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『旅役者歩兵隊』刊行のお願い。引き受けてくれる出版社はないか。

これまでなかったことですが、ぼくの3o8枚の中編『旅役者歩兵隊』がいまだに出版元を見つけられずにいます。もちろん、作者の技量が編集者諸氏に認められなかったまでのことであり、その結論に文句を言える筋合いではありませんが、作者にとってはたいへん心外です。本作の企画が通らないことの背景には、最近の出版界の動向が大いに関係しているように見受けられるからです。

数ヶ月前の『産経ニュース』にこんな記事を見かけました。このところ出版業業界では、収益構造の急激な変化が著しいというのです:「顕著な例が講談社だ。2月に発表した通期決算(令和元年12月~2年11月)は売上高が前期比6・7%増の約1450億円で、当期純利益は50・4%増の約109億円だった。電子書籍は19・4%増の約532億円で、これにアニメ化などの権利ビジネスを合わせた収入は約714億円となり、初めて「紙」の売り上げ(約635億円)を上回った。「収益構造の変化がより一層明確になった」(野間省伸社長)格好だ。」

電子書籍の売り上げが「紙の本」を上回ったというのは、平たくいえば活字で印刷した本が読まれなくなった事実を示しています。世の中で、アニメつまり漫画・劇画が好まれる現状を反映しています。文字を読みたどる「文字言語」よりも直接目に訴えてくる「イメージ」の方が優先されるようになったのです。活字の本が売れなくなったのも道理です。

このように「絵の助けを借りずに言葉のみで理解し,想像の世界を広げることのできる読書行為の段階にあるはずの大人が読む」(紅野謙介「新聞小説と挿絵のインターフェイス」)ような現象は、わが国の文芸史上つねに間歇的に起きている事柄であり、嘆いてみても仕方がない。こんな御時世に生まれ合わせた運命を受け入れて、「文字言語」の法灯を点してゆくしかありません。

ぼくの『旅役者歩兵隊』もかりに劇画のノヴェライズの方式だったら――そういう才能の持ち合わせはございませんが――別に販売部の方から故障が出ることはなかったかも知れません。この一篇は、時期的には、慶応4年(1869,9月に改元して明治元年)1月6日、鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜が大坂城を脱出してから、同年5月15日、江戸上野山の彰義隊追討戦までの6ヶ月余り(䦌4月があったので)の期間を扱っています。主人公の江戸町人熊五郎とその仲間たちは、幕末の混乱期に歩兵隊に応募するが、あえなく敗戦。生まれつきの芝居好きから文字通り芸に身を助けられて旅役者の一座に化け、行く先々で芝居を上演しながらなつかしの江戸へ帰還するのです。

一篇は全6章で構成され、各章に作中で上演される歌舞伎芝居が一幕ずつ割り当てられています。一座が公演した都市と狂言通称と場面、および各章の枚数は以下の通りです。

旅役者歩兵隊章構成

発端『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら五段目』山崎街道40

二幕目 「伊勢音頭恋寝刃いせおんどこいのねたば」 桑名50

三幕目 「盛綱陣屋もりつなじんや」  名古屋52

四幕目   「弥作の鎌腹やさくのかまばら」 下田54

五幕目  「躄の仇討いざりのあだう5」 横浜8

大詰 上野山炎上58

本作の「発端」と「大詰」には二つの記念碑的な戦闘を描きます。鳥羽伏見の戦いと江戸上野の彰義隊殲滅作戦。どちらも江戸時代の終焉を実現した歴史上画期的な内戦です。二つながら有名な出来事であり、歴史的名辞としては周知の事項ですが、それぞれの実相はよくわかっていません。特に、260年間も維持された徳川幕府の政治権力が見る見る解体した決定的な6ヶ月のうちに何が起きていたかは、いまだに解明しつくされていない歴史の謎なのです。

この歴史上稀に見る一時期、政局の当事者たち――とりわけ旧幕府勢力側――が遭遇した政治密度の質量がどんなであったかは想像が付きますが、これまでの幕末戦史・戦記は、政治決断者たる慶喜が権力を放棄したことを述べるのみで、なぜ・いかなる算段をもってその結論に達したかまでは追及しないままです。ブラックボックスに入れられているのです。

『旅役者歩兵隊』の世界では、もちろんその領域は視野に入って来ません。熊五郎一座は政治的中央から遠く隔たった東海道筋――それも周辺の海路――をたどって幕末混乱期の日本をつぶさに味わいながら道筋を急ぎます。早く戻らないと住みなれたお江戸がなくなってしまう。そんな危惧がいつも念頭を去らないほど日本の変わり方は迅速でした。

一座は行く先々で当時の民衆に愛好された演目を次々と舞台に載せる。いずれもたっぷり敗者・弱者・不具者たちに与える苛烈な嗜虐の味わいで幕末頽唐の時代色を染め上げていた。そして江戸に帰り着いた熊五郎 一行は、幕末劇の記念碑的な最終幕――上野戦争にちょうど間に合うのです。この重要な政治史の一齣は、悲壮な儀式性さえ帯びて、江戸時代の掉尾を劇場的に飾っています。

ざっと眺め渡してみたところ、江戸時代から日本近代への時代交替は、それ以前の転換期に比べると、いまだにすっきりとは様式化されきっていないように思われます。様式化というのはこういうことです。古い時代の面影がしだいに薄れ 、新しい時代の建て付けが目鼻立ちを整える新旧入れ替えの手順が、型通りには進められていない。それまで日本史上の権力交替・時代の変わり目が生じたと、人々が認知する、万人が納得するに当たっては、そこに暗黙の了解があるものなのですが、その辺がどうも怪しいのです。

史実の優勝劣敗は人間学的には逆転する。政治的な勝者が文学的・美学的に敗北する・及びその逆という「定式」が出来上がる。たとえば「王朝」の世界では、全盛の藤原氏は天神(菅原道真)の摂理の前に滅び、「源平」の世界では義経に同情が集まって「判官びいき」の心情が生まれ、「太平記」の『忠臣蔵』では同じ言葉が塩冶判官(浅野内匠頭)に宛てられ、熊五郎が演じた『近江源氏先陣館おうみげんじせんじんやかた』も舞台を「源平」の世界に借りてはいるが、じつは 豊臣氏滅亡時に敵味方に分かれた真田一門の苦衷をテーマにしているといった具合である。そうした既判例に照らすと、近代日本史の総合的・最終的勝者の姿はいまだに確立されていない。きちんと「総括」されていないのです。

しかし日本の国情は、明治維新以後の150年を経るうちになし崩しに「近代」を実現してきたどころか、「超近代」へ突出しようという時勢にあることを示しています。日本社会は常には「前近代」「近代」「超近代」が」共存し、かつ互いにせめぎあう特徴がありますが、これら三つの位相を同一事象のうちに透視する視角は、将来に投じられる視線の中ばかりでなく、過去の歴史――たとえ幕府歩兵隊とか彰義隊とか――を視野に置いても働いているべきでしょう。これらの事象はどれもまだ歴史的過去に埋もれきっていず、将来にも何らかの布石たり得るポテンシャルを蔵しているからです。

――――編集者の皆様にお願い。ぼくの『旅役者歩兵隊』の刊行をお引き受け下さい。あまりくだくだしくは申しません。ただ首尾よく日の目を見た暁には、本作は「失われた環」にならずになるだろう、と多少胸を張らせて頂きます.妄言多謝。

 

 

 

 

コメント1件

 匿名 | 2023.12.10 9:05

野口武彦先生

拙書『新彰義隊戦史』で触れましたが、近代に日本民族は2回、大規模な洗脳を受けました。明治新政府の薩長史観とGHQの東京裁判史観によってです。東大の南原繁も、彼を曲学阿世の徒と罵った吉田茂も敗戦利得者ですが、当然の事ながら彼らは改めて大東亜戦争の総括を望まず、試みようともしませんでした。現在でも総括を求めるのは敗戦によって日本が劣化したと考える保守系の人々のようです。

“近代日本史の総合的・最終的勝者の姿はいまだに確立されず、きちんと「総括」されていない”と主張される先生は恐らく明治維新の総括が終わっていないとお考えで、これに全く同感です。洗脳をありがたがる方々の気が知れません。しかし私の知る限り、有難がる向きが殆どで、日本は維新によって近代化に成功したと、明治維新を頭から当然の成り行きだったと、歴史作家も歴史学者も観念しているように思います。この6年、彰義隊を通じて明治維新を探求してきましたが、薩長官軍王政復古史観が社会常識になって定着していると感じます。薩長史観の弊害は東京裁判史観のそれに比べれば小さいとは言えますが、意図的な公権力によるプロパガンダには相違ありません。

“徳川幕府の政治権力が見る見る解体した決定的な6ヶ月のうちに何が起きていたか”は、もう過ぎ去って埋もれた過去として、検証する必要を認めない・・・というのが津田左右吉を除く歴史学者の共通認識ではないでしょうか。慶応4年前半の6カ月が“いまだに解明しつくされていない歴史の謎”であり、“慶喜が権力を放棄したことを述べるのみで、なぜ・いかなる算段をもってその結論に達したかまでは追及しえず、ブラックボックスに入れたまま”なのは恐るべき怠慢と思います。

“史実の優勝劣敗は人間学的には逆転する。政治的な勝者が文学的・美学的に敗北する・及びその逆という定式”は、勝手な解釈をすれば、維新で政治的な敗者の旧幕臣(福沢、福地、栗本、中村、依田、木村芥舟、松廼家露八ら)が文学的・美学的・文化的には勝者であり、維新の元勲らは敗者だったという意味に受け取りました。

「勝てば官軍」は明治維新から云われ始めた諺で、不正も勝利によって正義となる意味です。蘇我を藤原が、藤原(摂関)を平家が、平家を源氏が、源氏を北条が、豊臣を徳川が、徳川を薩長が打倒した時、それぞれ自己正当化の歴史が作られ現在の日本史となりました。その歴史は、滅亡した側の史料が隠滅され覆すのが困難でしたが、徳川を薩長が打倒した時は、打倒された側の一次史料が、いま筆者の手元にある彰義隊の手紙を含め豊富に残され、薩長による官軍史観の歪みを正すことが容易で、先生のこの作品『旅役者歩兵隊』もその延長線上にあるのではと愚考します。そうであれば公刊されれば新鮮な驚きを以て迎え入れられるのではないでしょうか。知人の編集者に吹聴しました。

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