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お知らせ

[皆さんの声をお聞かせ下さい――コメント欄の見つけ方]

今度から『野口武彦公式サイト』は、皆さんの御意見が直接読めるようになりました。ブログごとに付いている「コメント欄」に書き込んでいただくわけですが、
同欄は次のような手順で出します。

トップページの「野口武彦公式サイト」という題字の下に並ぶ「ホーム、お知らせ、著作一覧、桃叟だより」の4カテゴリーのうち、「桃叟だより」を開き、右側サイドメニューの「最新記事」にある記事タイトルをどれでもダブルクリックすれば、その末尾に「コメント欄」が現れます。

そこへ御自由に書き込んでいただければ、読者が皆でシェアできることになっています。ただし、記入者のメールアドレス書き込みは必須ではありません。内容はその時々のブログ内容に関するものでなくても結構です。

ぼくとしては、どういう人々がわがブログを読んで下さっているのか、できるだけ知っておきたいので、よろしくお願いする次第です。以上

中仕切リ 次刊今秋出版本決まりお披露目 

 

 

 

長いこと懸案だった近刊単行本の出版がやっと本決まりになりました。A5判の範型で、来たる読書の秋を期して一斉に店頭に並ぶ予定です。もっとくわしく体裁や内容を予告するつもりでしたが、版元の出版社の方から業界の慣わしについて釘を刺されましたので、その指示通りに事を運びます。版元と刊行月についてはしばらく伏せ、「2024年の秋めどで刊行予定」ぐらいに留めておいてほしいという注文でした。

 

桃叟には年甲斐もなく世間知らずなところがあり、従来の慣行には至って不案内ですが、まあ「郷に入らば郷に倣え」の原則に従います。現今の出版危機の情勢のもとで「紙の本」の不振のさなかに真正面からオーソドックスな編集方針を貫いて下さった版元さんのご英断には――本を出していただく立場からは、多少口幅ったい気持がしないでもないですが―御奉謝申し上げます。

本作中の芝居でいうなら、さしずめ『近江源氏先陣館』の「盛綱陣屋」の有名なセリフで、扇をぱっと開いて「褒めてやれ褒めてやれ」と絶賛するところです。

 

今はその出版社名も、刊行月も、版元のご要望に従って明らかにしません。一篇の表題についても箝口令が出ていますので公表することは差控えますがが、すでにこれまでいわば「問わず語り」風にだいたいの輪郭は漏らしてしまっていると思います。時代の舞台は幕末の大詰めで、「鳥羽伏見の戦」「歩兵」「旅役者」という三つのモチーフが三題噺の体ををなしている、とお考え下されば有難いです。

 

このような事情で、本作の出版はごく大雑把に「2024年の秋めどで刊行予定」としか公告できません。いずれ版元から発売日の発表が解禁され次第、天下晴れて公表しようと思っています。それから半ばは私事ですが、今年の9月25日は逝妻芳子の5回忌にあたります。これと本書の出版記念を兼ねた集まりを持とうとしております。スケジュールが定まりましたら、またお知らせ致します。以上。

 

 

 

 

 

 

 

 

2024-02-12 | お知らせ

佚老喧鬧 付 春の旧友3首

長いことお休みしました。病院の検査で無事放免となりましたのでブログヲ再開します。どうもご心配を掛けました。拙老ふぜいに気を揉んで下さった方々に心からお礼を申し述べます。

健康を気にしている間に、懸案の『旅役者歩兵隊』刊行の件もうまくまとまっています。いずれきちんとご報告したいと思います。

まず今日は――コンニッタ、と読みます――これぎり。お披露目だけです。

いつも今の季節になると、例年の友人ハエトリグモ君が顔を出します。寿命は一年ということですから、代々律儀なことです。

春の旧友3首

〽春来ればわが物顔に座敷鷹日なた求めて姿現す

〽年ごとに同じ顔立ち親か子かハエトリグモは春の友だち

〽春ごとに古き命はよみがへり殊勝な顔で足摺り合わす

2024-01-27 | お知らせ

未老年の弁

たいへん長らくご無沙汰しました。このところ公私共にいろいろなことが打ち重なって、何をどうしたものか決めかねていたのです。とりあえず方針が定まりましたので、ブログを更新して区切りを付けようと存じます。

「公」とは言えますまいが、『旅役者歩兵隊』の刊行の件は、出版に興味を示してくれた出版社が慎重に』見積りを立ててくれている最中だそうです。次のブログで吉左右をお伝えできると思います。「私」の方では、桃叟の周囲の友人知己の人々が揃ってわが健康を――私見では過度に――気遣って下さった結果、あやうく病院に入れられるところでした。

幸い、一日の通院だけで済みましたが、いっときは「この数値ではすぐにでも透析しなければならない」と真顔でオドされたのには参りました。しかし、レッキとした市民病院の定評ある専門医の診断で、「入院の必要無し」という結果でした。大いに喜んでいます。

――――そんなわけでまたしばらくの間、ふだん通りの暮らしに戻ることになりました。どなたも真っ平御免なさっ下下せえまし。人間も86歳まで生きていると、世間様には「超高齢」とかいうようです。さっぱり自覚がありません。もしかしたら拙老はどこかで年を取り損なったのでしょうか。

『字源』をひっくりかえして適切な熟語を探したのですが、ぴったりのは見付かりません。「老翁」「老朽」「老鰥」は月並み。「老耄」「老骸」「老耄」――ちょっと自虐的。「老練「老獪」「老麒」となると、ガラじゃないので恐れ多い。

どうも拙老は、落語に出て来るあの花川戸のおじさん――一生のらくらして若旦那にワルイことばかり教える親戚――に似ているようです。永遠の「未老年」なのかも知れません 。了。

 

『旅役者歩兵隊』刊行のお願い。引き受けてくれる出版社はないか。

これまでなかったことですが、ぼくの3o8枚の中編『旅役者歩兵隊』がいまだに出版元を見つけられずにいます。もちろん、作者の技量が編集者諸氏に認められなかったまでのことであり、その結論に文句を言える筋合いではありませんが、作者にとってはたいへん心外です。本作の企画が通らないことの背景には、最近の出版界の動向が大いに関係しているように見受けられるからです。

数ヶ月前の『産経ニュース』にこんな記事を見かけました。このところ出版業業界では、収益構造の急激な変化が著しいというのです:「顕著な例が講談社だ。2月に発表した通期決算(令和元年12月~2年11月)は売上高が前期比6・7%増の約1450億円で、当期純利益は50・4%増の約109億円だった。電子書籍は19・4%増の約532億円で、これにアニメ化などの権利ビジネスを合わせた収入は約714億円となり、初めて「紙」の売り上げ(約635億円)を上回った。「収益構造の変化がより一層明確になった」(野間省伸社長)格好だ。」

電子書籍の売り上げが「紙の本」を上回ったというのは、平たくいえば活字で印刷した本が読まれなくなった事実を示しています。世の中で、アニメつまり漫画・劇画が好まれる現状を反映しています。文字を読みたどる「文字言語」よりも直接目に訴えてくる「イメージ」の方が優先されるようになったのです。活字の本が売れなくなったのも道理です。

このように「絵の助けを借りずに言葉のみで理解し,想像の世界を広げることのできる読書行為の段階にあるはずの大人が読む」(紅野謙介「新聞小説と挿絵のインターフェイス」)ような現象は、わが国の文芸史上つねに間歇的に起きている事柄であり、嘆いてみても仕方がない。こんな御時世に生まれ合わせた運命を受け入れて、「文字言語」の法灯を点してゆくしかありません。

ぼくの『旅役者歩兵隊』もかりに劇画のノヴェライズの方式だったら――そういう才能の持ち合わせはございませんが――別に販売部の方から故障が出ることはなかったかも知れません。この一篇は、時期的には、慶応4年(1869,9月に改元して明治元年)1月6日、鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜が大坂城を脱出してから、同年5月15日、江戸上野山の彰義隊追討戦までの6ヶ月余り(䦌4月があったので)の期間を扱っています。主人公の江戸町人熊五郎とその仲間たちは、幕末の混乱期に歩兵隊に応募するが、あえなく敗戦。生まれつきの芝居好きから文字通り芸に身を助けられて旅役者の一座に化け、行く先々で芝居を上演しながらなつかしの江戸へ帰還するのです。

一篇は全6章で構成され、各章に作中で上演される歌舞伎芝居が一幕ずつ割り当てられています。一座が公演した都市と狂言通称と場面、および各章の枚数は以下の通りです。

旅役者歩兵隊章構成

発端『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら五段目』山崎街道40

二幕目 「伊勢音頭恋寝刃いせおんどこいのねたば」 桑名50

三幕目 「盛綱陣屋もりつなじんや」  名古屋52

四幕目   「弥作の鎌腹やさくのかまばら」 下田54

五幕目  「躄の仇討いざりのあだう5」 横浜8

大詰 上野山炎上58

本作の「発端」と「大詰」には二つの記念碑的な戦闘を描きます。鳥羽伏見の戦いと江戸上野の彰義隊殲滅作戦。どちらも江戸時代の終焉を実現した歴史上画期的な内戦です。二つながら有名な出来事であり、歴史的名辞としては周知の事項ですが、それぞれの実相はよくわかっていません。特に、260年間も維持された徳川幕府の政治権力が見る見る解体した決定的な6ヶ月のうちに何が起きていたかは、いまだに解明しつくされていない歴史の謎なのです。

この歴史上稀に見る一時期、政局の当事者たち――とりわけ旧幕府勢力側――が遭遇した政治密度の質量がどんなであったかは想像が付きますが、これまでの幕末戦史・戦記は、政治決断者たる慶喜が権力を放棄したことを述べるのみで、なぜ・いかなる算段をもってその結論に達したかまでは追及しないままです。ブラックボックスに入れられているのです。

『旅役者歩兵隊』の世界では、もちろんその領域は視野に入って来ません。熊五郎一座は政治的中央から遠く隔たった東海道筋――それも周辺の海路――をたどって幕末混乱期の日本をつぶさに味わいながら道筋を急ぎます。早く戻らないと住みなれたお江戸がなくなってしまう。そんな危惧がいつも念頭を去らないほど日本の変わり方は迅速でした。

一座は行く先々で当時の民衆に愛好された演目を次々と舞台に載せる。いずれもたっぷり敗者・弱者・不具者たちに与える苛烈な嗜虐の味わいで幕末頽唐の時代色を染め上げていた。そして江戸に帰り着いた熊五郎 一行は、幕末劇の記念碑的な最終幕――上野戦争にちょうど間に合うのです。この重要な政治史の一齣は、悲壮な儀式性さえ帯びて、江戸時代の掉尾を劇場的に飾っています。

ざっと眺め渡してみたところ、江戸時代から日本近代への時代交替は、それ以前の転換期に比べると、いまだにすっきりとは様式化されきっていないように思われます。様式化というのはこういうことです。古い時代の面影がしだいに薄れ 、新しい時代の建て付けが目鼻立ちを整える新旧入れ替えの手順が、型通りには進められていない。それまで日本史上の権力交替・時代の変わり目が生じたと、人々が認知する、万人が納得するに当たっては、そこに暗黙の了解があるものなのですが、その辺がどうも怪しいのです。

史実の優勝劣敗は人間学的には逆転する。政治的な勝者が文学的・美学的に敗北する・及びその逆という「定式」が出来上がる。たとえば「王朝」の世界では、全盛の藤原氏は天神(菅原道真)の摂理の前に滅び、「源平」の世界では義経に同情が集まって「判官びいき」の心情が生まれ、「太平記」の『忠臣蔵』では同じ言葉が塩冶判官(浅野内匠頭)に宛てられ、熊五郎が演じた『近江源氏先陣館おうみげんじせんじんやかた』も舞台を「源平」の世界に借りてはいるが、じつは 豊臣氏滅亡時に敵味方に分かれた真田一門の苦衷をテーマにしているといった具合である。そうした既判例に照らすと、近代日本史の総合的・最終的勝者の姿はいまだに確立されていない。きちんと「総括」されていないのです。

しかし日本の国情は、明治維新以後の150年を経るうちになし崩しに「近代」を実現してきたどころか、「超近代」へ突出しようという時勢にあることを示しています。日本社会は常には「前近代」「近代」「超近代」が」共存し、かつ互いにせめぎあう特徴がありますが、これら三つの位相を同一事象のうちに透視する視角は、将来に投じられる視線の中ばかりでなく、過去の歴史――たとえ幕府歩兵隊とか彰義隊とか――を視野に置いても働いているべきでしょう。これらの事象はどれもまだ歴史的過去に埋もれきっていず、将来にも何らかの布石たり得るポテンシャルを蔵しているからです。

――――編集者の皆様にお願い。ぼくの『旅役者歩兵隊』の刊行をお引き受け下さい。あまりくだくだしくは申しません。ただ首尾よく日の目を見た暁には、本作は「失われた環」にならずになるだろう、と多少胸を張らせて頂きます.妄言多謝。

 

 

 

 

今年もヒガンバナ健在 付癸卯秋四首

 

 

 

 

 

〽許せかし名もなき草と呼びたれどほんとはわれが名を知らぬだけ

〽未練なと笑ひ召さるな八十路坂道に眼留むる花のいろいろ

〽老いらくの果てに迎えるトリレンマよだれと呂律紙おむつなり

〽煉獄の暑熱をくぐる曼珠沙華燃ゆる炎も涼しげに咲く

*     *     *     *

今年の夏はいやに長く、また異様に暑かった。庭の小動物や植物たちにも異変が続々。蝉は鳴かず、蚊は飛ばず、バラは半ば枯れ、ほぼ全滅かと思っていたが、さすがにヒガンバナだけはその名に違わず、ちょうど秋分の日に地上に花芽を出しました。例年通りとはいきませんが、次々に花を開いてくれました。植物の生命力が気候変動に勝ったわけです。

そんなことがやたらに心嬉しく感じるのも、年齢のせいかも知れません。もうたいして寿命は残されていないから後はドウナトキャアナロタイでどうでもよいようなものの、やはり今の異常気象が一次的な変動にすぎないのか、それとも地球全体に生じている不可逆的な過程の始まりかは大いに気に掛かるところです。  了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『旅役者歩兵隊』御吹聴お願い  付 春闌近況4首 

長い間推敲してきた『旅役者歩兵隊』がこのほど完成しました。総枚数は312枚です。これまでの基準からいうと、単行本としては少し薄手なのですが、今回はこの一作だけで勝負しようと思います。

時は慶応4年。場所は鳥羽伏見から江戸上野まで。主人公は幕府歩兵隊に応募した素人役者の町人熊五郎。この男が、仲間たちと共に旅役者に成り済まして東海道を下り、幕府瓦解直後の江戸に帰り着くまでの物語です。ラストシーンは彰義隊の一戦です。一篇の構成は次の如し:

序幕 山崎街道40

二幕目 「伊勢音頭恋寝刃」 桑名50

三幕目 「盛綱陣屋」  名古屋52

四幕目   「弥作の鎌腹」 下田・横浜54

五幕目 「躄の仇討」江戸58

大詰    上野山炎上  58

できばえがどうかは皆さんの判断をお待ちしますが、それにはまずこの作品を読んで頂かなければ話になりません。ご承知の通り、「紙の本」がすっかり不況になっている昨今ですので、この際少しでも販路を増やすように努力したいと思います。皆さんも何とぞお知恵をお貸し下さい。まず拙作を世に御吹聴下さいますよう伏してお願い申し上げます。

*       *      *

春闌近況4首

〽春闌けて緑の桜ふふだめり去年きみと見し花の移り香

〽この頃は世々の噂も人づてぞ吹く風に聞く花散らしかな

〽夜な夜なの夢は乗り物経めぐらん三千世界の一宇一宙

〽年ごとに名馬出並ぶファンファーレ奢れる駒の高き鼻息

 

 

 

 

 

 

QRコードお披露目 付 春花斉放8首

生まれついてのオッチョコチョイで、人のすなるQRコードというものがやってみたく、人に頼んで作ってもらいました。真ん中のいわば字眼にあたる図柄は、『五体字類』の「明朝諸人」の部類から拝借しました。こんなものでいいですかねえ。皆様のご鑑定をお待ちします。

と、そこまではよかったのですが、このQRコードを実際にどう使ったらいいのかわかりません。宝(?)の持ち腐れにならぬよう、どなか知恵を貸して下さい。

さしあたっては、このブログ上に本QRコードをお披露目し、本ブログの御常連の数を増やそうと思っていますのでよろしく。このブログなどは、ヒット数百万を豪語するSNSに比べれば,吹けば飛ぶような泡沫のカケラにすぎませんが、この三月にはヒット数100を越えました。昭和の生き残りはまだ健在です。

*     *       *

春花斉放8首

〽菜の花や久松恋ふる足拍子心ときめく三味の連れ弾き

〽忠信の姿ゆかしや花霞遠く鼓が谺する声

〽待ちかねしコブシの花は開き出ぬ春に合はんとけなげなりけり

〽どこかから舞ひ飛び来たるニラの花われを忘るな春の仲間ぞ

〽またひとり古きブンドが失せにけり若き昔は敵なりし人

〽中空に行くも戻るも定めかね八十路半ばは経るによしなし

〽いくそたび仮りの姿と現じけんまことのわれはありか知らずて

〽なつかしや野山に響くファンファーレ勇める駒の嘶きに和す

 

 

 

桃門連社中が発足します 付「令四冬六吟半歌仙」句順

このたびわれわれのメンバーが「日本連句協会」に加入した機会にこれまでの「俳友グループ」を改組して、新たに「桃門連社中」が発足します。別に約款とか社是とかマニフェストのようなものがあるわけではありませんが、めいめいあまり勝手気ままに振舞わないように、一応は連中の間での申し合わせを作って置いた方がいいと思います。

 

  • 何といっても連句の実作がなければ話になりませんから、従来通り歌仙興行を続けます。その場合、6という数字は歌仙の句数36句と適合していますので、連衆6人を常時メンバーとして座を運びます。
  • しかし、このメンバー6人は決して固定的にせず、流動性を残しておきます。必要に応じて適宜入れ替えます。
  • その際一案として、箱根駅伝のシード校システムを取ろうかと考えています。
  • ゆくゆくは「出勝ち」――わがグループでも初めこころみたのだが、みんな譲り合って(尻込みして)うまくゆかなかった――に復帰したいのだが、どうもまだ踏ん切りが付かない。もうしばらくは「膝送り」で進めようと思う。皆さん、ガマンして下さい。全国的基準はどうなっているかと思って調べてみたが、特に定まった約定はないようだ。というより、各地にある連句愛好家グループがそれぞれのリーダーの判定に従って選考を加えているのが現状だと言えそうです。中央集権ではなく、いわば封建割拠のありさまに見えます。よくも悪しくもイヤと言えぬ絶対的権威がないのです。

 

そのような状況のもとで、われらが桃門連はいかなる進路を取るべきでしょうか。郷に入らば郷に従えと申しますから、有力連句グループの驥尾にくっ付いて行けばほぼ間違いはないでしょう。そう思って連句協会の最新の会報(令和4年12月20日12月1日発行)を見ると、格好の告示が見付かりました。「加賀の湯処に芭蕉の足跡を偲ぶ『連句の祭典』」というのが「第38回国民文化祭」と銘打って案内されています。

作品も公募されていて(〆切は令和5年5月15日)、うち[一般の部]は半歌仙と指定されています。決まり通りに応募してみようと思うがどうでしょうか。われらの実作が全国水準でどのくらいかの見当を付けるにはお誂えの機会ではありませんか。

ついでに連衆各自にお願い。皆さんの一人々々が、ご自分の周囲で連句グループを作ってくれないか。めいめいがプチリーダーになって、「サブ捌き」を始めて下さい。いい勉強になるよ。

 

連衆諸兄姉にはいずれ協会の会報が届くと思います。次に「令4冬六吟半歌仙」の句順表です。皆さんどうかよろしく。発句は不肖桃叟:「年惜しみ我を愛󠄂しむ人ありやなし」です。お後をどうぞ。

令4冬六吟半歌仙句順表

 

 

 

 

 

 

 

徳川慶喜と高浜虚子 付「桃門連社中」内議

徳川慶喜と高浜虚子の一期一会

 

明治の末年、高浜虚子は最晩年の徳川慶喜(大正2年に死)と生涯に一度だけ会い、話を交わしたことがある。まさしく一期一会(いちごいちえ)の邂逅である。筆者(わたし)は二人の対話のことを拙著“『慶喜のカリスマ』のエピローグに取り上げて書いたのを思い出す。『十五代将軍』という作品で話題にされている蕪村の一句「牡丹切つて気の衰へし夕べ哉」の解釈に托して、慶喜は自分が大政奉還を断行した時の心境を語ったのではないかと推察したのだ。だが最近この小説を読み返す機会があってもう一つ重要な事柄を見落としていたことに気がついた。

 

その俳席で、図らずも慶喜の句稿を批点する仕儀に立ち至った虚子は困惑を感じた。慶喜のものを始めとして将軍末裔一門の句作はどれも「徳川末葉の月並調」だったからである。当日の運座の題は「五月晴」だったが、それに応じて慶喜が出したのは「残念ながら月並みの句」であった。虚子は「如何に将軍様の句でも其月並調を其侭認めるわけには行かなかつた」ので、容赦なく添削を加えた。というより改作した。さすがに虚子は虚子だ。元の句案はわからないが、その時虚子が前十五代将軍に書き与えたのは、こういう句であった。

我為めの五月晴れとぞなりにける

慶喜はこれを瞑目して聞いていたが、聞き終わっても何とも言わなかった。この沈黙に一座の人々は「多少の緊張を覚えた」と、虚子は記している。

 

その日、「歴史の大きな影」が自分に差しかけたと感じながら帰途に就いた虚子は、老慶喜が自分の改作句を「容易に首肯しなかつた」ことを「面白く思」ったという。「我為めの」の一句はなぜ慶喜の気に入らなかったのだろうか。

 

読者の中には、虚子が示したこの句案からピーンと来た人もいるだろう。「我為めの」の句はわれわれに一つのレミニサンスを呼び起こさずにはいない。歴史の有名な一場面を記憶に甦らせるのである。時は天正15年(1587)5月24日、場所は京都西北郊の愛宕山。ここで催された『愛宕百韻』の連歌興行明智光秀が詠んだ「時は今天が下知る五月(さつき)哉」の発句(ほっく)である。これが主君織田信長を討つ決意を秘めているとする歴史伝説は長く世に伝わり、人々に共有されてきた。「五月(さつき)」が何かを予祝しているとする句の趣向は、両句に共通し、類似の声調を響かせている。虚子がそのニュアンスを感じなかったはずはないし、また慶喜がそこに見えなくもない天下転覆という底意 undermeaning を読み取って慎重に警戒したといえる。現在は明治の末年であり、慶喜が天下の大政を放還した時から50年近く経っている。もう歴史が反転する気遣いはないのだが、今でも自分には「天が下知る」野心があるように見えまいと振舞う慶喜の細心さを、虚子は見逃していない。

 

慶喜の句案は、もともと「五月」を題として示された運座に応じたものである。これを「我為めの」という初五で始めさせる発想には、慶喜の心事への多少の思い入れが混じり込んではいなかっただろうか。少くともこれがただ「晴れた五月の青空」に爽快感を覚えるというだけの、ありきたりの抒情歌とは思えない。虚子が慶喜に五十年前の古傷に塩を揉み込むほど意地悪だったとは思えないが、また何の歴史的連想も思い浮かばなかったとも考えにくいのである。要するにこれは、連句の世界に一歩踏み込んだ句想なのだ。

 

付1  高浜虚子と連句論

 

徳川慶喜と高浜虚子の一回きりの対座があった明治末年の頃は、活動虚点を松山から東京に移した雑誌『ホトトギス』が俳誌としてばかりでなく、文芸誌としても成功して大いに売れていた時期であった。折から日露戦争の戦後文学の季節であり、人々は活字に飢えていた。徳富蘇峰の『国民乃友』が三千部の時代に、虚子の『ホトトギス』は初版千五百、さらに五百部増刷という売れ行きだったのである(山本健吉「高浜虚子」)。この雑誌をただの俳誌と見てはならない。明治38年(1905)の『我輩は猫である』を、翌39年には『坊ちゃん』を連載して小説家夏目漱石を世に出して人気を博し、明治40年代になってからは小宮豊隆・安倍能成・阿部次郎・森田草平・鈴木三重吉といった新進気鋭の顔ぶれを筆陣を揃えて、『ホトトギス』は文芸誌どころか一種のオピニオン誌ですらあったのだ。

 

この雑誌の前身は、いうまでもなく正岡子規が松山で創刊させた俳句専門誌、平仮名の『ほとゝぎす』である。明治31年(1898)に発行場所が東京に移って虚子に継承され、明治34年(1901)に誌名をカタカナに改め、翌35年9月に子規が病没してからはいよいよ虚子の主管するところとなった。そのことを示すのは、終始虚子の意向で決定されたと思われる『ホトトギス』雑詠欄の設置である。明治42年(1909)に廃止した時期は虚子が小説執筆に意欲を燃やしていた時節と符合するし、三年後の明治45年に復活したのは、全国的な俳壇が形成され、俳句会が隆昌を迎えたことと揆を一にする。『ホトトギス』の誌面の大半は全国のアマチュア俳人からの投稿で成りたっており、

入選――もちろん虚子選だ――した句はこの雑詠欄を飾った。大変な名誉である。これら入選者を上層とする俳句愛好者のピラミッド構造が日本全国の俳句人口――総人口の一割と豪語される――のうちに出来上がっていた。河盛好蔵の『わが交遊録』によれば、虚子は桑原武夫の『第二芸術論』を読んで大喜びしたそうだ。「おかげで俳句が芸術にまで出世できました」と。

 

子規が「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」(『芭蕉雑談』明26)と書いて連句を強硬に否定したのに対して、虚子がつとに子規の生前から「さまざまの宇宙の現象」「連絡のない宇宙の現象を変化の塩梅よく横様(よこざま)に配列したもの」(『連句の趣味』明32)と連句を擁護し、子規死後の大作『連句論』(明37,)では、まず「連句」という名称「を「俳句」と区別して独立させ、子規による「俳句復興以来既に十余年、俳句の運命は浸(しん)ゝ(しん)として旭日(きょくじつ)の勢があるのに反し、連句の方は全く文学社会に忘却されてしまつて更に之を一顧するものも無い」とその復権を呼号している。その特質は、俳句が「一幅の画図」であるのに対して、連句は「画室に入って数幅の画の陳列」を見るようなものだ」という点にある。虚子が強調するのは、連句の五七定型の枠の外に望見できる新次元の言語空間なのだ(「五七五がかかえこんでいる背後のもの」大岡信)。それに確信があればこそ、虚子は大胆にも「やゝ複雑なる人事の描写は俳句では出来ぬ、和歌では出来ぬ、独り連句のみの擅(ほしい)まゝにする処である」と断言できたのであろう。

 

ところが、である。このような定見があるにも拘わらず、当の虚子はそれ以後ピタリと口を鎖したかのように連句を論じることをやめたのである。昭和15年(1940)に『連句礼賛』という一文を発表するまでの35年間、虚子は連句をあげつらうことを封殺してきたと見てよい。自分でもその期間のことを、「私も亦小説に筆を執るやうになり、続いて又俳句の方に携はつて今日まで来た為に、此連句の方は暫く筐底(きょうてい)にしまひ込んだ侭になつて来た」と要約している。明治45年、『ホトトギス』に雑詠欄を復活させ、客観写生を旨とする「平明にして余韻ある」句を旗印に俳句に復帰した虚子は、ことを主張し、みずから「守旧派」と名のって、無季・非定型の新傾向俳句を唱える河東碧梧桐と激しく対立し、昭和2年(1927)に俳句は「花鳥諷詠」「客観写生」を旨とすべしとまで言っている。こうした機略で俳壇に復帰した結果、虚子と『ホトトギス』は大きく勢力を伸ばし、大正、昭和期(特に戦前)は、俳壇即『ホトトギス』といえる景況を呈した。

 

だがこの「守旧派」俳人は、決して連句への眷想を忘れてはいなかった。上記した35年の間にも虚子は明治37年(1904)に夏目漱石らと組んで連句および俳体詩(連句形式の詩、代表作が虚子・漱石合作の『尼』)を作っている。が、小説への関心増大と反比例して立ち消え。連句そのものは見果てぬ夢のように残像だけが持ち越されるのである。いわんや、連句制作の規範を定めるにおいてをや。虚子自身は終生この課題に手を付けなかった、と言えそうである。たしかに第二次世界大戦たけなわの昭和19年(1944)の『ホトトギス』11月号には「昭和俳諧式目」なるものが掲載されてはいる。その式目第一条には「俳諧(連句)は日本伝統の文学にして、その一巻に於ける、発句はもとより、脇句以下の附句も各々一句としての独立性を有し、且つ各区間に於ては常に調和と変化に留意して、発展性あるものたるべきなり」という一文を冠し、以下②去(さり)嫌(きらい)、③即吟、④出(で)勝(がち)、⑤新しみ、⑥歌仙を標準とする、⑦春・秋は三句、夏・冬は一句、⑧二花三月および恋の座の定め、⑨表六句、⑩脇句の留(とめ)字(じ)、⑪第三の留字、と全11箇条にわたって、俳諧初心者の心得を羅列している。が、これは実質的に連句入門の手引き書にひとしい。

 

この「昭和俳諧式目」は、戦時下に高濱虚子や柳田国男が「日本文学報国会」が定めた大綱に従って作られたものである。内容はなるほど伝統を継承しているが、国策による戦時協力体制の中で世に出たという事実は否定しがたい。なおその制定を報じた『ホトトギス』の記事も虚子でなく高浜年(とし)尾(お)(虚子の長男)名義で発表されたことも微妙なところだ。年尾が昭和21年(1946)に刊行した『俳句手引』は、この「式目」と同文である。高浜年尾のみならず、それ以後現在までの連句式目類はすべて基本的に「昭和俳諧式目」11箇条の内容を何らかのかたちで継承ないしは踏襲している。

たとえば昭和57年(1982)に創設された猫(ねこ)蓑会(みのかい)は、その式目を「1心得、2句数、3去嫌、4一巻の構成、5韻律、6仮名遣」の六箇条にまとめているが、これは明らかに「」を整理統合したものにほかならない。この結社を創設者した猫蓑庵東明(あずまあき)雅(まさ)でさえ「昭和俳諧式目」の成立に関しては、「私はこの式目を誰が作ったのか知らない」(「昭和枯尾花」)「と韜晦していることからも問題の隠微さがわかろう。

 

2  「俳友グループ」を「桃門連社中」と模様替えします。

 

先月15日に開いた「逝妻芳子を偲ぶ会」を生涯の一区切りとして、これから桃叟の最終計画の実行に取りかかりたいのですが、その計画の中には、桃叟がここ数年ずっと手がけてきて生活の一部分になっている連句の会のことがあります。

 

自然に「俳友グループ」が形成され、連衆6人――この数は歌仙36句の句順表を作りやすいのです――がほぼ固定していますが、つい最近、いつまでもこの自然発生的・成行き的な行き方には安住していられない事態が出来しました。内因と外因があります。まず内因としては、メンバーのうちからさまざまな理由――健康問題とか生計多忙とか――から、常設メンバーとして「出ずっぱり」でいるのはしんどいという声が聞かれたことです。外因としては、このたびわがグループを「日本連句協会」に加入し、「桃門連社中」の名前で登録したことです。他のグループとの交流・他流試合・切磋琢磨が始まるわけですから、皆さんににも《連句のグローバルスタンダード》を尊重してもらわなければなりません。いつまでも自己流・手前勝手主義とは行きません。

 

そこで次のような解決策を考えました:社中のメンバーをもっとふやす――10人前後を予定――。その全員が同時に連衆にはなれないから、運座のシステムを「出勝ち」方式に改める。「出勝ち」とは一座の者が順によらず付句のできた者から付けていくことをいいます。今までは六吟膝送りを基本とし、連衆全員の輪番制でしたが、一段階ギアを上げ、本来あるべき「出勝ち」――わがグループでも初めこころみたのだが、みんな譲り合ってうまくゆかなかった――に復帰することにします。箱根駅伝のシード校システムみたいなものです。

 

うまく行くかどうか分かりませんが、ダメだったら又やり直せばいいだけの話です。皆さん、どうお思いでしょうか?

「芳子を偲ぶ会」ご報告 付 「津の国歌枕」3首

2022/10/18に、時疫のため3年も延び延びになっていた「芳子を偲ぶ会」兼「追悼歌集『うつつの津の国』出版記念会」を開催しました。30人を越える参会者があり、盛況に終わりました。どうも有難うございました。

まず芳子の遺影に好きだった黄バラが献花され、兵庫県知事・芦屋市長・砂子屋書房社長からのメッセージが披露され、ハーヴァード・プリンストンでの友人コルカット暁子さんの手紙が紹介され、挨拶に立った人々は口々に故人生前の思い出を語り、泣き、なつかしんで頂きました。マリンバの演奏もあり、芳子の弟も加わって生前に好きだった曲を連弾(?)しました。

これでわが人生に一区切り付いた感じで、これからは、実際には何年か知らないが、与えられたアディショナルタイムとして無駄なく使ってゆこうと思います。勝ち試合になるとは限らないが、せめてワンゴールぐらいは挙げたいものです。何をするかは目下整理中ですが、追って目標を設定して掲げるつもりです。

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【津の国歌枕】3首――

〽老いぬれば人に淡路の鳴門潟渦巻く潮の底ひ知らずや

〽亡き人を松帆の浦の夕まぐれ面影探す渦潮の涯

〽津の国はトーテムの里来てみれば人待ちわぶるひとり子狐

 

 

 

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