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声のねうち 付 「狸のコーラス」3首

「老舌」という古語がある。「おいした」と読む万葉語彙だ。巻4の764に「百年ももとせに老舌おいした出でてよよむともわれはいとはじ恋は益すとも」 。まだ20台の若者だった大伴家持おおとものやかもちが60を過ぎた紀郎女きのいらつめに贈った愛の歌なのだそうだ。折口信夫の『口訳万葉集』は、この「老舌」を「あなたが、百歳にもなつて、ものいふ声さへも、歯を洩れ勝ちに、はっきりしない様になつて」と現代語に訳している。聴覚中心である。そのことは一般の語釈が「老いしまりのない口から舌が出てよろけようとも」(グーグル「万葉集入門)と舌の老化の視覚的印象に傾いているのと比べれば明らかであろう。

「老舌」とは,舌が思うように動かず、声も聞き取りにくくなっている状態をいう言葉であるらしい。とすれば、拙老が陥っている日々の困惑がまさにそれである。なにしろ人と話すことがあまりないので、声を使う機会がどんどん薄れてゆく。この事態への対策は自分なりに努力しなければならないが、それはそれとして、転んでもタダでは起きないという諺通り、拙老は現在の「無声状態」という苦境を逆手にとって、ここから一つの問題意識を抽き出してみたいと思うのだ。

すべての文学の根底には「声」がある。詩歌の根本にある個我の主情的詠嘆の声はもとより、三人称の客観描写を旨とする近代小説のジャンルでも客観世界の出来事を読者に話して聞かせる「語り」が基本の構造をなしている。いくら多様に複雑化したスタイルや技法が駆使されようとも、作品空間には作者が語りかけ、作中人物たちが語り交わす声々に満ちている。いろいろな仮装・変身・化現といった趣向の裏にはおどろくほど著名に作者のナマの声が響いている。どんな作品にもそれを読みほぐせば,必ずやこのような芯の部分に行き当たることになるだろう。

特別には急がないが、桃叟も自分の年齢を考え、自分の心のいちばん深い井戸の底から聞こえて来るほんとうの「声」を言葉にする仕事にいそしむとしよう。物理的に声が出しにくくなるにつれて、心の声がかえってすらすら出るようになる。今まで何となく粗末にしてきた「声」の値打ちが、だんだん分かるようになった気がする。

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「狸のコーラス」3首

〽弁天が琵琶かき鳴らしリードするあとは手拍子福の神たち

〽我妹子が祖霊隠るる吉野山忠信出でよいざ風に乗れ

〽下の句が思い出せない今朝のわれ歯の欠けるごと記憶消えゆく

 

 

 

 

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