[皆さんの声をお聞かせ下さい――コメント欄の見つけ方]
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ぼくとしては、どういう人々がわがブログを読んで下さっているのか、できるだけ知っておきたいので、よろしくお願いする次第です。以上
これまで何回かご紹介してきた恐竜山がついに消滅して、こんな姿になりました。左の写真と右のがうまくつながりませんが、だいたい見当が 付くでしょう。

もう恐竜の姿はどこにもありません。地面の下に埋もれてしまったのでしょう。いずれ掘り出されるかも知れません。
考えてみれば、拙老は80年生きてきた間にに何度か、眼前の景色が地を払って一変した光景を見たことがあります。1945年、東京大空襲の焼跡。1956年、立川反基地闘争で踏み荒らされた一面の芋畑。1995年、神戸大地震の瓦礫の山。もっと長いサイクルで歴史をふりかえれば、応仁の乱後の京都・明治維新直後の東京などもこうなのでしょう。少しオーバーでしょうが、2019年の芦屋の景観も拙老には何かが廃残して行くことを象徴するように思えるのです。
若い頃、遺跡はなぜ埋まっているのかと質問してある歴史学者を困らせたことがあります。噴火とか洪水とか自然災害も多いが、結局は人間が新しい住空間を作るために上に土を被せるのだそうです。なるほど、だから廃墟は発掘されるのか。現在の地形は過去の形状を記憶させている。風景は時間を埋在させているのです。
拙老は、これまで目にしている情景をもっぱら縦層的に眺め、何枚もの層理を剥がして任意の時点における過去を復原して来ましたが、最近もう一つの視界が開けたような気がします。属目しょくもくの風物に内在かつ遍在している脱時間的な現光景――こむずかしい数式を比喩として用いるなら、四次元時空の座標枠{x,y.z,t}のtをtoあるいはむしろtiと書けるような形でのみ具現する視像――が見えるようになったのです。それはたとえば『魔笛まてき』の夜の森でタミーノとタミーナの回りに出現していたに違いない時空のヴィジョンです。拙老が80年間生きてきた幻の「津の国」の姿です。
「隠れんぼ」三首
〽隠れんぼ隠れっきりの女の子鬼泣きじゃくる里のたそがれ
〽丘の辺べに時計埋づみぬその昔アキレス亀に追付きし日
〽年波の寄する浜辺 にしほたれて忘れ貝掘る恋のすなどり
尾
お待たせしました。『囀りに』歌仙の初裏の3句目――「雑」の長句で恋――で、割に簡単に行くと思っていましたが、意外に難物だったようです。句案も全部で四つ寄せられました。例によって到着順に紹介します。
1 やわらに背中を推して虫の夜 三山
2 浪あらふ配所に待たむ文ひとつ 碧村
3 押しボタン流し目に見る同じ階 湖愚
4 雨宿り唇盗むつかのまを 綺翁
皆さんめいめい奮闘されています。たいへん選評しにくいのですが、まずワルクチを言いやすいのから始めます。3と4は共に直情径行タイプ、よくえば「いち早きみやび」(『伊勢物語』)、事実は、相手が誰であれ何であれ色を仕掛けるといった印象であり、こう言っちゃナンだが恋の丈がだいぶ低いんじゃないか。恋はエロばかりじゃないよ。一緒にするなと怒られるかも知れないが、お二人は唯色論monoeroticism――もちろん造語です――では桃門の双璧ならん。もっとも個体差はあるが。
これに反して1,2のお二人は教養が邪魔をして句風が丁寧すぎる。ちょっと舞台装置が整いすぎる感あり。特に今の場合、亭主としてはここでサラリと「恋離れ」をして貰いたいと思っているので、あまり重々しくならないようにしたいのです。今が歌仙の途中であり、前句が「ゆで栗剥きし指の細さよ」であったことをお忘れなく。打添付うちそえづけだろうと向付むこうづけだろうと、その句意を含んで欲しいのです。1の「虫の夜」と、2の「配所」では付け筋はどうなるのでしょうか。
「囀りに」歌仙の人員構成をどうするかをずっと考えていて、一時は連衆の数を固定して n連吟――最大六吟――の方針で行くつもりでしたが、冷静かつ客観的に実働メンバーを検討すると、碧村師を除く他は(桃叟も含めて)だいたい連俳ジャンルにはシロウトで、めいめい自己流に句を作っているのが現状ですので、この際無理はやめて全員――桃叟のブログを見てくれている方々――が出放題の全員参加、つまり百人一首や柔道の試合でいう乱取り方式を取ることにしました。以後御自由に御投句下さい。
こう方針を定めたことが、実は初ウ3の選定に関係してきます。亭主桃叟はこの興行を早く満尾(完結)させるために、先を急ぐことを優先させようと思います。場を動かすには、時として「遣り句」「逃げ句」を使うことが必要になります。3の「押しボタン流し目に見る同じ階」は、その目的にピッタリなのではないか。みごとに雑だし、恋を「流し目」と卑俗化して稀釈しているから一種の向付といえなくもない。これを初ウ3に採用しましょう。以下のようになります。「囀りに」句順表12
湖愚子に一言。この「入集」は必ずしも句の出来がよいからではない。歌仙を前に進めるためのオプションです。淡彩なところが「恋離れ」に適合したことと、句主がともかくも「苦吟」するようになったことを評価したからです。くれぐれもカンチガイしないように。
次の初ウ4にも新人を期待します。熊掌子、もっと厚顔におなんなさい。「こあゆ」さん、31文字ができるんだから17字でもいけますよ。いい俳号も進呈しますよ。近々のうちに連俳と一句立ての俳句(学校教科書で教え、雑誌・新聞・テレビで流行らせているやつ)とはどう違うかを本気で考える一文を草するつもりです。 了
「八十とせを」連作

〽八十とせを経来しは夢か津の国は風に声なく浜に波なし
〽世はもみぢわがうつそみの津の国は空に色なき冬木立かな
〽風寒しいざや急がん芦浜に我を待つらむ人影の見ゆ
〽先立ちてわれを待ちをる斑猫はんみょうは魂住む里の道を教へよ
〽今朝よりは何をせんにも気侭なる日々の多さよ叱られたきに
「うたた寝の」連作
〽うたた寝の夢の逢瀬は短くてひとり目覚むる老いのみどり兒
〽みずがきに汝なが名を招おぎぬ形代に魂帰り来るものならなくに
〽なれは客われは馭者なり一筋に時間とき駆け抜ける夢の馬車道
〽見し夢に色も象かたちもあらざりき「淋し」と叫ぶ一声のあり
〽見し夢はただ抽象のアラベスク線は躍りて闇に流れる
〽いとせめて月だに照らせ足弱の行きなずむなる黄泉平坂よもつひらさか
「ひなたあめ」連作
〽日と共に薄らぐものにあらざりき日に日につもる悲しみの嵩かさ
〽今ぞ知るテューレの王の節回し永遠とわに伝ふる愛惜の歌
〽足立たず舌痺るれ ど亡き妻と連れ立ち歩む夢の山河
〽津の国の暮れずの空の明るみは狐の嫁ぐ日向雨 かな
〽子狸は行き暮れわびぬ八衢やちまたの狐はぐれし道の行く手に
〽子狸は道に惑ひぬいつの間に狐の失せし夜の暗きに
〽コダヌキは悔いてぞ泣きぬ知らぬ間に狐死なせし罪の深きに
「ありのすさび」連作
〽ありし日のありのすさびのつれづれにまた次の日をちぎりしぞ憂き
〽又の日は又なきものと知らざりきありと見えたる明日のまぼろし
〽おぞなりき明日と思ひしおこたりを千たび悔ゆれど今は甲斐なし
〽たはむれに狐を招(を)ぎし妻なりきうつつになせよあやかしの日々
〽津の国の狐啼くなる夕まぐれ叱られ帰る道のはるけさ
〽恋ひしけば尋ね行かなむ津の国の芦屋の里に狐住むなり
〽なつかしや暁の夢の切れ端はキツネとむつぶ一人コダヌキ
最近、桃叟の身辺に不幸がありましたので、しばらくブログの更新が遅れました。すみません。今回から復帰します。
『囀りに』歌仙の初ウ2には全部で三つの投句がありました。次の通りです(到着順)。
①比翼連理や宵の川風 湖愚
②恋狂いして名は閻魔帳 綺翁
③身は末枯うらがれて二枚の切符 三山
うーん。①②はたしかに恋句は恋句ですが、どうも「秋」の風情に乏しい。③は秋の末も末で、もうほとんど冬ですね。「うら枯れ」はなるほど晩秋の季語ですが、恋句らしくもう少しシットリしたいものです。
俳論に私情をまじえてはいけませんが、3句ともどうも選者の意に染まないので――投句者の皆さん、ゴメンナサイ――、ここは一つ国連調停式に、蔭の執筆しゅひつ(作品に参加せず、連衆の句を書きとめる役)を引っ張りだして流れをつなごうと思います。
茹で栗剥きし指の細さよ 執筆 「囀りに」句順表 参照
さあこれで次は初ウ3です。「恋」の長句です。季はまだ「秋」の有効射程(許容範囲)内いありますが、次に「雑」がしばらく続きますから、できれば多少「恋離れ」の気味合いのものが望ましいです。連衆諸氏のうちの色魔的傾向の皆さん、修行時ですぞ。
群像2019年十一月号
このたび講談社の『群像』十一月号(10月6日発売)に、拙老の近作小説「崩し将棋」が掲載されます。思えば、21世紀の初年代に――いつのことだったか記憶にありません――脳出血を起こし、雑誌執筆から遠ざかって以来無慮10数年の空白を経て、久々の現役復帰です。こんなとき、いつも一番喜んでくれた亡妻に知らせられないのが残念です。
この10数年の間には文壇でも世代交替が進行しました。当年82才の拙老ごときは世から老残者扱いされても仕方ありませんが、幸い『群像』編集部の英断で作品発表のチャンスが与えられました。まだ決してボケていないことを読み取って下さることと思います。
「崩し将棋」は全88枚。幕末江戸の戦乱で彰義隊と運命を共にする思春期の少年少女たちのバラッドです。上野のお山だの不忍しのばずの池だの日頃は賑やかな行楽地だった場所が、一転して酸鼻な戦場に変わります。悪童たちは否応なく渦中にに放り出されます。
老来近頃はたっぷり距離を取って世相を眺めさせてもらっていますが、どうも最近の日本は明治時代をそっくりなぞり返しているように見受けられます。現代東京にもやがてそう遠くない将来、幕末の江戸で起きたようなことが起こるでしょう。
もし「崩し将棋」が気に入られたら、どうかお友達お仲間に御吹聴下さい。作者には次作、次々作の用意があります。 了
2019-10-03 |
お知らせ,
日暦,
桃叟だより
悲しいお知らせです。老妻芳子儀、去る9月25日に永眠致しました。生前のご友誼に深くお礼申し上げます。葬儀は、9月28日に家族およびごく親しい友人知己のみを集めて執り行いました。近々のうちに「偲ぶ会」を開こうと思っております。
拙老も故人もナマの感情を露呈することを好みみませんので、ここはむしろ淡々と御報告するにとどめます。
今から30年ほど前、ボードレールの”ma femmme est morte”(妻が死んだ)という詩句が妙に気になっていたことがあります。まさかそれが現実のことになろうとは思っていませんでした。今その語句は名状しがたい現実感をもって拙老に迫っています。
『悪の華』中に”Le Vin de l’Assassin”(鈴木信太郎訳では「人殺しの酒」)という詩編があり、冒頭の詩行は”Ma femme est morte, je suis libre!”です。「妻が死んだ。私は自由だ」とでも訳せましょうか。それにしてもlibreなる言葉は多義的です。「放縦」とも「解放された」とも「自由自在」とも「勝手次第」とも意味の幅が広いです。だから鈴木信太郎訳は「飲み放題」という訳語を補っています。
この詩人は言葉の多層性をたくみに生かしています。言葉の多義的な折り重なりが、詩中のje――歌主・句主のひそみにならって「詩主しぬし」と呼びましょう。詩的虚構の主人公です――が陥っている何とも言えぬ空白感・虚脱感・絶望感の複合を表現しているように思います。そして何よりもここでの”libre”は詩語ですから、表層の多義性よりも深層の音韻の響きに無意識のうちに支配されています。libre[リーブル]はivre[イーヴル](酔っ払った)と通い合うのです。libreは下層にivreを埋めています。この詩主は、妻を失った悲しみ(自由感の高い代償)を酩酊で紛らわしています。
拙老の回りには、拙老がまた飲み始めるのではないかと心配してくれる向きもいます。が、以上をお読み下さったら分かると思いますが、拙老は大丈夫です。これから一人で亡妻と二人分しっかり生きます。 了
連俳初学ういまなびの栞
われらが「囀りに」歌仙もどうにか初折の裏を迎えました。初ウ6を公募中のところ現在3句の投稿が寄せられています。いずれも力作ですが、どこかアチャムケホイの印象を否めません。どうにかしなくちゃと思います。とはいっても、かく申す桃叟自身が筑波嶺つくばねの道にはとんと不案内、皆目かいもくドシロウトと来ていますので処置なしなのですが、むしろこれを勉学の機会として、先人の踏み分けた後をたどって歩きにくい道を進んでみようじゃないですか。
誰が作ったのか「歌仙季題配置表」なるものがあり、当「囀りに」歌仙もそれに従って36句のそれぞれに季を配当しています(「囀りに」句順表参照)。しかし参考のため連俳史に残るような名歌仙のいくつかをひもといてみると、みな必ずしも格にとらわれず、自由にのびのびとやってるようです。「春秋は同季五句去りで句数は三〜五句。夏冬は同季二句去りで句数は二〜五句。恋句は三句去りで句数は一〜三句。定座なし。ウとナオの内に各一箇所」といった細かな決まりが運用にも柔軟な幅があります。思うに、季語の配当はおおまかな目安であり、動かぬ準縄規墨ではないのです。句に季があるのは、俳語を無制限な数の語群から絶対フリーハンドで選ぶのではなく、季語の枠組みに絞り込むためだと心得ればよいでしょう。語句は限定された方が作りやすいのです。
理屈をいうより、実作に徴してみましょう。芭蕉が元禄2年に奥の細道紀行の途次に巻いた「秣まぐさ負ふ」歌仙というのがあります(岩波文庫『芭蕉連句集』、柳田国男『俳諧注釈』所収)。全36句を見る必要はありませんが、初学びの糧としてその最初の7句を掲げます。
1 秣負ふ人を枝折しおりの夏野かな 芭蕉 夏
2 青き覆盆子いちごをこぼす椎の葉 翠桃 夏
3 村雨に市の仮屋を吹とりて 曽良 夏
4 町中を行く川音に月 芭蕉 月
5 はし鷹を手に据えながら夕涼み 桃隣 秋
6 秋草ゑがく帷子かたびらは誰たぞ 曽良 秋・恋
7 もの言へば扇に顔を隠されて 芭蕉 雑・恋
今、われらの「囀りに」歌仙で連衆諸兄姉が苦吟されているのは7句目・8句目であります。7句目の「恋」には『秋」のシバリがあり、「恋」を必須とはしないが、恋を扱うなら秋の気配・気分、気色を漂わせたいものです。8句目の恋には何の制約もありません。純愛でも色情でも何でも構いません。御存分にどうぞ。
ところが、6句目倉梅子、7句目里女子はどちらも早くも「恋の呼び出し」の予感を漲みなぎらせているように感じられます。里女子に至ってはモウスンジャッタ印象です。次の8句目はタップリ秋っぽくお願いする次第です。9句目はノビノビとやれるのだから、一句ぐらいはお澄ましでいったらどうでしょうか。 了
いやあ、有難いことです。
この『囀りに』歌仙も、諸兄姉のおかげで、いよいよ初折の裏に入ることになりました。第二ステージ入りです。句順はその1句目、いわゆる「折立」になります。今回も付け勝ちの形になるよう公募方式を呼びかけたところ、嬉しいことにたいへん盛況で、なんと全部で5句の投稿がありました。紹介します。配列は到着順です。
① 酒盡きてさても夜長のプルースト 碧村
② 秋風の吹き抜けてゆく不破の関 三山
③ 野分晴れわがたましひもタブララサ 里女
④ 銃声に獣等(ケモノラ)逝きし秋の山 綺翁
⑤ 闇騒ぐ野分の朝髪梳きぬ 湖愚
うーん。捌きする身としては嬉しい悲鳴です。どれを見ても個性タップリ。兄たりがたく弟たりがたし。玉々混淆(「玉石混淆」なんて恐れ多くて言えません)、いずれがアヤメカキツバタとはこのことです。でもこの中から1句だけ選び出さなければなりません。それぞれに方法的難癖、修辞的イチャモンによって選評に変えることにしようと思います。
①読書の秋ですね。右手に酒杯、左手に詩書という構図は一幅の文人画を連想させますが、読むのがプルーストとはねえ。句中の酒はワインぐらいでないとしっくりこない。ちなみに「葡萄」は秋の季語。オヤマア、これは若師匠に対して釈迦に説法でしたネ。
②端正ですが、あまりに古典的・格調主義的で、舞台の書き割りみたいです。三山子はお仕込みが正統派なのでしょう。
③台風一過の空のすがすがしさが感じられます。「タブララサ」は若干トカゲを食べた後殊勝な顔をしている猫の顔を思い起こさせますが、まあいいでしょう。ケロリとした魂の外景をよく言い取っています。。
④綺翁子の血脈中にはいい年をしてまだ殺伐に騒ぐものが流れているようです。紅葉を見れば射たれたケモノの流血を連想し、秋風の音を聞いても、そこに轟音一発を幻聴してしまう等々です。俳句を作って魂鎮めをしましょうね。
⑤戸外で夜じゅう風が吹きすさんでいた宿で、翌朝、この句主はもつれた髪を梳いてやっているわけです。前夜、何をしていたんでしょうね。それにしても、出番がワンテンポ早いよ。句順表に見られるように、次の初ウ2から「恋句」が二句つづくよ。恋の座は別に位置が決まっているわけじゃないから、いいといえばいいのだが、こういうのを普通「待ちかねし恋」と言いますね。
さて、これら5句の中からどれを選ぶかですが、折立は「追っ立て」とも言うくらいで、初裏12句の、歌仙第二象限といえる連続の新出発の節目ですから、ここで気分一新、連衆一同を清新の気分に追い込みたいものです。里女子の作が漂わせるアッケラカンとした空気感がこの際ピッタリしていると思います。採用しましょう。
折立の句からは、表6句の「神祇・釈教・恋・無常・述懐・旅体」の禁制はもうありません。皆さん、どうぞのびのびと初ウ2(通しで8句目)を競って御投句ください。「恋」の短句ですぞ。 了