toggle

ブログを新規まき直し

奇貨措くべからずという言葉があります。本ブログが一時ダウンし、ファイルの一部が 消えてしまったのは災厄には違いないが、考えようによっては「天の配剤」なるべし。つまり一種の「奇貨」です。この機会に大きく模様替えすることにしました。

「わが終活」なんてシカツメラシイのは柄に合わないのでやめにしました。「昭和昔話集」に一本化します。思想なんてものは拙老のニンじゃないのです。サバサバと切り捨てました。

「昭和昔話集」というタイトルで、ダウン以前に5,6回書いたような気もするが、これもやり直しです。その他 コメント欄で二三応酬があったようにも記憶しますが、それも忘れて下さい。これからは好きなことだけを書きます。

今日はまず、「昭和昔話集」第一回『昔の劇評』の復元と増補から。そのオリジナルは次の通り。

「昭和の昔、守田勘弥(喜の字屋)というそこそこの役者がいた。ある時『寺子屋』の松王丸を演(や)ったことがあって大張切りだった。本人も一世一代の大舞台だと思っていたらしい。公演が始まってすぐに、新聞に劇評が載った。「舞台に源蔵が二人出て来たようだ」。昔の劇評家はうまかった。――最近、次期首相をめざして何だか色っぽくなっ菅さんを見ていて、ふと思い出しました。」

今日は2021年1月20日です。第二次緊急事態宣言(従来の一都三県に加えて大阪・京都・兵庫・愛知・岐阜・福岡・栃木の6府県に拡大)された日付です。引用した文章を書いたのは2020年9月初めのことですから、内閣支持率が大幅に下がっている今日の時点で評定したら不公平になるでしょうが、逆にかえって「先見の明」があったということになりませんかねえ。政治力がどうの指導性がこうのなどとダイソレタことは申しません。ただどう見てもニンじゃない、と皆わかっているのです。

「舞台に源蔵が二人出て来たようだ」という寸評がいかに真をうがっていたかは、ポスト昭和の読者に食もう通じないかも知れません。しかしここでも逆に、テレビの管さんの顔つきがこの評言の理解を助けるかも。 了

コメント8件

 竹下史郎 | 2021.01.15 19:09

」「奇貨」だそうですがこちらは「奇禍」です。

 甕(もたい) 修 | 2021.02.20 12:41

 江戸の思想史・詩文から近代文学・舞台まで、すべての領域に通暁しておられる先生の評言を理解できているとは思いませんが、文明批評的な視点の幅広さはすべてのブログを読まずとも伝わります。ちなみに、小生はかつて先生の著作の中で「小説の日本語」の理論部分をずいぶん参考にさせていただいた読者です。
 ところで、あえて「昭和の昔語り」に、たとえば丸山真男の素顔などの昔語りも、時折は交えていただければたいへんありがたく存じます。また、最近の江戸の思想史では、崎門学派の維新以後に及ぼした影響がおおく言及されている気がします。江戸思想の俯瞰的な理解と、政治の「舞台」に登場した数々の名役者などをつうじて、思想の可能性について語っていただければ幸いです。

 ugk66960 | 2021.02.21 17:12

昔の拙文がお目に留まっているようで恐縮です。「昭和の昔語り」、続けようとは」思うのですが、なかなかはずみが付きません。昔話に興じてくれる仲間の数がどんどん減ってゆくせいでしょう。丸山先生について語るのは、直系の門弟でない拙生は適任ではありません。しかし、その丸山先生が晩年、「歴史の古層について」以来、崎門学派に関心を持たれたことには興味があります。今日をも視野に入れた状況にカンが働いていたことと思われます。

 甕(もたい) 修 | 2021.02.23 17:54

 さっそくのご返信に、感激です。ある社会学者などは浅見絅斎を「近代的」と論じていたのには違和感があります。
ところで、小生は国語教師として近く引退する身ですが、最後まで気にかかることがございます。思想と文学とを往還し両者を結び付けて論じられる稀有な存在であられる先生に、ぜひともお伺いしたいことです。
 先生が「江戸文学の詩と真実」で述べておられた宣長の「言と事と心とは其のさま相称(かな)へる」という言語観についてですが、現代の国文学も、相変わらずそのような言語観から離陸せず、テキストが「無批判」(テキストクリティークがないという意味でなく)に研究されているかに見える事態です。小林秀雄なども、宣長のそのような立場に近づいたような気がします。秋成のように「虚構の生のうちに探究される人間の行為の「詩」」として、文学が語られないことの背景には、どのような思想的問題が隠されているのでしょうか。ヨーロッパ思想の参照軸など持たない身にはさっぱりわかりません。

 ugk66960 | 2021.02.25 14:41

貴台のお人となりが分かってきたような気がします。何事でも真剣にお考えになるお人柄と拝察しますが、その反面、失礼ながら物事を必要以上に難しく考える所があるのではないか。「言と事と心」が協和するといっても、これをいっきょに一般論的に扱うのはとても無理な相談です。一つ一つ丹念に納得してゆくしかありません。英単語のアクセントは一語一語覚えて、身に付けるしかないでしょ。それと同じことです。

  | 2021.02.26 0:15

 ご指摘有難うございます。古希に近づいても幼童のごとく学べば生涯倦むことはないと存じます。せっかく再開したばかりの場を見当違いの言葉でこわしてしまったようです。先生の宣長への言及は、「真実」の何たるかは、はじめから知られていると考え古伝を信仰していた宣長の時代においての文脈でした。
 ところで、これも先生がかつて論じられた思想家の文章を読んで感涙にむせんだ、昭和の妖怪と呼ばれた政治家の霊を背にして、平成・令和の世に演じた役者がおりました。古代のロマンならぬ「美しい国」の物語を語っておりました。劇評やいかなるものとなりましょうか。

  | 2021.03.01 23:22

「今昔物語いまむかし」は、今昔人をよみがえらせる厳密な考証によって、芥川の「羅生門」を、あるいは秋成の「雨月物語」を批評し、完璧に相対化しておられ、人間と時代への洞察の深さとともに、驚嘆させられました。享受者も「物のあはれ」を解すればそれでいいんだ、さかしらは排除せよという「宣長」的な主情主義の読みとは対極的な方法は、高校の教育現場では久しく待たれていた ―大学はともかく― 導きの書と観ぜられます。
 と申しますのも、再来年度から高校では「文学国語」なる科目がスタートし、古典から近代文学までをまとめて扱うことになりました。近代小説とその素材となった古典作品とを比較して読む指導法も具体的に掲げられています。はじめて批評が求められると同時に、まともに扱えば時代考証も必須となり、語釈も時代ごとの厳密さが求められます。

 ugk66960 | 2021.03.02 21:01

「文学言語」なる科目が発足するとのニュース、初耳です。どういうのができるのでしょうね。「古典」と「近代」を」比較することも大切ですが、拙生としては昔も今も変わらぬ日本語の特質への関心がむしろ重要なように思われます。貴台がもし興味がおありでしたら、季刊「いいちこ」という雑誌が近年特集している「日本語論」にご注目下さい。

コメント





コメント

画像を添付される方はこちらで画像を選択して下さい。