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再録 市原悦子さんを悼む

この文章はもと1月14日、市原悦子さんの訃報に接したその日のうちに書いて本欄に載せたものですが、その後うっかり自分のミスで消してしまいました。サーバーにも保存されていません。覚えているうちにそれを復原しておくことにします。

 

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あれはいつだったか、まだ大学で教えていた頃、一人の女子学生にお世辞のつもりで「きみは最近市原悦子に似てきたね」と言ったら、急に泣き出されて往生したことがありました。

 

拙老としては褒めたはずなのに案に相違の結果だったので当惑しました。人にその話をしたら大笑いされて、やっと理由がわかりました。向こうが知っている市原悦子は、当時  1990年代  テレビで放映されていた『家政婦は見た』シリーズの主演女優だったのです。一方、拙老の頭にあったのは1960年代に東京は麻布六本木の俳優座劇場でさんざん見た新進女優でした。若く、ほっそり、清楚な姿で『ハムレット』のオフェリアとか、フランス喜劇『クルベット天から舞いおりる』の可憐な娼婦とかを演じていました。ブレヒト『三文オペラ』の海賊ジェニーの歌では、あの顔からは迚も信じられないような野太い声を聞きました。つまり拙老とくだんの女子学生とでは、持っている記憶像の時差がありすぎたのです。

 

拙老も長いこと市原悦子さんの舞台姿を見たことはありませんでした。

 

しかしそういえば1970年のこと、神戸で一度だけ市原さんと会ったことがあります。三宮の国際文化会館に劇場があって、そこへ俳優座が福田善之氏の『しんげき忠臣蔵』を持って来たのです。もちろん、お軽の役は市原さんでした。福田氏が市原さんに紹介してくれるというので、いそいそ楽屋まで出かけて行きました。拙生も勘平さんじゃないが三十になるやならずだったので大変心嬉しかったのです。

 

ところが楽屋の雰囲気はそう良好ではありませんでした。何しろその頃は六十年安保闘争の記憶が生々しく、拙生は「代々木派」と誤解されて  実際には構造改革派でしたから、いわば「千駄ヶ谷派」でしたが  、この時代相当悪役だったのです。俳優座の若手役者たちも多くはブンド(共産主義者同盟)の影響下にありました。みんなソッポを向いていたし、老優東野英治郎までが、鏡に向かってメーキャップをしていましたが、「野口武彦か!」と吐き捨てるように言ったのを覚えています。相手をしてくれたのが櫟原さん一人だったのですが、本当をいうと、拙老はすっかり上がってしまったと見えて、何を話したのかよく覚えていません。ただ一つ、拙老が夢中になって「いつかあなたに戯曲をお贈りさせて下さい。約束します」と口走り、市原さんに「まあ嬉しい」と言ってもらったのを思い出します。

 

あれから50年の月日が流れました。あの時の約束をまだ実現できていません。市原さんは気にも留められなかったでしょうが、拙老は「いつかは、いつかは」と思っているうちに時が経ち、市原さんは他界されてしまいました。長谷川伸の戯曲『一本刀土俵入り』を思い出します。相撲取りになれず今は渡り者の駒形茂兵衛を揮って昔世話になった酌婦お蔦の危難を救い、逃れて行く後ろ姿を見送る幕切れです。手にした一本刀が約束した土俵入りの代わりになるわけです。

 

拙老はまだお約束の戯曲は書けていません。ジャンルは違いますが、『花の忠臣蔵』以下の作品を世に問うのが精々でした。市原さん、これが50年かけて実現した駒形茂兵衛ならぬ野口武彦のせめてもの一本刀土俵入りでござんす。(幕)

 

 

 

 

 

 

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