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桃叟だより

[皆さんの声をお聞かせ下さい――コメント欄の見つけ方]

今度から『野口武彦公式サイト』は、皆さんの御意見が直接読めるようになりました。ブログごとに付いている「コメント欄」に書き込んでいただくわけですが、
同欄は次のような手順で出します。

トップページの「野口武彦公式サイト」という題字の下に並ぶ「ホーム、お知らせ、著作一覧、桃叟だより」の4カテゴリーのうち、「桃叟だより」を開き、右側サイドメニューの「最新記事」にある記事タイトルをどれでもダブルクリックすれば、その末尾に「コメント欄」が現れます。

そこへ御自由に書き込んでいただければ、読者が皆でシェアできることになっています。ただし、記入者のメールアドレス書き込みは必須ではありません。内容はその時々のブログ内容に関するものでなくても結構です。

ぼくとしては、どういう人々がわがブログを読んで下さっているのか、できるだけ知っておきたいので、よろしくお願いする次第です。以上

2022-11-20 | 日暦, 桃叟だより

宗祇水奉納連句歌仙の紹介 付:トンボ連作3首

11月19日更新。

その後、日本連句協会の事務局と連絡して、同会会報の最新号(#248、令4ー10ー1)に掲載されている宗祇水奉納連句歌仙「白雲」を参考資料としてわがブログに転載することを承認されたので、さっそくご紹介させていただきます(添付ファイル参照)。

なおその際、以下の3点を拝慮するように釘を刺されているので、桃門連社中の皆さんも、どうかご留意下さい:「1.歌仙「白雲」は宗祇水実行委員会による宗祇水神への奉納俳諧であり、2.文芸作品としての評価、批評を想定しているものではない為、これにはなじまない事、3.貴誌以外へのほかの媒体への再転載はご遠慮願いたい事」です。

宗祇水といえば、連歌の大先達飯尾宗祇ゆかりの名所・歌枕として名高く、その名を冠した奉納連句歌仙ですから、斯道の年次モニュメントというべき催事ですから、いわば連句会でも「全国区的」水準をわれらに挙示しているものと言えましょう。さて、桃門連御社中はいかなる感銘を受けられたことでしょうか。桃叟自身は釘を刺されていますから論評は差し控えますが、各位には「さすがに全国区、われらの遠く及ぶところではない」とか、「このくらいなら自分にもいける」とかさまざまな反応があってよいでしょう。ともかく、これが現在の連句第一線です。

皆さんのさらなる御発憤を期待します。

*          *          *

トンボ連作3首

〽ひそやかに秋のアカネは憩ひをりふとありし日を思ふたまゆら

〽谷川に群れるオハグロ口々にムカシトンボをこのところ見ず

〽天翔るナニハトンボの大目玉映りて青し茅渟の入り海

 

 

 

徳川慶喜と高浜虚子 付「桃門連社中」内議

徳川慶喜と高浜虚子の一期一会

 

明治の末年、高浜虚子は最晩年の徳川慶喜(大正2年に死)と生涯に一度だけ会い、話を交わしたことがある。まさしく一期一会(いちごいちえ)の邂逅である。筆者(わたし)は二人の対話のことを拙著“『慶喜のカリスマ』のエピローグに取り上げて書いたのを思い出す。『十五代将軍』という作品で話題にされている蕪村の一句「牡丹切つて気の衰へし夕べ哉」の解釈に托して、慶喜は自分が大政奉還を断行した時の心境を語ったのではないかと推察したのだ。だが最近この小説を読み返す機会があってもう一つ重要な事柄を見落としていたことに気がついた。

 

その俳席で、図らずも慶喜の句稿を批点する仕儀に立ち至った虚子は困惑を感じた。慶喜のものを始めとして将軍末裔一門の句作はどれも「徳川末葉の月並調」だったからである。当日の運座の題は「五月晴」だったが、それに応じて慶喜が出したのは「残念ながら月並みの句」であった。虚子は「如何に将軍様の句でも其月並調を其侭認めるわけには行かなかつた」ので、容赦なく添削を加えた。というより改作した。さすがに虚子は虚子だ。元の句案はわからないが、その時虚子が前十五代将軍に書き与えたのは、こういう句であった。

我為めの五月晴れとぞなりにける

慶喜はこれを瞑目して聞いていたが、聞き終わっても何とも言わなかった。この沈黙に一座の人々は「多少の緊張を覚えた」と、虚子は記している。

 

その日、「歴史の大きな影」が自分に差しかけたと感じながら帰途に就いた虚子は、老慶喜が自分の改作句を「容易に首肯しなかつた」ことを「面白く思」ったという。「我為めの」の一句はなぜ慶喜の気に入らなかったのだろうか。

 

読者の中には、虚子が示したこの句案からピーンと来た人もいるだろう。「我為めの」の句はわれわれに一つのレミニサンスを呼び起こさずにはいない。歴史の有名な一場面を記憶に甦らせるのである。時は天正15年(1587)5月24日、場所は京都西北郊の愛宕山。ここで催された『愛宕百韻』の連歌興行明智光秀が詠んだ「時は今天が下知る五月(さつき)哉」の発句(ほっく)である。これが主君織田信長を討つ決意を秘めているとする歴史伝説は長く世に伝わり、人々に共有されてきた。「五月(さつき)」が何かを予祝しているとする句の趣向は、両句に共通し、類似の声調を響かせている。虚子がそのニュアンスを感じなかったはずはないし、また慶喜がそこに見えなくもない天下転覆という底意 undermeaning を読み取って慎重に警戒したといえる。現在は明治の末年であり、慶喜が天下の大政を放還した時から50年近く経っている。もう歴史が反転する気遣いはないのだが、今でも自分には「天が下知る」野心があるように見えまいと振舞う慶喜の細心さを、虚子は見逃していない。

 

慶喜の句案は、もともと「五月」を題として示された運座に応じたものである。これを「我為めの」という初五で始めさせる発想には、慶喜の心事への多少の思い入れが混じり込んではいなかっただろうか。少くともこれがただ「晴れた五月の青空」に爽快感を覚えるというだけの、ありきたりの抒情歌とは思えない。虚子が慶喜に五十年前の古傷に塩を揉み込むほど意地悪だったとは思えないが、また何の歴史的連想も思い浮かばなかったとも考えにくいのである。要するにこれは、連句の世界に一歩踏み込んだ句想なのだ。

 

付1  高浜虚子と連句論

 

徳川慶喜と高浜虚子の一回きりの対座があった明治末年の頃は、活動虚点を松山から東京に移した雑誌『ホトトギス』が俳誌としてばかりでなく、文芸誌としても成功して大いに売れていた時期であった。折から日露戦争の戦後文学の季節であり、人々は活字に飢えていた。徳富蘇峰の『国民乃友』が三千部の時代に、虚子の『ホトトギス』は初版千五百、さらに五百部増刷という売れ行きだったのである(山本健吉「高浜虚子」)。この雑誌をただの俳誌と見てはならない。明治38年(1905)の『我輩は猫である』を、翌39年には『坊ちゃん』を連載して小説家夏目漱石を世に出して人気を博し、明治40年代になってからは小宮豊隆・安倍能成・阿部次郎・森田草平・鈴木三重吉といった新進気鋭の顔ぶれを筆陣を揃えて、『ホトトギス』は文芸誌どころか一種のオピニオン誌ですらあったのだ。

 

この雑誌の前身は、いうまでもなく正岡子規が松山で創刊させた俳句専門誌、平仮名の『ほとゝぎす』である。明治31年(1898)に発行場所が東京に移って虚子に継承され、明治34年(1901)に誌名をカタカナに改め、翌35年9月に子規が病没してからはいよいよ虚子の主管するところとなった。そのことを示すのは、終始虚子の意向で決定されたと思われる『ホトトギス』雑詠欄の設置である。明治42年(1909)に廃止した時期は虚子が小説執筆に意欲を燃やしていた時節と符合するし、三年後の明治45年に復活したのは、全国的な俳壇が形成され、俳句会が隆昌を迎えたことと揆を一にする。『ホトトギス』の誌面の大半は全国のアマチュア俳人からの投稿で成りたっており、

入選――もちろん虚子選だ――した句はこの雑詠欄を飾った。大変な名誉である。これら入選者を上層とする俳句愛好者のピラミッド構造が日本全国の俳句人口――総人口の一割と豪語される――のうちに出来上がっていた。河盛好蔵の『わが交遊録』によれば、虚子は桑原武夫の『第二芸術論』を読んで大喜びしたそうだ。「おかげで俳句が芸術にまで出世できました」と。

 

子規が「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」(『芭蕉雑談』明26)と書いて連句を強硬に否定したのに対して、虚子がつとに子規の生前から「さまざまの宇宙の現象」「連絡のない宇宙の現象を変化の塩梅よく横様(よこざま)に配列したもの」(『連句の趣味』明32)と連句を擁護し、子規死後の大作『連句論』(明37,)では、まず「連句」という名称「を「俳句」と区別して独立させ、子規による「俳句復興以来既に十余年、俳句の運命は浸(しん)ゝ(しん)として旭日(きょくじつ)の勢があるのに反し、連句の方は全く文学社会に忘却されてしまつて更に之を一顧するものも無い」とその復権を呼号している。その特質は、俳句が「一幅の画図」であるのに対して、連句は「画室に入って数幅の画の陳列」を見るようなものだ」という点にある。虚子が強調するのは、連句の五七定型の枠の外に望見できる新次元の言語空間なのだ(「五七五がかかえこんでいる背後のもの」大岡信)。それに確信があればこそ、虚子は大胆にも「やゝ複雑なる人事の描写は俳句では出来ぬ、和歌では出来ぬ、独り連句のみの擅(ほしい)まゝにする処である」と断言できたのであろう。

 

ところが、である。このような定見があるにも拘わらず、当の虚子はそれ以後ピタリと口を鎖したかのように連句を論じることをやめたのである。昭和15年(1940)に『連句礼賛』という一文を発表するまでの35年間、虚子は連句をあげつらうことを封殺してきたと見てよい。自分でもその期間のことを、「私も亦小説に筆を執るやうになり、続いて又俳句の方に携はつて今日まで来た為に、此連句の方は暫く筐底(きょうてい)にしまひ込んだ侭になつて来た」と要約している。明治45年、『ホトトギス』に雑詠欄を復活させ、客観写生を旨とする「平明にして余韻ある」句を旗印に俳句に復帰した虚子は、ことを主張し、みずから「守旧派」と名のって、無季・非定型の新傾向俳句を唱える河東碧梧桐と激しく対立し、昭和2年(1927)に俳句は「花鳥諷詠」「客観写生」を旨とすべしとまで言っている。こうした機略で俳壇に復帰した結果、虚子と『ホトトギス』は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即『ホトトギス』といえる景況を呈した。

 

だがこの「守旧派」俳人は、決して連句への眷想を忘れてはいなかった。上記した35年の間にも虚子は明治37年(1904)に夏目漱石らと組んで連句および俳体詩(連句形式の詩、代表作が虚子・漱石合作の『尼』)を作っている。が、小説への関心増大と反比例して立ち消え。連句そのものは見果てぬ夢のように残像だけが持ち越されるのである。いわんや、連句制作の規範を定めるにおいてをや。虚子自身は終生この課題に手を付けなかった、と言えそうである。たしかに第二次世界大戦たけなわの昭和19年(1944)の『ホトトギス』11月号には「昭和俳諧式目」なるものが掲載されてはいる。その式目第一条には「俳諧(連句)は日本伝統の文学にして、その一巻に於ける、発句はもとより、脇句以下の附句も各々一句としての独立性を有し、且つ各区間に於ては常に調和と変化に留意して、発展性あるものたるべきなり」という一文を冠し、以下②去(さり)嫌(きらい)、③即吟、④出(で)勝(がち)、⑤新しみ、⑥歌仙を標準とする、⑦春・秋は三句、夏・冬は一句、⑧二花三月および恋の座の定め、⑨表六句、⑩脇句の留(とめ)字(じ)、⑪第三の留字、と全11箇条にわたって、俳諧初心者の心得を羅列している。が、これは実質的に連句入門の手引き書にひとしい。

 

この「昭和俳諧式目」は、戦時下に高濱虚子や柳田国男が「日本文学報国会」が定めた大綱に従って作られたものである。内容はなるほど伝統を継承しているが、国策による戦時協力体制の中で世に出たという事実は否定しがたい。なおその制定を報じた『ホトトギス』の記事も虚子でなく高浜年(とし)尾(お)(虚子の長男)名義で発表されたことも微妙なところだ。年尾が昭和21年(1946)に刊行した『俳句手引』は、この「式目」と同文である。高浜年尾のみならず、それ以後現在までの連句式目類はすべて基本的に「昭和俳諧式目」11箇条の内容を何らかのかたちで継承ないしは踏襲している。

たとえば昭和57年(1982)に創設された猫(ねこ)蓑会(みのかい)は、その式目を「1心得、2句数、3去嫌、4一巻の構成、5韻律、6仮名遣」の六箇条にまとめているが、これは明らかに「」を整理統合したものにほかならない。この結社を創設者した猫蓑庵東明(あずまあき)雅(まさ)でさえ「昭和俳諧式目」の成立に関しては、「私はこの式目を誰が作ったのか知らない」(「昭和枯尾花」)「と韜晦していることからも問題の隠微さがわかろう。

 

2  「俳友グループ」を「桃門連社中」と模様替えします。

 

先月15日に開いた「逝妻芳子を偲ぶ会」を生涯の一区切りとして、これから桃叟の最終計画の実行に取りかかりたいのですが、その計画の中には、桃叟がここ数年ずっと手がけてきて生活の一部分になっている連句の会のことがあります。

 

自然に「俳友グループ」が形成され、連衆6人――この数は歌仙36句の句順表を作りやすいのです――がほぼ固定していますが、つい最近、いつまでもこの自然発生的・成行き的な行き方には安住していられない事態が出来しました。内因と外因があります。まず内因としては、メンバーのうちからさまざまな理由――健康問題とか生計多忙とか――から、常設メンバーとして「出ずっぱり」でいるのはしんどいという声が聞かれたことです。外因としては、このたびわがグループを「日本連句協会」に加入し、「桃門連社中」の名前で登録したことです。他のグループとの交流・他流試合・切磋琢磨が始まるわけですから、皆さんににも《連句のグローバルスタンダード》を尊重してもらわなければなりません。いつまでも自己流・手前勝手主義とは行きません。

 

そこで次のような解決策を考えました:社中のメンバーをもっとふやす――10人前後を予定――。その全員が同時に連衆にはなれないから、運座のシステムを「出勝ち」方式に改める。「出勝ち」とは一座の者が順によらず付句のできた者から付けていくことをいいます。今までは六吟膝送りを基本とし、連衆全員の輪番制でしたが、一段階ギアを上げ、本来あるべき「出勝ち」――わがグループでも初めこころみたのだが、みんな譲り合ってうまくゆかなかった――に復帰することにします。箱根駅伝のシード校システムみたいなものです。

 

うまく行くかどうか分かりませんが、ダメだったら又やり直せばいいだけの話です。皆さん、どうお思いでしょうか?

「芳子を偲ぶ会」ご報告 付 「津の国歌枕」3首

2022/10/18に、時疫のため3年も延び延びになっていた「芳子を偲ぶ会」兼「追悼歌集『うつつの津の国』出版記念会」を開催しました。30人を越える参会者があり、盛況に終わりました。どうも有難うございました。

まず芳子の遺影に好きだった黄バラが献花され、兵庫県知事・芦屋市長・砂子屋書房社長からのメッセージが披露され、ハーヴァード・プリンストンでの友人コルカット暁子さんの手紙が紹介され、挨拶に立った人々は口々に故人生前の思い出を語り、泣き、なつかしんで頂きました。マリンバの演奏もあり、芳子の弟も加わって生前に好きだった曲を連弾(?)しました。

これでわが人生に一区切り付いた感じで、これからは、実際には何年か知らないが、与えられたアディショナルタイムとして無駄なく使ってゆこうと思います。勝ち試合になるとは限らないが、せめてワンゴールぐらいは挙げたいものです。何をするかは目下整理中ですが、追って目標を設定して掲げるつもりです。

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【津の国歌枕】3首――

〽老いぬれば人に淡路の鳴門潟渦巻く潮の底ひ知らずや

〽亡き人を松帆の浦の夕まぐれ面影探す渦潮の涯

〽津の国はトーテムの里来てみれば人待ちわぶるひとり子狐

 

 

 

声のねうち 付 「狸のコーラス」3首

「老舌」という古語がある。「おいした」と読む万葉語彙だ。巻4の764に「百年ももとせに老舌おいした出でてよよむともわれはいとはじ恋は益すとも」 。まだ20台の若者だった大伴家持おおとものやかもちが60を過ぎた紀郎女きのいらつめに贈った愛の歌なのだそうだ。折口信夫の『口訳万葉集』は、この「老舌」を「あなたが、百歳にもなつて、ものいふ声さへも、歯を洩れ勝ちに、はっきりしない様になつて」と現代語に訳している。聴覚中心である。そのことは一般の語釈が「老いしまりのない口から舌が出てよろけようとも」(グーグル「万葉集入門)と舌の老化の視覚的印象に傾いているのと比べれば明らかであろう。

「老舌」とは,舌が思うように動かず、声も聞き取りにくくなっている状態をいう言葉であるらしい。とすれば、拙老が陥っている日々の困惑がまさにそれである。なにしろ人と話すことがあまりないので、声を使う機会がどんどん薄れてゆく。この事態への対策は自分なりに努力しなければならないが、それはそれとして、転んでもタダでは起きないという諺通り、拙老は現在の「無声状態」という苦境を逆手にとって、ここから一つの問題意識を抽き出してみたいと思うのだ。

すべての文学の根底には「声」がある。詩歌の根本にある個我の主情的詠嘆の声はもとより、三人称の客観描写を旨とする近代小説のジャンルでも客観世界の出来事を読者に話して聞かせる「語り」が基本の構造をなしている。いくら多様に複雑化したスタイルや技法が駆使されようとも、作品空間には作者が語りかけ、作中人物たちが語り交わす声々に満ちている。いろいろな仮装・変身・化現といった趣向の裏にはおどろくほど著名に作者のナマの声が響いている。どんな作品にもそれを読みほぐせば,必ずやこのような芯の部分に行き当たることになるだろう。

特別には急がないが、桃叟も自分の年齢を考え、自分の心のいちばん深い井戸の底から聞こえて来るほんとうの「声」を言葉にする仕事にいそしむとしよう。物理的に声が出しにくくなるにつれて、心の声がかえってすらすら出るようになる。今まで何となく粗末にしてきた「声」の値打ちが、だんだん分かるようになった気がする。

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「狸のコーラス」3首

〽弁天が琵琶かき鳴らしリードするあとは手拍子福の神たち

〽我妹子が祖霊隠るる吉野山忠信出でよいざ風に乗れ

〽下の句が思い出せない今朝のわれ歯の欠けるごと記憶消えゆく

 

 

 

 

連句協会へ加入しました 付 狐の嫁入り一首

わが桃門では2019年に5人の仲間で「俳友グループ」を発足させて連句の世界に踏み込み、全部で10回弱の半歌仙・歌仙の巻々を興行して来ました。現在は連衆6人にほぼ定着しました。めざすのは世の常の和歌とも俳句とも違う連句、「つくばねの道」の踏破です。なぜ今連句なのか。いつも念頭にある柳田国男の言葉をまた引用しよう:

「連歌は始めから、仲間以外の者には退屈なものと相場が決まって居りました。それがどうして又当事者ばかりには、あの様に身を忘れるほど楽しかったということが、寧むしろこの芸術の一つの深秘であります。(……)中途に誰かが才能を閃めかせて、更に一段とおかしいことを言い出して、笑わせてくれるだろうという予期のもとに、一同が句を続けて行こうとする所に、其楽しみがあったのであります。」

われら一同もまたこの「楽しみ」を分かち合えればこそ、時にはしんどいとボヤキながらも、こうして何年間も続けて来られたのだと思います。

この「俳友グループ」では、拙老桃叟がずっと捌を執り行ってきた訳ですが、当の桃叟は俳諧の道にはスブの素人であり、何やら偉そうに添削などしてもすべて独学で自己流でしたので、ずいぶん独りよがりな所があったろうと忸怩たる思いを抱えておりました。

そこでこのたびふと思い立って「日本連句協会」という全国組織と連絡を取り、わが桃門一統を「全国区」化する機会を打診してみようと発意しました。そのやりとりの経過は前回のブログに掲載した通りですが、その後、連句協会事務局から正規の連絡があり、入会手続きを通知して来ました。要項をそのまま引用します:「日本連句協会は個人加入が原則です。このため、まず一名の方に入会登録していただき、グループ登録していただければグループの存在を一般に知らせることが出来ると考えます。協会発行の会員名簿にのその方の氏名・俳号・住所・電話番号・メールアドレスと所属の連句グループを記載しております。記載についてはその方のご意向により不記載とすることも可能です」。

この要項に従って手続きをしました。次の年報に登録が告知されるでしょう。さしあたり、拙老個人の氏名・俳号・住所・電話番号・メールアドレスと所属の連句グループ名だけが公表されます。このグループを会員名簿に登録すれば「会名・代表者・師系・連絡担当の方の氏名・連絡先住所・電話番号・会員数」が記載されることになります(「ご意向により不記載とすることも可能」とのことです)が、まだグループ面々のご承諾を得ておりませんので、登録するのは保留中です。いずれ皆様とご相談したいと思います。

しかし「俳友グループ」一同の関心事は――少くとも桃叟個人に関する限りは――そういう形式的手続きよりも、自分たちの連句作品が「日本連句協会」のように全国的な基準に照らしてどのくらいの所に位置しているのか知りたいということにありました。(と、推測します。)連衆諸兄姉にしても捌がすべて桃叟の独断にもとづいてなされていることに不安を感じておられたかも知れません。そこで思い切って、勝手に決めて申し訳ありませんが、わがグループの歌仙実作がどのように判断されるかを見ようと実物(直近の「紫陽花に」六吟)を実験台に提出してみました。すぐに丁寧な講評を頂きました。下さったのは連句協会会長の高尾秀四郎氏です。不遜な言い方ですが、又とない人選です。これも氏の御認許を得て、「講評」とそれを反映して桃叟がナオシを入れた「治定版」を以下に転写します。

①高尾氏講評高尾講評

②「紫陽花や」六吟歌仙治定版令四「紫陽花や」歌仙六吟句順表(高尾加筆) 治定案

なるほど、と敬服します。連句の式目や約束事・仕来りなどは教わらなくては身に付かないものです。やはり師事することは大切だとしみじみ知りました。勉強しまーす。

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趣きのある人形を手に入れました。「狐の嫁入り」1首。

〽雨白く空明るきに袖濡れぬけふは狐の嫁ぐハレの日

日本連句協会とのコンタクト 付「生くるいのち」3首

『うつつの津の国』を刊行したのを機会にそろそろ現実社会での居場所を測ってみようと、このたび「日本連句協会」という全国組織にコンタクトを取ってみましたところ、すぐに有難いご返事を頂きました。先方からご了解を得てありますので、当方の問合せと頂いたご回答を全文転載致します。

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[野口より] 当方、世俗的な肩書は神戸大学文学部名誉教授ですが、アカデミックな分野にはまるで関心がなく、業績もほとんどありません。読売文化賞、兵庫県文化賞などを頂いたことがあるくらいです。直近には歌集『うつつの津の国』を刊行しました。
連句はおろか、俳句にもまったく風馬牛で、どなたかに師事したことも結社に加入したこともありません。そんなズブの素人が、怖い物知らずで、連句に鼻を突っ込みました。現在、個人ブログ『野口武彦公式サイト――桃叟だより』を定期的に公開し、その一環として歌仙興行を12回ほど開催してきました。
よく「連句は乱世の文芸」と申します。われら「桃叟歌仙」のメンバーは、俳句俳言の技巧技法は甚だ未熟ですが、連句をそんな時代にふさわしいジャンルと察知する感受性を磨いていると自負します。これをやがて周囲から認められるグループとして名乗りを挙げたく、まず貴協会にお引き立てをお願いする次第でございます。

[返信]野口様:日本連句協会にお問い合わせいただき有難うございます。
私は日本連句協会の高尾と申します。
野口様には連句を@乱世の文芸」とお受け止めいただいて、すでに活動を開始しておられるようです。
まずは連句にご興味を持っていただいたことに感謝申し上げます。
日本連句協会では、この文芸が乱世のみならず、世代を超えたコミュニケーションが希薄になったこの国において、その解の一つを提供できる文芸と考えており、その普及に腐心しております。
お住まいが神戸とのことですので、関西圏をベースに活動をしております弊協会のメンバーを紹介させていただき、まずは自己紹介から始めていただき、近況や今後の活動の方向等をお話いただければ、何らかのご協力ができるかと思います。

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話の進み具合は追って次回にご報告することとして今回はまず身辺些事を短歌3首に:

〽わが庵で寄合をするいのちたちおのおのいとし生くるいとなみ

〽つどひ来よみんな集まれいのちたち遅れ先立つ時のたまゆら

〽わが庵は小生命のコンテストこぞつて競ふ蟲のあれこれ

 

『うつつの津の国』海外評判 付2022秋彼岸5首

歌集『うつつの津の国』の反響がいろいろ寄せられています。それらの中からまず、海外の友人スミエ・ジョーンズ氏のメールをお披露目させていただきます。同氏はUSA、インディアナ大学名誉教授・高等研究所常任研究員(NIMOU日本研究情報網データベース)で、比較文学の分野で多くの業績のある方です。桃叟も昔、国際『源氏物語』学会でお世話になりました。

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上梓ほやほやのご高著『うつつの津の国』を賜りました。漢詩よりも恋情に適した和歌の形式を選択なさり、歌に随想、スケッチ、メール、メモなどの入り混じった、不思議なジャンルを発明なさいましたね。狐がらみの民話風のお話に「義経千本桜」の浄瑠璃が重なり、歌は、万葉風、伊勢物語風、古今風などから蕪村の俳句風まで、ただの本歌取りの集まりではなく、インターテクスチャリティーの花園という感じのご本です。芳子さんがお喜びになること請け合いです。

早速インディアナ大学とカリフォルニア大学の図書館司書に購入を勧めました。インディアナ大学のウエルズ記念図書館は、始めから御著は自動的に買い揃えることになっていますから、全部揃っており、同大学の他のキャンパスにも大分入っています。カリフォルニア大学には、CV スター図書館という4階建ての東アジアだけの独立した図書館が出来ています。場所の節約のために貴重書を大分寄贈していますから、資料収集について意見を求められるようになりました。司書が調べた所、御著のうち所蔵していないものがあると判明し、早速注文を入れるそうです。他にも友人などに宣伝しました。ことに短歌のグループで作歌している友人と日本の従妹に勧めました。子規の写生風が現在のジャーナリズムの悪影響で時事報道みたいになり、こんなものは歌ではないと文句を付けていた所ですから。

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2022秋彼岸5首。

〽時満てば地に炎吹く彼岸花来る秋ごとにいのちいとなみ

〽この年も部屋に出て来たなつかしやハエトリグモは古い友だち

〽夢の逢ひはあわただしかりあらけなく別れを急かすベル鳴りやまず

〽夢に詠む三十一文字はあやなくて言葉足らずに芽ぐむひこばえ

〽わが夜の夢のあはひに水罔女みづはのめ露とこぼれて泡と消えゆく

 

 

(さらに…)

芳子追悼歌集『うつつの津の国』が刊行されました

このたび砂子屋書房から逝妻芳子追悼歌集『うつつの津の国』が刊行されます。砂子屋書房は歌集・詩集中心の、かねて世評の高い出版社です。だいじな芳子の名に恥じない版元と見て選びました。

生前から芳子とぼく桃叟に御友誼を御持ちだった皆さんのもとに、来週(8月29日から)贈呈本が届けられるはずです。また、10月15日に「芳子を偲ぶ会兼歌集出版記念会」を開催します。……今日のブログはこのお知らせのみ。

芳子三回目のお盆に

桃叟は仏教の信徒ではないので、故人の霊がこの世に戻って来るという俗説を信じるわけではないが、盂蘭盆の習俗には従おう。というのは、わが猫の額に突然シロユリが咲いたのである。球根(ユリネ)を植えたおぼえはない。不思議なことがあるものだ。どこかから種子が実生みしょうで飛んで来たのが、成育したとしか思えない。ことによったら芳子がシロユリの姿で来てくれたのだろうか。

             

〽わくらばに風の持ち来し百合の種花と咲きけり訪れのごと

〽吹く風が庭に落とした花の種百合と咲きけり妻の気配す

〽三年待ち百合咲き出でぬ生まれ変わりは夢かうつつか

〽何にても形もとめん種子薫習しゅじくんじゅありし昔の香りゆかしき

 

亀齢・馬齢・椿齢――桃叟生誕八十五歳

〔1〕今日は桃叟85歳の誕生日です。いやはや年を取ったものです。何とご挨拶したらよいものか。鶴や亀は月並みだし、今更「便々と馬齢を重ね」なんていうのもわざとらしいし、「桃寿」とか「桃齢」とかの熟語があればいいのですがありませんので、やむなく『荘子』から「椿齢」という語を借りました。「椿」は「珍」に通ずるそうです。そのせいか周囲の人々から、何か珍奇なものを見るような目を向けられていると感じます。毎日、寄ってたかって水を飲まされるので閉口です。年寄りは脱水状態とかになりやすいのだそうです。

〔2〕歌集出版の準備は着々と進行しています。やがて発行日が決まったらまたお披露目します。

〔3〕以下は久しぶりに「精神科医の友への手紙③」です:

最近、ファニーハーフという心理学者の『おしゃべりな脳の研究』という本を読みました。邦題は少しくだけすぎていますが、副題の「内言・聴声・対話的思考」とあるように、われわれの頭の中で聞こえる言葉のさまざまを対象にした至極まっとうな研究書です。多くの調査実験が精神分析から脳解剖学まで行き届いており、目のお早い学兄のことですから、もうお読みになっていると思いますが、ぜひご意見をお聞きしたいと存じます。

というのは今から七十年も前のことですが、拙老が高校生の頃同じクラスに、自分に命令する声を聴く少女がいて、時々電気ショックを受けるのがつらいという話をしていたのを思い出したからです。あの女子高校生はその後どうしたのだろう?  今でも治療法は同じなのでしょうかね。

頭の中で聞こえるものにはずいぶん色々な種類があるようです。本当に耳で聴く声――いちばん有名なのは、神がジャンヌ・ダルクに「オルレアンの囲みを解け」と命じた声でしょう――が至上命令のように響く場合もあるし、ブツブツ呟くようなのもあるし、耳で聴いたかどうか定かではない、いわゆる「内言語」のこともある。頭で考えたことを何でも口で言ってしまうオバサンもいます。聞こえるのが言葉じゃなくて音楽だけという幻聴もあります。そうしてみると多くの人が悩まされる耳鳴りも、同じ一つの症候が、言葉にも音楽にもならないただの音響だけにしか聞こえない状態をいうのかもしれません。

拙老は天寵に薄く、いまだ天から呼びかける声を聴いていません。残念なことです。待っていればいつか聞こえるんじゃないかと藁にもすがる気持ですが、一つ気がかりなことがあります。いったい心の耳に聞こえる「内言語」はロレツ正しく響くものなのでしょうか。 畢

 

 

 

 

 

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