toggle
桃叟だより

[皆さんの声をお聞かせ下さい――コメント欄の見つけ方]

今度から『野口武彦公式サイト』は、皆さんの御意見が直接読めるようになりました。ブログごとに付いている「コメント欄」に書き込んでいただくわけですが、
同欄は次のような手順で出します。

トップページの「野口武彦公式サイト」という題字の下に並ぶ「ホーム、お知らせ、著作一覧、桃叟だより」の4カテゴリーのうち、「桃叟だより」を開き、右側サイドメニューの「最新記事」にある記事タイトルをどれでもダブルクリックすれば、その末尾に「コメント欄」が現れます。

そこへ御自由に書き込んでいただければ、読者が皆でシェアできることになっています。ただし、記入者のメールアドレス書き込みは必須ではありません。内容はその時々のブログ内容に関するものでなくても結構です。

ぼくとしては、どういう人々がわがブログを読んで下さっているのか、できるだけ知っておきたいので、よろしくお願いする次第です。以上

2020-05-23 | 日暦, 桃叟だより

とりあえず桃叟近影

この格好にはコロナも寄りつけますまい。毎日リハビリをやって奮闘しております。

〽老い武者に強い味方が付きにけり時のえやみよ諦めて去れ

歌仙もこのところ停滞ぎみですが、近日中に立て直しましょう。次回のブログで物事をきちんと整理するつもりです。

えやみ ときのけ 老いの春

時疫はいよいよ旺盛です。人生の現役の皆さんは、めいめいの持場々々で種々ご多忙のことと存じます。拙老は、介護のヘルパーさんの他にはまず人と会うこともないので、まあ達者で日を送っています。世間に悪いみたいです。すみません。

ある人がこの機会にトーマス・マンの『魔の山』を読破すると言ってきたのに触発されて、拙老も同書を再読しました。おかげで初読時にはうっかり読み落としていた内容に気付くことができました。何歳になっても勉強することはあるものです。

この小説の舞台は、アルプスの中腹、スイスの避暑地ダヴォス――現代ではG7の会場として有名――にある富豪たちの結核療養所です。一篇は、ここに入所した主人公ハンス・カストルプが多くの人々と出会い、論争し、体験を深め、内面を豊かにしてゆく物語なのですが、拙老が今回の読み直しで改めて発見したのは、ハンスが病い癒えて下界に復帰する決心をしてから起きるいくつかの事件でした。

若い人々には分からないかも知れませんが、つい最近まで結核は死病でした。罹ったら死ぬまで治らない病気だったのです。日本の近代文学に「結核文学」「療養文学」「軽井沢文学」のジャンルが生まれたゆえんです。「魔の山」とは半死者の棲息地であり、生者ハンスが人々と交わす対話もいきおい「死と病気に寄せる一切の関心は、生に寄せる関心の一種の表現にほかならない」(第6章「雪」)という風に、いつも「死」と背中合わせでしか物事を考えられないものでした。常に死を意識して生きなければならない。ここはいつも空にmemento mori(「死を忘るなかれ」)の文字が映画のスーパーインポーズのように浮かんでいる、凡俗な生者たちが住む下界とは違う世界だったのです。

ところが、最終章(第7章)で下界に降りる時期が近付いてくると、ハンスはにわかに市民社会・実世間・生活力といった世俗的な事柄に関心を抱くようになると見受けられます。ハンスは人生に不可避的につきまとう日常性・通俗性に直面するだけでなく、これらと同和しなくてはならないことを覚悟したといえます。何が転機になったのでしょうか。「魔の山を木端微塵こっぱみじんに打ち砕き、七年間の惰眠をむさぼっていた青年を荒々しくこの魔境の外にほうり出すような凄まじい轟音」(第7章「霹靂へきれき」)でした。第一次世界大戦の勃発を告げる砲声が轟いたのです。

戦争は日常と非日常の境界を失くします。戦死・戦病死・戦災死・略奪・陵辱・飢餓・悪疫等々、不慮の死がしばしば訪れ、死はなんら非常事態ではなく、日常茶飯事になり、人間社会はそのままいわば「魔の山」化します。進化生物学者のジャレット・ダイアモンドは「人類史上もっとも猛威をふるった疫病は、第一次世界大戦が終結した頃に起こったインフルエンザの大流行で、そのときに世界で二百万人が命を落としている」(『銃・病原菌・鉄』)と書いていますが、ハンスはまだそんな人類の未来を知りません。ただこれから降り立つ世界の変容を鋭敏に予感しているのです。

*       *       *

今、世界を襲っている疫病は二重の意味でわれわれに脅威をもたらしています。第一にはもちろん、コロナヴィールスが一定の致死率を保っていることに由来する即物的な恐怖感です。第二のはそれと分かちがたく結び付いている、一種いわば「世界不安」的な感覚です。疫病流行が後に残す失業増大・生活苦・金融逼迫・犯罪頻発・人心荒廃といった諸現象が総体として一種名状しがたい不吉な予感を生じさせています。最近「コロナ解雇」「コロナ離婚」といった種類の言葉がたくさんできたそうですが、それも世の不調子の現れでしょう。

そのうち第一の不安に関しては、現実の客観的な把握として、ダイアモンドの「突然大流行する感染症には、共通する特色がいくつかある。まず、感染が非常に効率的で速いため、短期間のうちに、集団全体が病原菌に感染してしまう。つまり、これらの感染症は「進行が急性」である――感染者は、短期間のうちに、死亡してしまうか、完全に回復してしまうかのどちらかである。そして、一度感染し、回復した者はその病原菌に対して抗体を持つようになり、それ以降のかなりの長きにわたって、恐らく死ぬまで、同じ病気にかからなくなる」(『銃・病原菌・鉄』)という指摘に、冷静に耳を傾ける冪でしょう。「治るか/死ぬか」のどちらかだという断言は、一見すると身も蓋もないようですが、実は大多数の感染者はそっくり生き残ってきたのがこれまでの人類史だという点にアクセントが置かれています。自分がそのどちらに属するかは「運」だと度胸を固める他はありません。

またそう覚悟することは、おのずと第二の不安をも解消するでしょう。予言じみたことをいうつもりはありませんが、今確信を持って予想できるのは、コロナ終焉の後の世界には不可逆的な変化が生じているだろうということです。

*       *       *

拙老が住んでいるここ津の国でも、この不可逆的な変化がそろそろ始まっているようです。以下にお見せするいくつかのイラストがそれを物語ってくれるでしょう。病来このところ歩行は叶いませんが、幸い親切な税理士さんや介護士さんが撮って来てくれる写真で、変貌してゆく外界の姿に触れることができます。

本ブログで何度もご紹介してきた「恐竜山」は見る影もない姿になりました。昔のイグアノドンの全形は消え失せて、わすかに昔の首の部分の樹林だけが残っている有様です。これからは「烏首山うすざん」と呼ぶことにします。山は削られて造成地に区画され、やがて小綺麗なマンションが建つのでしょう。見方によってはことごとくこれ銀行ローンの物的形態なのでしょうが、それまでは申しますまい。とにかくこうした自然の丘陵山林を人口の宅地に造成する土地開発は、プレコロナ時代には「建設」だったかもしれませんが、ポストコロナ期には「破壊」のしっぱなしなのではないか。早い話が、住宅ローンを払う人間がもういないのではないか。

次の一連の動物写真は何か非常に啓示的な意味を持っているんじゃないかな? どれもある介護士さんが訪問先ならびに往復の道すがら目に留めた小景です。

左は、ある訪問先のバルコニーに作られていた烏の巣です。丹念に拾い集めた肥えだを丁寧に編んで雛たちの住処すみかを用意しているのです。あの嫌われ者の烏からは信じられないくらい健気けなげな仕事です。右の写真では、かわいらしいタマゴが三つも生み落とされているのが見えます。烏いだは自分たちの将来のために「建設」にいそしんでいるわけです。次代に備えているのではないか?

近くを流れる宮川の水には、いろいろな小動物たちが、何の拘束もなく、嬉々として日に当たっています。もちろんマスクもしていませんし、外出禁止も休業も要請されていません。

昔、セミの羽化を観察したことがあります。今の情勢によく似ています。飴色をした蛹から成虫が抜け出し、後に形だけがいやに完備した抜け殻が残ります。現代世界もこれと同じでプレコロナの外層がポッカリ外れた後にはポストコロナの成虫がもう待機しているのではないか。カラスやカモやカメはみな何食わぬ顔でその日の予行演習をしているような気がして仕方ありません。 畢

 

 

2020-04-01 | 日暦, 桃叟だより

令和わざうた(童謡)ならぬ老謠おひろめ

『日本書紀』皇極天皇2年(643)10月のことですから、古い古い時代の話です。大化の改新(645)前夜の不安定な政情のさなか世上に奇妙な童謡わざうたが流行しました。「岩の上に 小猿米焼く 米だにも 食げて通らせ 山羊やまじしの老翁をぢ」というものです。意味はチンプンカンプンですが、元は歌垣かがいの歌で、岩上に屯している若い女たちが、通りがかった白髪の老人をセメテ米グライ食ベニ寄ッテユキナヨとからかっているのだそうです。

だが実は、この歌には寓意があって「白髪の老人」というのは当時の権力闘争の渦中にいた皇族を指していて、その人物が政敵を恐れて山中に隠れた事実を諷しているということです。こういう風に、日本の古代史では何度も「童謡」が、権力者を憚って公然とは語りにくいこと、宮廷の醜聞、政治家の私行、闇に包まれた事の真相などを世に広める役割を果たして来ました。

古代社会だけはありません。それ以後の各時代も、それぞれに人々の気持を解放する手段や方法を作り出しています。中世の落書――応仁の乱時の「二条河原落書」など――が有名。江戸時代の狂歌・川柳。黄表紙に四方赤良よものあから作の『頭てん天口有あたまてんてんにくちあり」なんてお誂え向きの外題もあるくらいです。が、古代の童謡は特別ユニークです。子供になりすますというより、子供にしかない直覚的な洞見力がつらぬいているからでしょう。

もとより桃叟には少年の純真さなどありませんが、それでも陸游りくゆうの「老翁垂七十  其實似童兒ろうおうしちじゅうになんなんとし、そのじつどうじににたり」という詩句にはつくづく共感します。ましてや八十路をだいぶ過ぎたとなれば尚更です。以下の連作もそんな子供っぽさとしてお読み捨て下さい。

令和閑吟 〽なにともなやなう 人生七十古来稀 人生八十今はザラなり

耄耋ぼうてつ独吟 〽老い舌は今のわざうた心せよ亀に甲あり年に劫あり

弥生つごもり 〽明日こそはかけて聞きたし卯月鳥いつはりならぬ小夜の一声

卯月ついたち 〽嘘つくは天下御免の朝は来ぬコロナを飛ばす大法螺を吹け

三月三日紀念 〽宰相の首ぞ危ふき春の雪頃は万延コロナ蔓延   尾

 

 

 

 

 

 

時事と連句 付、『囀りに』歌仙初ウ9

どうも大変な時代に生き合わせてしまったみたいです。この3月24日現在で世界中のコロナヴィールス感染者は32万4000強、死者数は14000強。どう見てもパンデミック状態です。あれよあれよと言っているうちにイタリヤが世界一になりました。さすがデカメロンの本場です。

こんな時代には、人間の心は不思議に「先祖がえり」をするものです。誰もがたとえ半信半疑でもオハライやヤマイヨケ、ヤクヨケといった神事・仏式・両者混淆の効験に期待します。口では俗信だとか民俗的慣習だなどと言いながらも、それにあやかろうとするわけです。現に京都の諸神社には疫病の退散を祈願する「茅の輪くぐり」が飾られています。人間はおのれの不安を吹き払うために輪をくぐり、そうすることによって古い伝承の底に眠っている無意識の記憶に安息のよすがを求めるのです。

こういう御時世だから「不要不急」のことはせぬようにというオカミのお達しです。さしずめ俳諧連句のように悠長なことは自粛せよということらしい。たしかに俳諧文芸は五七五を定形とする短小な詩形からいって、あまり複雑な思惟内容を盛り込むのに向いていないし、多くを十七文字に収めることは不可能だという制約があります。正岡子規も「時事雑詠の俳句をものせんとする」のは「文学以外の事に文学の皮を被せたる者なり」(『俳諧大要』岩波文庫p.23――インターネットの青空文庫でも読めます)と一刀両断です。要するに、俳諧と時事はすこぶる相性が悪いのです。もちろん川柳の滑稽とは話が別です(p.75)。

果たしてそうでしょうか?   時事とは同時代の出来事(社会事象)の総体でしょうが、俳句のスペースではそお全貌を捉えることなどとても無理な相談です。が逆に、その短さを独鈷とっこに取って、同時代性を切り取る技法を活用することです。時代をズバリと裁断する劈開面を一語に凝縮して言い取ることです。それを一句立ての俳句(単俳方式)で実現するのは難しいでしょう。ですが、連句にならできます。何人もの連衆がすれぞれ独自の旋律・節奏・音調をもって同じ一つの時代相を発現するのです。ちょうど倉梅子の「茅の輪のイメージがたとえ無意識にでも「時疫」に対する同時代人の集合的不安を感じ当てていたように。

さて、『囀りに』歌仙初ウ9の選評にかかります。まずルール通り投句のご紹介から。

①人語して子に犬からむ垣根越し 湖愚

②御普請を仰せつかりし書状にて 碧村

③世やもろき戦火をあおる天狗風 里女

④丁寧に手洗い嗽うがい八十路入り 三山

座元としては、本歌仙のこの局面では「時疫」への不安という時事的なテーマが時代を越えて人々に共有される世界感覚に徹底的にこだわりました。それを基準にしていますから、4句に対してもしかしたら公平でないかも知れません。①は「人の話声がするので耳をそばだてたら、垣根の向こうで子供と犬がじゃれていた」という情景のようだ。まるで緊迫感なし。②は、この投句に「時疫に由来する緊迫感とはめられると窮屈なので、世界を切り替え」た旨の断りがありました。座元は「はめる」のが望みです。残念ながら意見不一致。③は、本当をいうと入選させるつもりでした。ところが「野ッ原に忘れられたる魔法瓶」などとトボケていた三山子が、突然閃いて④の「丁寧に手洗い嗽八十路入り」の一句が送られてきたので、順位が逆転してしまいました。

この句は、一見八十老人のボヤキというただの私感のごとくですが、流行り風邪を怖がる心境を言い取って、それなりに一時代の普遍的感覚を捉えているのではないか。意外に広い公共の「場」――いわば歌仙空間――に吹き抜けていると思われます。入選にします。参照「囀りに」句順表12

次は初ウ10で、雑の短句ですが、11句目および12句目が「11 花の定座(枝折しおりの花)12 折端(花の綴り目)」というふうに続きますので、この10句目はふつう「花前の句」と呼ばれ、次の連衆が花を吟みやすいように作るのが習わしです。軽い調子で、後句の色彩を奪わないようなのがいいそうです。 尾

 

デカメロンと連句

とうとうWHOがパンデミックを宣言しました。昔の日本人が軍記物で不慮の最後のことを「もしも自然じねんのことあらば」と表現した自然=無常の感覚が日常化してきたようです。

今は「歴史的緊急事態」なのだそうです。方々でイベント中止やら日常業務の休止やらのニュースが伝えられ、世間は騒がしい限りです。それよりも拙老のブログにもラインにも便りがふっつり来なくなったことが、世の中の異変をしみじみ実感させます。寂せきとして声なきありさまです。無理もない。皆さんはまだ現役なのですね。

拙老は現在なんだか『真夏の夜の夢』に出てくる妖精パックのような視点から世の「緊急事態」を眺めている気分ですが、どうか、今回のコロナに感染したら致死率80%と言う年齢に免じて御勘弁下さい。あるいはこうも申せましょう。今日の事態は数学的帰納法でゆけば精神的に切り抜けられるのです。n回目まで何度もピンチを潜り抜けてきた。∴n+1回目もダイジョブに違いない、と。

こんな御時世にこういうことを書いたら不謹慎だと叱られるかも知りませんが、14世紀に世界でペストが大流行した時、イタリヤ人はフィレンツェ郊外に閉じこもってデカメロンを作りました。

デカメロンに描かれた人々は愛欲のエネルギーをバネにして、世を覆う疫病の恐怖を克服したのだといえますが、もちろんこれは絵空事です。しかしここには、一般に「世界史的危機」の時代が到来し、またそれが現実として誰にも体感されている状況の下で取られる人々の反応の基本型が示されています。語られるのは色欲ばかりではありません。物欲も金銭欲も、要するに生命の危険を前にしていよいよつのる我執がいっせいに揃い踏みするわけです。

デカメロンというのは、もっぱら好色文学として知られています。拙老は小学生のみぎり人に借りて読んだが、サッパリ分からなかったのを思い出します。それなのにえらく怒られて割に合いませんでした。今にして思えば、ずいぶんマセタ子供だと思われたに違いありません。誤解です。拙老はまだ思春期前でしたが、何かイケナイことが書いてあるとはうっすら感じていただけです。

さて、21世紀の日本人はどうしているのでしょうか? インターネットを見たら、こんな俳句が投稿されていました――「春眠やコロナウイルス寝るが勝ち」というのです。たいへん失礼ですが、こりゃただの川柳ですね。昔、若い頃の永井荷風が『冷笑』で、日本の風土をすべて「川柳式のあきらめと生悟り」で事に当たろうとすると八つ当たりしていたのを思い出します。ただグウグウ惰眠を貪っていれば、疫病は自然に過ぎ去るだろう、というのはちょっと覇気がなさすぎるのではないでしょうか。

時疫は天変・地異・人災のどれに属するのでしょうか。いずれにせよ乱世の道具立ての一つでしょう。こういう一種「特異点」的な時代には、あたかも地球が彗星の尾の中を通過でもするかのように周囲が不思議な光気に包まれ、人間の感受性は異様に研ぎ澄まされます。ふだんは気が付かないような事物への感覚が開けるのです。

生活する、生計を立てる、生動するといった「実在」レヴェルではなく、いわば「実存」しているという次元での生存感覚が芽生えるのです。それよりも自分が「存在」している生なまの実感かもしれません。その特別な実感の現れ方は人によってさまざまです。

たとえば、権力者が強力な権限を掌握したがるのも現在が「例外状態」であるという意識の現れです。が、よほど用心しないと個人的な権勢欲がすぐに忍び込みます。世界各地で最近とみに顕著な要人たちのつきせぬ我執です。某国現首相のことはさておき、習近平はこの頃何となく秦の始皇帝に似てきました。

そういう乱世には、川柳でも俳句でもなく連句が何よりも力になります。五七五の韻律が問いかけ、七七の韻律が応じる。およびその逆。言葉の意味よりも音韻が心を通じ合えるのです。〽つくばねの道ぞゆかしき春の暮、〽木の芽ふくらむこぞの踏み跡。

 

 

2020-03-03 | 日暦, 桃叟だより

乱世を生き抜ける 『囀りに』歌仙初ウ8

歌仙36歩の歩みのうちには時々マジックワードのような語句が出現します。たまたま選んだ一つの言葉が、思いがけぬ普遍性を獲得してしまうようなことが現実に起きるのです。これも歌徳の一種かもしれません。

今われら一同は『囀りに』歌仙の興行中で、ようやく初ウ8に差し掛かったところ――前途遼遠――ですが、前句の「 サーカスの去って残れる夏の月」(三山)に倉梅子が「茅の輪くぐりて息ひとつ吐き」で応じました。句中の「茅の輪」が問題のマジックワードです。「茅の輪」というのは「夏越祓なごしのはらえの時、神社の参道に設ける、チガヤで作った輪」(ウイキペデァ)のことです。もちろん夏の季語です。

ここでいつものルール通り、この初ウ8候補に寄せられた投句を5つ紹介しておきましょう。

⑴ 今朝より蝉のこゑそらぞらし(碧村)

⑵ 夏草すがし深呼吸終ふ   (湖愚)

⑶ 茅の輪くぐるは隣の和尚  (倉梅、初案)

⑷ 浴衣の帯を鞭にすおとと  (赤飯)

⑸ アイスクリンをねだるひろめ屋 (里女)

いずれも前句の「サーカス」をそれが去った後の喪失感といったものを句想の公分母にしている、と思います。一々の褒貶にはわたりません。座元の関心は、今回は特に「茅の輪」の一語に集中しました。この語がどんなキッカケで倉梅子の念頭に上ったのか知りませんが、おそらくサーカスの一演目にある猛獣の輪くぐりからの連想じゃないかと思います。まさかお寺の和尚さんはサーカスに出演しません。作者にたずねたら、「見た目そのまま」という返事でした。どこかのお寺で「茅の輪くぐり」が催されたのでしょう。(たとえば京都大覚寺。)

実をいえば、この点が一句立ちの俳句(単俳)と俳諧連句(連俳)の重大な分かれ目なのです。単俳ではリアリティの根拠は自分の体験・実感に求められます。これを「嘱目即吟しょくもくそくぎん」といいます。現代俳句はおおむねこの方向です。しかし連俳の世界では、一つの語句はたんに人間の外部にある事物を指向する(外示する)のではなく、その語句に内在している意味のスペクトルの帯全体を想起させる(内示する)ことを重視します。「茅の輪」は、たんに特定の植物の葉っぱを編んだリングではなく、これに祈り篭められた民俗的・土俗的心情――災厄を祓う――がたっぷり沁み込んだ言語対象なのです。かっては疫病よけの呪具でした。

『囀りに』歌仙の初ウ8に「茅の輪くぐりて息ひとつ吐き」の句を得たのには、もしかしたら言霊ことだまのはたらきがあったのかもしれません。初案の「隣の和尚」を捨てて第五句を「息ひとつ吐き」に改めた推敲の背後には、ひょっとしたら、いま敷島のわが国に迫っている疫神のすさびを句主が無意識に感知したからかもしれません。「茅の輪」はやっぱりマジックワードでした。

というようなわけで、初ウ8は倉梅子に決定です。「囀りに」句順表12参照。

〽つくばねの峰に文待つ人もがな調べ合はせん世々の歌口

次は初ウ9,雑の長句です。ぜひ御投句下さい。  尾

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020-02-25 | 日暦, 桃叟だより

フェイク梅に鶯

拙老の鰥宅を訪問看護してくれるヘルパーさんが、市中の公園で見かけたと早春の景物の写真を撮って来て下さいました。「梅に鶯」の構図です。よく見るとちょっとヘンです。画面で我が物顔をしている鳥がウグイスじゃないのです。これはメジロです。

この一葉だけじゃなく、世間に出回っている「梅に鶯」の写真には目白が代役をしているのが多いそうです。聞けば本物の鶯は、羽色が地味な上に目もパッチリせず、あまりインスタ栄えしないということです。

それにひきかえ、この一羽の鳥は如何にも恰幅かっぷくよく、写真に納まって悠然と構えています。〽東風こち吹きて匂ひおこせり梅の花国のえやみも知らず顔して

たしかに画中の目白は、憎らしいほどまるまると肥え、超然とドライな目をして、われ関せず焉えんと、足元の梅花の群などまるで眼中にない風情です。〽世はえやみ春もフェイクか梅鶯囀ばいおうでん、というところです。  尾

 

 

2020-02-16 | 日暦, 桃叟だより

連句と乱世 『囀りに』歌仙初ウ7から8へ

世が乱れると連歌・連句が盛んになります。歴史的事実です。天変地異人妖が世界に跋扈ばっこして、人心不安・社会物騒・経済低迷・気候不順・悪疫蔓延・手元不如意・お先真っ暗と不景気な類語ばかりが連なる昨今の時代が乱世でなくて何でありましょう。すなわち、連句の時代到来です。

こんな時代、人間関係は暗がりで見知らぬ奴とすれ違うようなものです。得体が知れない、気味が悪い、どんな害意を持っているか分かったものじゃない。そんな時、もし連句の応酬ができたらどんなにホッとするでしょうか。相手が自分と同じ文化を持っていることが確認できたのですから。すでに後三年の役ごさんねんのえき(1081〜1083)の時、二人の武人の間でこういう唱和がありました。衣館ころもだての戦に敗れて北へ落ちて行く安倍貞任さだとうに、追撃する源義家が「衣の館たてはほころびにけり」と下の句を詠みかけたところ、貞任はすかさず「年を経し糸の乱れのくるしさに」と上の句を返したという話が伝えられています。明らかに連歌になっています。

安倍貞任は先住アイヌ民族の血を引いているとされる北方の夷族だったのですが、義家はこの「異人種」と共通の文明を共有していることを感じたのです。つまり相手の気心がわかったのです。現代21世紀日本の乱世でも個々人同士がたがいに疎隔しあっている状況は歴史上の戦国乱世同然です。いや、ひょっとしたらもうそのサイクルに入っているのかもしれません。連句で共通言語を養うべき秋ときです。連句をやると相手の人となりがよく見えます。

さて、『囀りに』歌仙の初ウ7選評に取りかかりましょう。いつものように投ぜられた句案を紹介します。複数投句された場合は最終のものです。なお前句は「麒麟の兒らに刻まれる印」(里女)です。

⑴ 夏の月故宮の天を渡り行く   赤飯

⑵ 峰々をあますことなく夏の月  湖愚

⑶ サーカスの去って 残れる夏の月 三山

⑷ 月見草浮かべ飲み干す濁り酒   倉梅

連衆諸兄姉の狙いがだんだん定まって来ているので、座元はしごくご満悦です。みんな「夏」と「月」という基本的な条件はきれいにクリアーしています。ですが上には上があるものです。全体水準が 上がると、その条件をクリアーしただけでは不足だということになります。もう一つ注文が付きます。前句への付け筋をどれだけ意識しているかです。具体的には「麒麟きりん」をどう料理するかです。

難題です。皆さんだいぶ苦労されたようです。座元もハラハラしていました。でもこれが判断基準に加わった 結果、4句案のうち⑴と⑵をあまり悩まずに篩ふるいに掛けることができました。「麒麟」をあっさり無視しているように見えたからです。

⑶と⑷のどちらを取るべきか迷いました。まず⑶ですが、座元には或るカンが働いて三山子に「麒麟」を意識しているかとだけメールで問い合わせてみました。返事には「サーカスは熊象馬虎ライオンなど全てを連れ去ります。キリンはもともとサーカスにはいませんが、夏の月がキリンの幻影として空に残ります。無理ですか?」とありました。カンは正しかったようです。

⑷では倉梅子にえらく苦吟して貰いました。思案最中に野村克也さんの訃報が入って来たので、だいぶ目先が変わってしまいました。野村選手といえば「月見草」のボヤキで 有名ですが、実は句作の世界でも思わぬ広いものでした。「月見草」は夏の季語です。つまりこの言葉だけで「夏」と「月」がクリアーされますから、別に「夏の月」と吟じなくてもよいわけです。

「月見草浮かべ飲み干すにごり酒」の句案をメールで送ってくれた時のメモに「麒麟児=球児の路線を保持したくて苦戦しています。野球用語と月見草を両立しようとすると標語みたいになってしまう」「野村監督の現役時代は全然知らなくて、ぼやきのノムさんイメージが強いので、かつての麒麟児という事で…」と付言されていました。座元としては「麒麟児=球児」のアイデアが認知されているだけで大満足です。付け筋はちゃんと確保されました。しかし、ツキミソウを酒に入れて飲む場面には余りリアリティがありません。俳諧には俳諧なりのリアリティがなくてはなりません。だが言うは易く、実行は 難しい。座元にも「世を拗ねて日に背を向ける月見草」ぐらいの愚案しか思い浮かびません。ごめんなさい。

と、以上のような理由で『囀りに』歌仙初ウ7は、三山子の「サーカスの」と決定します。「囀りに」句順表12 次は初ウ8で夏の短句です。よろしく。  畢

2020-02-04 | 日暦, 桃叟だより

連句連環 歌仙初ウ6決定

連句は楽しくやらなきゃ嘘です。楽しくない人を無理にはお誘いしません。楽しみには色々ありましょうし、人によってさまざまでしょうが、一番楽しいのは自分の才覚で〈前句〉の鼻を明かすことでしょう。

連衆の句は必ず必ず誰かの〈前句〉に付ける〈後句〉であるわけで、その際〈後句〉の句主はかなりのフリーハンドを与えられます。たとえて言えば〈後句〉は〈前句〉を素材にして料理を作るようなものです。もちろん色々な工夫はされねばなりません。〈後句〉は〈前句〉の繰り返しを避けて、これを別世界に切り換えることが大切です。此れが「転じ」と呼ばれるものです。

さて今、初ウ6の場合はどうでしょうか。投句は4つありました。

1 娘横向き無言の化粧     湖愚

2 一人の時はマーラーを聴く     三山

3 不況のまちに鴉のおほき   碧村

4 麒麟の兒らに刻まれし印   里女

皆さんそれぞれによく「転じ」で下さいました。ただ転じ方に若干の精粗差が感じられます。今回の選考では、出来の良し悪しでなく、「付け筋」の適否が問題なのです。前句の「看板は年増マダムの十八番おはこネタ」で、この句からは《年増マダムがいつも閉店時間になるとオハコの芸をして見せる》とでもいった情景が目に浮かびます。この年増マダムの影が4投句それぞれの「付け筋」になっていると見受けられます。

まず2はあまりイメージが合いませんね。このマダムは、演歌ならともかく、マーラーを聴くとは思えません。3もちょっと視野がマクロすぎる。目に入るのはいいとこ「不景気」ぐらではないか。

1と4が残ります。ここでどんな句境でもそれなりに保持されていなければならないリアルさということを考えます。たとえ絵空事でもリアルで或る必要があります。古池の蛙はリアルに水に飛び込むし、大原の月夜にはほんとうに蝶が出て舞うのです。また、事実そのままも「ありのまま主義」というやつで、リアルということとはどこか違う。1は何だか家庭の実景の一齣のような気がします。きっと前句の年増マダムの所は母子家庭なんでしょう。

最後は4です。これは曖昧模糊あいまいもことしたよくワカラナイ句です。句主にも「麒麟」とはビールの広告に使われている霊獣のことか、動物園に入るジラフのことか判然としていないのだと思います。おそらくは[キリン]という音声表象が句主の頭の中で何かの観念と結び付き、何とも名状しがたい聴覚的実体に化してしまっているのではないか。句作の面では、この年増マダムが麒麟児を想像妊娠したというふうにでも解釈するこが可能でしょう。こうした荒唐無稽な感覚の方にむしろリアルさを感じます。

「囀りに」句順表12

以上のような理由から初ウ6の選考は、里女子の「麒麟の兒らに刻まれし印」に決定します。次は初ウ7の長句で、季は「夏」、「月」の座です。皆さん、どうか御投句下さい。  畢

 

 

2020-01-21 | 日暦, 桃叟だより

『囀りに』歌仙初ウ5の決定(けつじょう)

お待たせしました。初ウ5が決定しましたのでお知らせします。4人から句案が寄せられています。前句は綺翁子の「ダイヤモンドで純情崩す」です。いつものように到着順に紹介します。

① 「おいそぎ」でくるくる回る槽の中        湖愚

② 三十路前かたき役にて返り咲き           里女

③ ガラス窓磨く心の透けるまで              三山

④ 看板は年増マダムの十八番(おはこ)ネタ  熊掌

執筆桃叟はずっと連句は単独行ではない、付句はいつも前句との――たとえどんなに気に入らず、肌合いが悪くても――共同作業なのだ、と言い続けて来ました。どんな場合でもどうにか付け筋を見つけて、強引に自分の世界に引き込めばよいのです。そこに後句の句主(作者)それぞれの持ち味が出ます。それが付け味です。前句の道具立てを生かした情景を作るのです。句主は時に情景中の人物にもなります。

そもそも今回の前句への付け筋はどんなものでしょうか? 桃叟の理解では(もちろん他の解釈もあり得ます):「誰か純情な女性がダイヤモンドの魅力に抗しきれず。ついに崩落する――物欲が色欲に優先する」というプロット(筋書)です。「恋」句には扱えますが、かなり冷たく突き放している所から「恋離れ」と見なせましょう。

さて、これを受ける4句の付け味はどうでしょうか? まず①です。洗濯機の水槽の写生と見えます。しかし前句とのつながりが不明です。連句として発想されているかどうかも疑問です。③は、「ガラス窓」を磨く動作を介して透けるようにする(1)心の持ち主は、もしかしたら、前句のダイヤモンドで崩された女性と同一人物かも知れませんが、三山子がそこまで深読みしているとは思えません。あるいは三山子はまったく別箇のシチュエーションを想定しているとも考えられますが、いずれにせよわがプロットからは外れるので採りません。悪しからず。

②と④ではどちらを採るべきか悩みます。②の「かたき役」として返り咲いた人物(女優?)は、一度ダイヤモンドによろめいた過去を持つ女だったという物語が影絵のように浮かんで来ます。しかし連想にワンクッション飛躍があるのが難のような気がします。④の方はもっと直叙的に落魄らくはくの女の情景をつかんでいます。昔手に入れたダイヤ もたぶん開店費用で使い果たし、今は老人客ばかりが常連になっているようなうらぶれたスナックバーのマダムの姿です。なれの果てといってもよろしい。あるいは別人かも知れません。前句と後句との間に介在する時間の隔たりが観音開きのリスクを救っています。

どちらにしようかと迷いますが、この歌仙では連衆の数を増やしたいというアドヴァンスを取って、熊掌子の④を採用しようと思います。これが捌きの決定です。

「囀りに」句順表 72ebf088e08b6530969491f8d01587ad 次は初ウ6の雑の短句です。熊掌子を加えて連衆の数は8人になりましたので、次回からは二度目の人のも採用します。「恋離れ」をしているので次句は雑という他には何の制約もありません。御投句をお待ちします。 畢

 

 

 

1 2 3 4 5 6 15