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徳川慶喜と高浜虚子 付「桃門連社中」内議

徳川慶喜と高浜虚子の一期一会

 

明治の末年、高浜虚子は最晩年の徳川慶喜(大正2年に死)と生涯に一度だけ会い、話を交わしたことがある。まさしく一期一会(いちごいちえ)の邂逅である。筆者(わたし)は二人の対話のことを拙著“『慶喜のカリスマ』のエピローグに取り上げて書いたのを思い出す。『十五代将軍』という作品で話題にされている蕪村の一句「牡丹切つて気の衰へし夕べ哉」の解釈に托して、慶喜は自分が大政奉還を断行した時の心境を語ったのではないかと推察したのだ。だが最近この小説を読み返す機会があってもう一つ重要な事柄を見落としていたことに気がついた。

 

その俳席で、図らずも慶喜の句稿を批点する仕儀に立ち至った虚子は困惑を感じた。慶喜のものを始めとして将軍末裔一門の句作はどれも「徳川末葉の月並調」だったからである。当日の運座の題は「五月晴」だったが、それに応じて慶喜が出したのは「残念ながら月並みの句」であった。虚子は「如何に将軍様の句でも其月並調を其侭認めるわけには行かなかつた」ので、容赦なく添削を加えた。というより改作した。さすがに虚子は虚子だ。元の句案はわからないが、その時虚子が前十五代将軍に書き与えたのは、こういう句であった。

我為めの五月晴れとぞなりにける

慶喜はこれを瞑目して聞いていたが、聞き終わっても何とも言わなかった。この沈黙に一座の人々は「多少の緊張を覚えた」と、虚子は記している。

 

その日、「歴史の大きな影」が自分に差しかけたと感じながら帰途に就いた虚子は、老慶喜が自分の改作句を「容易に首肯しなかつた」ことを「面白く思」ったという。「我為めの」の一句はなぜ慶喜の気に入らなかったのだろうか。

 

読者の中には、虚子が示したこの句案からピーンと来た人もいるだろう。「我為めの」の句はわれわれに一つのレミニサンスを呼び起こさずにはいない。歴史の有名な一場面を記憶に甦らせるのである。時は天正15年(1587)5月24日、場所は京都西北郊の愛宕山。ここで催された『愛宕百韻』の連歌興行明智光秀が詠んだ「時は今天が下知る五月(さつき)哉」の発句(ほっく)である。これが主君織田信長を討つ決意を秘めているとする歴史伝説は長く世に伝わり、人々に共有されてきた。「五月(さつき)」が何かを予祝しているとする句の趣向は、両句に共通し、類似の声調を響かせている。虚子がそのニュアンスを感じなかったはずはないし、また慶喜がそこに見えなくもない天下転覆という底意 undermeaning を読み取って慎重に警戒したといえる。現在は明治の末年であり、慶喜が天下の大政を放還した時から50年近く経っている。もう歴史が反転する気遣いはないのだが、今でも自分には「天が下知る」野心があるように見えまいと振舞う慶喜の細心さを、虚子は見逃していない。

 

慶喜の句案は、もともと「五月」を題として示された運座に応じたものである。これを「我為めの」という初五で始めさせる発想には、慶喜の心事への多少の思い入れが混じり込んではいなかっただろうか。少くともこれがただ「晴れた五月の青空」に爽快感を覚えるというだけの、ありきたりの抒情歌とは思えない。虚子が慶喜に五十年前の古傷に塩を揉み込むほど意地悪だったとは思えないが、また何の歴史的連想も思い浮かばなかったとも考えにくいのである。要するにこれは、連句の世界に一歩踏み込んだ句想なのだ。

 

付1  高浜虚子と連句論

 

徳川慶喜と高浜虚子の一回きりの対座があった明治末年の頃は、活動虚点を松山から東京に移した雑誌『ホトトギス』が俳誌としてばかりでなく、文芸誌としても成功して大いに売れていた時期であった。折から日露戦争の戦後文学の季節であり、人々は活字に飢えていた。徳富蘇峰の『国民乃友』が三千部の時代に、虚子の『ホトトギス』は初版千五百、さらに五百部増刷という売れ行きだったのである(山本健吉「高浜虚子」)。この雑誌をただの俳誌と見てはならない。明治38年(1905)の『我輩は猫である』を、翌39年には『坊ちゃん』を連載して小説家夏目漱石を世に出して人気を博し、明治40年代になってからは小宮豊隆・安倍能成・阿部次郎・森田草平・鈴木三重吉といった新進気鋭の顔ぶれを筆陣を揃えて、『ホトトギス』は文芸誌どころか一種のオピニオン誌ですらあったのだ。

 

この雑誌の前身は、いうまでもなく正岡子規が松山で創刊させた俳句専門誌、平仮名の『ほとゝぎす』である。明治31年(1898)に発行場所が東京に移って虚子に継承され、明治34年(1901)に誌名をカタカナに改め、翌35年9月に子規が病没してからはいよいよ虚子の主管するところとなった。そのことを示すのは、終始虚子の意向で決定されたと思われる『ホトトギス』雑詠欄の設置である。明治42年(1909)に廃止した時期は虚子が小説執筆に意欲を燃やしていた時節と符合するし、三年後の明治45年に復活したのは、全国的な俳壇が形成され、俳句会が隆昌を迎えたことと揆を一にする。『ホトトギス』の誌面の大半は全国のアマチュア俳人からの投稿で成りたっており、

入選――もちろん虚子選だ――した句はこの雑詠欄を飾った。大変な名誉である。これら入選者を上層とする俳句愛好者のピラミッド構造が日本全国の俳句人口――総人口の一割と豪語される――のうちに出来上がっていた。河盛好蔵の『わが交遊録』によれば、虚子は桑原武夫の『第二芸術論』を読んで大喜びしたそうだ。「おかげで俳句が芸術にまで出世できました」と。

 

子規が「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」(『芭蕉雑談』明26)と書いて連句を強硬に否定したのに対して、虚子がつとに子規の生前から「さまざまの宇宙の現象」「連絡のない宇宙の現象を変化の塩梅よく横様(よこざま)に配列したもの」(『連句の趣味』明32)と連句を擁護し、子規死後の大作『連句論』(明37,)では、まず「連句」という名称「を「俳句」と区別して独立させ、子規による「俳句復興以来既に十余年、俳句の運命は浸(しん)ゝ(しん)として旭日(きょくじつ)の勢があるのに反し、連句の方は全く文学社会に忘却されてしまつて更に之を一顧するものも無い」とその復権を呼号している。その特質は、俳句が「一幅の画図」であるのに対して、連句は「画室に入って数幅の画の陳列」を見るようなものだ」という点にある。虚子が強調するのは、連句の五七定型の枠の外に望見できる新次元の言語空間なのだ(「五七五がかかえこんでいる背後のもの」大岡信)。それに確信があればこそ、虚子は大胆にも「やゝ複雑なる人事の描写は俳句では出来ぬ、和歌では出来ぬ、独り連句のみの擅(ほしい)まゝにする処である」と断言できたのであろう。

 

ところが、である。このような定見があるにも拘わらず、当の虚子はそれ以後ピタリと口を鎖したかのように連句を論じることをやめたのである。昭和15年(1940)に『連句礼賛』という一文を発表するまでの35年間、虚子は連句をあげつらうことを封殺してきたと見てよい。自分でもその期間のことを、「私も亦小説に筆を執るやうになり、続いて又俳句の方に携はつて今日まで来た為に、此連句の方は暫く筐底(きょうてい)にしまひ込んだ侭になつて来た」と要約している。明治45年、『ホトトギス』に雑詠欄を復活させ、客観写生を旨とする「平明にして余韻ある」句を旗印に俳句に復帰した虚子は、ことを主張し、みずから「守旧派」と名のって、無季・非定型の新傾向俳句を唱える河東碧梧桐と激しく対立し、昭和2年(1927)に俳句は「花鳥諷詠」「客観写生」を旨とすべしとまで言っている。こうした機略で俳壇に復帰した結果、虚子と『ホトトギス』は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即『ホトトギス』といえる景況を呈した。

 

だがこの「守旧派」俳人は、決して連句への眷想を忘れてはいなかった。上記した35年の間にも虚子は明治37年(1904)に夏目漱石らと組んで連句および俳体詩(連句形式の詩、代表作が虚子・漱石合作の『尼』)を作っている。が、小説への関心増大と反比例して立ち消え。連句そのものは見果てぬ夢のように残像だけが持ち越されるのである。いわんや、連句制作の規範を定めるにおいてをや。虚子自身は終生この課題に手を付けなかった、と言えそうである。たしかに第二次世界大戦たけなわの昭和19年(1944)の『ホトトギス』11月号には「昭和俳諧式目」なるものが掲載されてはいる。その式目第一条には「俳諧(連句)は日本伝統の文学にして、その一巻に於ける、発句はもとより、脇句以下の附句も各々一句としての独立性を有し、且つ各区間に於ては常に調和と変化に留意して、発展性あるものたるべきなり」という一文を冠し、以下②去(さり)嫌(きらい)、③即吟、④出(で)勝(がち)、⑤新しみ、⑥歌仙を標準とする、⑦春・秋は三句、夏・冬は一句、⑧二花三月および恋の座の定め、⑨表六句、⑩脇句の留(とめ)字(じ)、⑪第三の留字、と全11箇条にわたって、俳諧初心者の心得を羅列している。が、これは実質的に連句入門の手引き書にひとしい。

 

この「昭和俳諧式目」は、戦時下に高濱虚子や柳田国男が「日本文学報国会」が定めた大綱に従って作られたものである。内容はなるほど伝統を継承しているが、国策による戦時協力体制の中で世に出たという事実は否定しがたい。なおその制定を報じた『ホトトギス』の記事も虚子でなく高浜年(とし)尾(お)(虚子の長男)名義で発表されたことも微妙なところだ。年尾が昭和21年(1946)に刊行した『俳句手引』は、この「式目」と同文である。高浜年尾のみならず、それ以後現在までの連句式目類はすべて基本的に「昭和俳諧式目」11箇条の内容を何らかのかたちで継承ないしは踏襲している。

たとえば昭和57年(1982)に創設された猫(ねこ)蓑会(みのかい)は、その式目を「1心得、2句数、3去嫌、4一巻の構成、5韻律、6仮名遣」の六箇条にまとめているが、これは明らかに「」を整理統合したものにほかならない。この結社を創設者した猫蓑庵東明(あずまあき)雅(まさ)でさえ「昭和俳諧式目」の成立に関しては、「私はこの式目を誰が作ったのか知らない」(「昭和枯尾花」)「と韜晦していることからも問題の隠微さがわかろう。

 

2  「俳友グループ」を「桃門連社中」と模様替えします。

 

先月15日に開いた「逝妻芳子を偲ぶ会」を生涯の一区切りとして、これから桃叟の最終計画の実行に取りかかりたいのですが、その計画の中には、桃叟がここ数年ずっと手がけてきて生活の一部分になっている連句の会のことがあります。

 

自然に「俳友グループ」が形成され、連衆6人――この数は歌仙36句の句順表を作りやすいのです――がほぼ固定していますが、つい最近、いつまでもこの自然発生的・成行き的な行き方には安住していられない事態が出来しました。内因と外因があります。まず内因としては、メンバーのうちからさまざまな理由――健康問題とか生計多忙とか――から、常設メンバーとして「出ずっぱり」でいるのはしんどいという声が聞かれたことです。外因としては、このたびわがグループを「日本連句協会」に加入し、「桃門連社中」の名前で登録したことです。他のグループとの交流・他流試合・切磋琢磨が始まるわけですから、皆さんににも《連句のグローバルスタンダード》を尊重してもらわなければなりません。いつまでも自己流・手前勝手主義とは行きません。

 

そこで次のような解決策を考えました:社中のメンバーをもっとふやす――10人前後を予定――。その全員が同時に連衆にはなれないから、運座のシステムを「出勝ち」方式に改める。「出勝ち」とは一座の者が順によらず付句のできた者から付けていくことをいいます。今までは六吟膝送りを基本とし、連衆全員の輪番制でしたが、一段階ギアを上げ、本来あるべき「出勝ち」――わがグループでも初めこころみたのだが、みんな譲り合ってうまくゆかなかった――に復帰することにします。箱根駅伝のシード校システムみたいなものです。

 

うまく行くかどうか分かりませんが、ダメだったら又やり直せばいいだけの話です。皆さん、どうお思いでしょうか?

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