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秋山虔先生を悼む

平安文学者の秋山虔先生の訃報を知って、悲しみに暮れています。心から哀悼の意を表します。

秋山先生は文化功労者にもなられた方ですし、『源氏物語』研究の第一人者でいらっしゃいましたから、一般社会からも学会からもいろいろな追悼の言葉が寄せられると思います。後継者もお弟子さんも大勢おられます。平安文学の徒でもなく、ただ講筵(こうえん)の端に連なった程度の不肖の弟子にすぎなかった拙老の分際では多少おこがましいかもしれませんが、御生前の先生から深い薫陶(くんとう)を受けた者として一言先生の御学恩に感謝を述べたいと思います。

故あって早稲田に6年、本郷に6年――都合12年間学生生活を送り、それからすぐ神戸に職を得て定年まで居続けた、つまり一生の大部分を学生気分で過ごしてきた不肖拙老のことですから、その間ずっと定まった師というものはありませんでした。今日曲がりなりにも物を書いて暮らせるようになった下地は、おおむね独学によるものです。今でも時々そのマイナス面が出ますが、おおむねプラス面の方が多かったという自信を持っています。

それでもこれまでほんの時たま、心から「先生」とお呼びしたくなる人物にめぐり会いました。そしていうまでもなく、秋山先生こそはそんな人物の一人でした。

思い出すのは、最初の授業の日です。はにかんだようなお顔で教壇に立たれた秋山先生は、学生に向かって語りかける口調で講義を始められたのです。新鮮な驚きを感じました。今はどうか知りませんが、当時の本郷では、国文学の先生の大部分は用意して来たノートを教壇でゆっくり読み上げ、学生は必死でそれを一言一句聞き逃すまいと自分のノートに書き取るという方式が当たり前だったのです。チョー真面目な学生の中には、時折息抜きとして授業の合間にさしはさむ雑談や冗句まで忠実に書き写す人もいました。クシャミまで筆記した笑い話もあるくらいです。

そんなノート読み上げ/書き取り方式全盛の時代に、秋山先生の講義スタイルは、清新であり、魅力的でした。話が高揚してくると頬を紅潮させ、間々言葉を句切って宙に眼を凝らして、「あ、先生今考えているな」と実感させる表情からは伝説として語り伝えられる往年の美少年ぶりも仄見え、何よりも、考えて考えぬく思惟過程がそのまま言葉を生む、思考現場の実況に立ち合っているという本物の臨場感を与えてくれました。

先生の講義ノートを作るのは一仕事でした。ノート読み上げ方式と違って、先生のスタイルの場合、耳で聞いた言葉をはじから書き付けるという具合にはゆかない。耳でキャッチした内容をいったん咀嚼(そしゃく)し、自分流の言葉に言い直して文章にしなければならないのです。意図を取違えたらおしまいです。耳で聞き取ったことを記憶に留めておきながら、それを自分の文脈でノートに書いてゆく。だから聞くことと書くことの間にはいつも「時差」があります。緊張のしっ放しでした。同時に、毎回の講義はそういう種類の稀な緊張を体験できる又とない時間でした。

これが学恩でなくて何でしょう。そんな貴重な時間を与えて下さった先生にはいくら感謝してもしきれない思いです。

――最後に、深い感謝と追悼の気持を籠めて、つたないながら哀悼の歌2首を捧げることをお許し下さいますように。

きみいたむ声も涙に途切れつつ光隠れしよにまどふなり

木々の葉も紫鈍(むらさきにび)に散り敷きて踏み分けがたき秋 の山かな

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