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亡妻を『偲ぶ会』御報告

去る12月5日に亡妻芳子の『偲ぶ会』を開きました。芳子との別れを本当に悲しんでくれる友人知己二十六人の心のこもった集まりでした。

いくら余命はどのくらいか知らされてはいても、別れはあまりにも急だったので茫然自失の日々が続き、方々に訃報を伝えるのもひどく遅れました。故人はいろいろな方面にお友達も多かったのですが、住所氏名・メールアドレスなどがスマホの中に散らばっていて、親疎の度合などもわかりかねました。そんなわけで、決して多人数ではないが参加者の心が通いあう清楚な集会になりました。ご出席の方々に感謝すると共に、連絡の行き届かなかった方々にお詫び申し上げます。

会場では遺影に献花して下さった皆さんが一人一人、代わる代わる故人の追憶を語ってくれました。拙老の教え子たち、神戸高校同級生、アメリカ時代の旧友、英語教育関係の知己、マンション住人などいろいろの分野から人々が集まって下さいました。拙老は改めて、亡妻が立派に現実生活で活躍し、拙老に欠けている能力を発揮して拙老を守り立ててくれていたことに思い至りました。拙老は無力で何もしてやれなかったことに恥じ入るばかりです。最後に亡妻を『送る言葉』を――拙老に構音障害があるので――司会者に代読してもらいました。以下、その文章を採録させていただきます。

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芳子を偲ぶ言葉

芳子。
きみはぼくにとっては「過ぎた女房」でした。

今になって改めてしみじみ、きみがいかにぼくのことばかりを考えていてくれたかを感じています。

きみは大勢の人に親切でした。大勢の友人たちを持っていました。そんなきみがぼくを人生の伴侶に選んでくれたことは、思えば大変ラッキーなことでした。しかしぼくはそれにすっかり甘え、「ありのすさびに」かまけてワガママばかり言っていました。ごめんね。

ずっと苦しい副作用に耐え続けてくれた君を、もっともっと大切にしなかったことがつくづく悔やまれます。

きみとはここ神戸で五十年一緒に過ごしました。まるで特別な時間と空間が、二人のまわりに開けているかのようでした。空に雲が流れ、丘に風が吹き、日が照っていて、二人が永遠に暮らす幻の国土がそこにうち建てられたみたいでした。

きみは長い闘病のうちに人間を見る目が怖いほど澄んできて、うわべの同情や言葉だけの「友情」を鋭く見抜くようになっていたよね。お座なりの・口先だけの・世間智流の・処世的な応対や友達のふりを敏感に察知したっけ。ぼくも感化されて相手の人となりを感じ分けるようになったと思います。今日の『偲ぶ会』にも、きみをなつかしみ、心からきみとの別れを惜しんでくれる本当の友人知己の方々に来ていただきました。

芳子。現在ぼくはずっと共に生きてきた住居の一角できみの骨を守って暮らしています。どんな宗教にも社会慣習にも介入させません。寿命の続く限りこうして一緒に住み続けましょう。いつかそう遠くない将来は、富士山麓の『文学者の墓』で寄り添って眠りましょう。それまで待っていておくれ。

二〇一九年十二月七日  野口武彦

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また会場には、講談社の横山建城氏ならびに米国インディアナ大学名誉教授のスミエ・ジョーンズ氏から追悼文が寄せられました。併せて再録させていただきます。

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オトタチバナヒメ    横山建城

野口武彦先生の著作の刊行をお手伝いするようになったのは『慶喜のカリスマ』(二〇一三年)から。まだ十年にもならない。それでも『忠臣蔵まで』『花の忠臣蔵』『元禄六花撰』『元禄五芒星』と五冊を担当してきた。

最新作「崩し将棋」(『群像』二〇一九年十一月号)も単行本化を見据えて掲載した。「桃叟だより」をご覧の方ならご存じであろうが、すでに脱稿した短篇がほかにいくつかある。それらをまとめて一日も早く六冊目にしたいのだけれど、それを芳子夫人にお目にかけられなかったと思うと、ただただやるせない。

夫人は亡くなる二ヵ月半ほど前に、本の宣伝費の提供を申し出てこられた。それが既刊に対してのものなのか、遠からず出すべき新刊のためにということなのかはわかりかねたが、ちょっと驚く金額だった。私は「お話はまことに有難く存じますが、宣伝等につきましては版元の責任できちんとやりますのでご安心を」といった、じつに空疎な返信をした。

送信アイコンをクリックしたあと、強烈な自己嫌悪に襲われた。ご病気の芳子さんは、「どうかご立腹になられずお教えいただけないか」「私が野口の仕事の役に立てそうなことはもうこれくらいしかありません」と記してこられた。おそらく余命を悟っておられての、よくよくの言なのだ。それなのにこんな返事しかできないとは、なんと情けないことか……、と思った刹那、私には芳子さんとオトタチバナヒメとがオーバラップして見えた(あまりに唐突な連想だが、これは私が三浦半島の出身だからかもしれない)。

オトタチバナヒメが夫ヤマトタケルをどう思っていたかは、古事記中の絶唱に明らかである。野口先生と芳子さんのあいだにも、余人の知りがたいさまざまなことがあったろう。一方、海神の怒りを鎮めるとてヒメが走水の海に身を沈めたとき、それを呆然と見ていた愚かな従者がいたはずである。私は芳子さんの最期の一念にふれたのに、マヌケなことしか言えなかった。いまとなっては、武彦先生の「吾妻はや」の思いをかたちにして、一日も早く芳子さんのご霊前に捧げることがわが任だと期している。

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野口芳子様に初めてお会いしたのは、1982年、アール・マイナーさんの音頭取りで、ワシントンDCで共同研究のセミナーがあった時でした。野口武彦夫人として同伴なさった芳子さんとはウマがあって、食事やレセプションの時間などにはお喋りしたものです。控えめなところがありながら話題に尽きず、爽やかな方という印象でした。それ以後は、太平洋を隔てていますから、時に電話を頂くというお付き合いでしたが、野口武彦さんの著書を頻繁に頂き、ご夫妻とは親友と決め込んでおりました。彼が肝臓の疾患で入退院を繰り返す間、芳子さんは看護に身を削る毎日だったと想像しておりました。阪神大地震のただ中で、彼を背負ってマンションの外の塀の上から押し出して救助したのも、失意のどん底にあった彼に生きていく決心をさせたのも、その後彼が禁酒して著作に専心するようになったのも、すべて彼女の献身的な愛によるものと思います。大震災以後の彼は、『安政江戸地震』を皮切りに、政治批判と歴史批判の名作をほぼ年間1作という驚愕的なテンポで上梓していますが、どれも彼と彼女の二人三脚のたまものに違いありません。最後にお会いしたのは、阪神大震災の2-3年後のことです。丁度日本に行っており、あまり記憶が定かではありませんが震災の爪痕はすっかり除かれ、書庫など立派に改造されていました。天井が落ちて潰れてしまったマンションの片付けや改築に芳子さんは随分苦労なさったことでしょう。マンション住民の間では、個々に改築して行くべきか、全体を取り壊して新築するかという議論が続いて、夜な夜な徹夜の会議があり、責任感が強くて働き者の芳子さんは睡眠不足の日々だったことでしょう。有能にして包容力のある、素晴らしい友人でした。愛する人を徹底的に守った女性でした。ご逝去をお悔やみ申し上げます。

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今回のブログはずいぶんと長くなりましたが、事柄の性質上どうか御海容下さい。桃叟識。

 

 

 

 

 

 

 

コメント2件

 林美栄子・大西安代 | 2019.12.16 17:27

初めまして。神戸の花隈町にあります「神戸市民間病院協会 神戸看護専門学校」の顧問の林と学校長の大西と申します。
野口先生の訃報をお聞きし、驚いております。本校は野口先生に大変お世話になり、是非ともお礼を申し上げたくメール致しました。

野口芳子先生には、平成6年ごろから約13年間ほど本校の英語の授業を担当していただきました。
いつも優しい笑顔でお話をしてくださり、安心感を与えてくださるとても素敵な先生でした。
講師を引き受けてくださったときに、看護教育にも大変興味を持ってくださり、「看護学生が英語に興味を持つにはどうしたらよいのか。使える英語でなければ意味がない!」ということを真剣に考えてくださいました。そして、看護学生のために医療英語の本を執筆してくださり、看護学生への熱い思いを頂戴したのを覚えております。
本当に、長い間本校ではお世話になり、多くの事を学ばせていただきましたこと深く感謝申し上げます。

野口芳子先生のご冥福をお祈り申し上げます。

ご主人様も野口先生に先立たれ、さぞかし御寂しいことと存じます。時節柄どうぞご自愛くださいませ。

 ugk66960 | 2019.12.17 14:55

御追悼の御文章どうも有難うございました。

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