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佚老喧鬧 付 春の旧友3首

長いことお休みしました。病院の検査で無事放免となりましたのでブログヲ再開します。どうもご心配を掛けました。拙老ふぜいに気を揉んで下さった方々に心からお礼を申し述べます。

健康を気にしている間に、懸案の『旅役者歩兵隊』刊行の件もうまくまとまっています。いずれきちんとご報告したいと思います。

まず今日は――コンニッタ、と読みます――これぎり。お披露目だけです。

いつも今の季節になると、例年の友人ハエトリグモ君が顔を出します。寿命は一年ということですから、代々律儀なことです。

春の旧友3首

〽春来ればわが物顔に座敷鷹日なた求めて姿現す

〽年ごとに同じ顔立ち親か子かハエトリグモは春の友だち

〽春ごとに古き命はよみがへり殊勝な顔で足摺り合わす

コメント2件

 里女 | 2024.02.13 18:28

検査結果は問題なしなんですね、良かったです!どうぞお身体ご自愛くださいますよう。
それから「山吹夢譚」すごくおもしろかったです(*^o^*) 祖母が庭に山吹と梔子を植えていたのを思い出しました。
あと虫といえば、昨年はカメムシが異常発生していましたよね。おかげで、わたくしカメムシ捕獲の達人になりましたです。
では先生の小説楽しみにしております!

 大藏八郞 | 2024.02.26 10:35

ご著書「慶喜のカリスマ」を拝読して

彰義隊の結成は、徳川慶喜公の去就と深く関わり、公の去就は幕末・明治維新の歴史に最重要のファクターでしたので、多くの史家や作家がテーマにしてきました。彰義隊の研究を深めると必然的に慶喜公の不可解な2つの逃避行動、①慶応3年12月12日の京都退去と、②慶応4年1月6日夜の大坂城脱出に突き当たります。評伝や小説は掃いて捨てるほどあり、このすべてを熟読したわけではありませんので知る限りですが、その中で本書は、群を抜いて、慶喜公の思想と行動を深く検証した本ですので注目しました。

1.「慶喜公がこれまで歴史からも歴史小説からも正当に扱われなかったことの陰に、王政復古官軍史観とコミンテルン・ドグマの2つの決定論史観が作用している。どちらも慶喜に封建反動のレッテルを貼って戯画風に単純化する」ことをご指摘になりました。こと幕末史に関しては、左翼史観の観念論と官軍史観の後付け論が一致するのは興味深い現象です。暗く遅れた江戸時代を明るい明治時代に進化させたのが明治維新だったとみなすわけです。この2つの決定論史観は彰義隊も慶喜公と同じように否定的に扱っています。

2.従来の慶喜本のなかで公の大坂からの東帰という奇怪な振る舞いをまともに論じるものは少ないのですが、本書では、この振舞いを「歴史的回頭」と呼んで、真の動機を探ります。「武将に不可欠の蛮勇、クソ度胸に欠けていた」と述べつつ、直ぐにあとに、「たった一回の戦術選択のミスだけを捉えて断罪したのでは慶喜に対してあまりにも酷」「臆病風が卒然と襟首を吹き抜けた、はあまりにも慶喜が可哀想ではないか」「筆者自身の、これまで慶喜に振ってきた歴史の鞭はもう疾うに折れている」とあるので、その理由を期待しながら巻末まで読みましたが、理由は最後まで記述されていません。最後に蕪村の句「牡丹切って気の衰えし夕べかな」に公の大政奉還の心境を忖度し、「贅沢な憂愁感」で終わっています。結局、新たな史実が発見されない限り、謎とせざるを得ず、謎としながらも「酷ではない見方」があるのではないかと結論付けて筆を擱くしかなかったのでしょうか。

3.野口先生は60年安保のとき全学連のリーダーだった経歴から察すると、松浦玲氏と同じく、①反権力の意地や志をお持ちのようです。加えて、②国文学界の俊才であり、文学のセンスを兼備されているので、その論述に並のノンフィクション物にない深みがあるように私には感じられます。さらに参照文献が気づくだけでも以下のように広範囲で、多岐にわたり随所に的確な個所を引用しているため信頼できる記述となっています。以上の3つが三拍子そろって初めて真実の歴史に迫ることができるのではないか。妙に説得力があるのはこのためと思われます。「続徳川実記」「村摂記(村山鎮)」「維新史」「史談会速記録」「岩倉公実記」「再夢紀事・丁卯日記(中根雪江)」「逸事史補(松平春嶽)」「西周伝(森鷗外)」「西家譜略」「大久保利通文書」「遠い崖(萩原延寿)」等々

4.慶応4年正月元日に公の名義で発した「討薩の表(付罪状5箇条)」を、河合重子氏は「謎とき徳川慶喜―なぜ大坂城を脱出したのか」で、「公は通行証ぐらいにしか思っていなかった」と昔夢会筆記に従った解釈をしていますが、これは無理な解釈です。責任ある関係者は陸軍奉行竹中重固に限らず軍令状と受け取るのが当然で、現に御先共の先頭に立った滝川具挙は後生大事に錦の袋に入れて持参しました。野口先生は昔夢会筆記に記された気鋭の学者・小林庄次郎と公との問答を紹介しました。小林の「この表を知っていたか?」の問いに、公は「見たが、うっちゃらかした」と答え、文責を否認したことに言及されています。

5.『徳川慶喜公伝』と『昔夢会筆記』を「キレイゴトすぎる模範答案じみた文面を額面通り信じることなどできない」「天下公認の定説に仕立てがっている」「勤王思想家慶喜という公共の自画像に自分を合わせている」ことをハッキリ指摘されたのも野口先生が初めてではありませんか。(さらに穿っていえば、勤王思想家という慶喜像を天下公認の定説に仕立てるため、忠臣の渋沢栄一が精魂を傾けたのがこの二書だったのでは)。但し、これは一部であって、例えば、『昔夢会筆記―慶喜談、第九』の「先帝(孝明天皇)の真の叡慮というのは、誠に恐れ入ったことだけれども、外国の事情や何か一向御承知ない。昔からあれ(外国人)は禽獣だとか何とかいうようなことが、ただお耳にはいっているから、どうもそういう者の入って来るのは厭だとおっしゃる」「長州は討幕で一貫していたが薩摩は裏切ったので憎い」など、勤王思想家と大きく矛盾しない発言はそのまま信用でき、その限りで有用な史料となっています。

6.慶喜公が大坂城から抜け出て、江戸お引き揚げのため、天保山沖で仮に寄った米艦イロコイから幕艦開陽に移乗した際に、周辺を英国軍艦が遊弋して威嚇していたこと、公がこれを重視し、艦長代理の沢太郎左衛門に開陽の演習を命じたことを本書が指摘しました。外の文献で、榎本海軍の宮古湾でのアボルダージュのときに西軍側の甲鉄に英国軍人が乗り組んでいたことも分かっています。

7.最後に本書から離れますが、司馬遼太郎の『最後の将軍』について。司馬氏は幕末史に関しては基本的に官軍史観ですから、①慶喜公が水戸人であるゆえに、朝敵になること、逆賊とされることを何より怖れた、②薩摩の挑発に乗って正面から薩長と戦えば内乱となり徳川が敗ける、と前提し、公もこう考えたので二条城から大坂に退避し、もし大坂から上洛して薩摩と決戦すれば軍事的に成功しても、大久保と西郷が敗北を種に政治的勝利へもってゆくから、公はかれらの謀略に乗せられぬために平身無抵抗の姿勢を続けた・・・と結論付けました。しかしこれほど奇妙な理屈はありません。渡辺京二が「司馬の与太話」と評したのはこの部分も含むのでしょう。司馬氏は、あくまでフィクションの世界ですが、大衆受けのする薩長史観を巧妙に取り入れています。電話詐欺と同じで、騙されるのが悪いのですが、世の中の歴史好きはNHK大河と氏の時代小説で安直に歴史を学びますので留意せざるを得ません。
ちょっと考えるだけで、この理屈が奇妙なことに気付きますが、薩長側からの理屈としては誠に正当です。長州はつい2年前(慶応2年)には朝敵でした。天皇の支持さえ得れば敵を朝敵にできることを公ほど知っている者はいません。実力で朝廷を抑えた途端に相手を朝敵にできるのです。錦の御旗にひれ伏したなどというのも子供だましです。武力で制圧するのに御旗もへったくれもありません。それを怖れ、ひれ伏したとすれば薩長に好都合なだけです。「大久保と西郷がたとえ軍事で敗北しても政治的勝利へもってゆく」というのもおかしな話で、政治的に勝つためにこの二人と岩倉が軍事行動の権謀術策をつくしました。司馬氏はまた、「慶喜は現世の策士どもに恭順するのではなく、後世の歴史に向かって恭順し・・賊名を遁れんことを願った」などと書き、河合重子氏から批判されています(「謎とき徳川慶喜」)。

8.なお『徳川慶喜のすべて』に収められた粕谷一希氏の「わが独断的慶喜観」は注目すべき論考です。可成り厳しく、「将兵を置き去りにして独り江戸城に逃げ帰るのは指導者としてあるまじき行為だった」「自分への追討令で恐怖に近い心理的パニックを起こしたのではないか」と書いています。つまり暗愚ではなかったが怯懦、虚弱であったと、一般の旧幕臣系の厳しい評価を代弁しています。
ただ東帰に関しては、1.「幕末史における最大の謎として疑問を留保する」か、2.「公の裏切り」と決めつけて片づけるか、3.「恭順を貫くため」とする3つの選択肢がありますが、3の後講釈は取るに足りません。これが公の釈明でもありますが、前後の事実を時系列に検証するなら明らかなウソです。人は「不明」のは満足できず、肯定、否定のどちらにせよ劇的な、面白おかしい結論を選びがちで、粕谷氏もそうでしたが、新しい情報や事実が発掘されないかぎり、野口先生のような疑問留保が正しい選択と思います。

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