このたび日頃の連俳仲間を誘い合わせて「俳友グループ」という名称でラインを始めました。スタートは5人からです。追々ふやしてゆくつもりです。
これを機会に、くどいようですが、連俳と一句立ての俳句――これを「単俳」と名づけます――との違いをハッキリさせておこうと思います。というのは、なまじ俳句のうまい人ほど連俳への切り換えがダメなのです。失敗はしばしば得意芸をしている最中に訪れるものです。秀才根性は禁物です。
連俳は両性合意のもとでなされる行為であるのに対して、単俳は自己完結をめざします。あんまり上品なたとえじゃなくて恐縮ですが、悪くすると一人Hのようなものにもなる、と申せましょう。いいものでも自己セントラリズムなのです。客観性に偽装した主観性が発露するのです。
もちろんすべてがそうではありません。向井去来には「尾頭の心もとなき海鼠なまこかな」(『猿蓑』)のような秀作があります。これは発句として作られていますが、この後に脇句以下が続いた話を聞きません。単俳は言いっ放しの句なのです。(ちなみに『猿蓑』とは元禄年4年1691に出た蕉門の発句・連句集で、『芭蕉七部集』所収のものはその連句だけの部分です。)
偶然、拙老のもとへ三山子の近作俳句が送られて来ました。『二〇一九年』と題し、一月ひとつきに3句ずつ偶作を選び、全36句を集めたものです(『世代の杜』小説所収)。三山子はおそらく誰か師について本格的な修業をしたと見受けられ、句集にしてもよいほどこの道をたしなんでおいでです。たとえば12月の掉尾を飾る「年つまるいまだ参らぬ墓二つ」の一句は、拙老の心を打ちます。
この句は単俳ですから、必ずしも返句を要求してはいません。だから、これに連句で応じるのはたがいに他流試合になりましょうが――――
年つまるいまだ参らぬ墓二つ 三山
西風寒き富士の夕陽せきよう 桃叟
どなたかこれにもう一句付けて「三つ物」にしてくれませんか。
リゾートの地所渺茫と荒れゆきて