中継を見ていて印象がまさにそれだったのです。拙老は惻隠(そくいん)の情を感ぜずにはいられませんでした。

もちろんこれまでの氏が保守派政治家として行ってきた言動には批判がないどころではありません。しかし、今「惻隠の情」と形容した感情は、思想上の賛否とか主義主張の異同とかの精神的次元かからではなく、もっと何かこう体感的なレヴェルから発したものです。「慎太郎もトシをとったなあ」というのが偽らざる感想でした。 

拙老はふとこれも昔見た能の『実盛(さねもり)』を思い出していました 。ご存じのように、源平合戦の時代、平家の一武将として加賀国篠原で戦い、老齢を侮られまいと鬚髪を黒く染めて奮戦し、武運つたなく討死する古武士斉藤別当実盛をシテとする修羅能です。ことに後シテのキリの詞章、〽老武者の悲しさは、軍にはし疲れたり……の一節が心に浮かびます。というより、かつて能舞台に幻じた老い武者と疲労の色濃い老政治家と二つの形姿が重なります。

来たるべき百条委員会で引かれるのは一見すると「正」と「邪」との、「若」と「老」との対峙線のように見えますが、じつは政治手法の新旧対立ではないかという気がします。石原氏と拙老が共に属している旧世代には「君子は器 (うつわ)ならず」(『論語』為政)という語句が意味をなします。が、都知事その他の石原批判者はみな君子に「大器たれ」と要求している、と見るのは僻目(ひがめ)なのでしょうか。  了

 

 

 

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