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忘れ草

ワスレグサ

ワスレグサ  『植物園にようこそ』より

忘れ貝に次いでよく知られる「恋忘れ」の呪物であり、歌によく詠まれる素材になっているのは忘れ草である。これは忘れ貝以上に具体的にどんな事物を指すかがはっきりしている。『万葉集』には「萱草」という漢字表記も見られる。ユリ科のヤブカンゾウの異名である。いつも目に付いた野の花だったのだろう。一日花であることが関係しているかもしれない。

忘れ草わが下紐(したひも)に付けたれど醜(しこ)の醜草言にしありけり(万葉集4-587)

「ワスレグサを下着の紐に付けたけれど、きみのことが忘れられない。バカな草だよ、忘れるなんてデタラメだよ。」

平安時代の『古今集』でも、初期の「読み人知らず」の時期には人々はまだ真剣に忘れ草の呪力で恋の苦しみを忘れようとしていたと見てよさそうだ。『古今集』はふつう①「読み人知らずの時代」②「六歌仙時代」③「撰者時代」の三期に区分されるが、このうち①は『万葉集』の末期から嘉祥(かしょう)3年(850)頃までの歌風の過渡期である。次の一首などはそういう古風さを感じさせる、

忘れ草たね取らましを逢ふことのいとかく難きことと知りせば(古今恋5-765,読人不知)

「ワスレグサの種子を取っておいて蒔けばよかった。あなたとまた逢うのがこんなに難しいと知っていたなら」という詠みぶりには、この植物の効能についてのまだ純朴な信仰の名残が残っている。しかし②の「六歌仙時代」(だいたい仁寿元年851~寛平2年890)になると、早くもちょっと感じが違ってくる。

忘れ草何をかたねと思ひしはつれなき人の心なりけり(同恋5―802、素性法師)

「ワスレグサの種子はいったい何だろうと思っていたが、やっと分かりましたよ。あなたのようなツメタイ人の心だったんですね」――素性法師は六歌仙ではないが、三十六歌仙の一人である。この歌も有名な寛平歌合(かんぴょううたあわせ)の時、入選して屏風に書かれた題詠の一首だ。技巧的に詠まれた歌であり、「つれなき人」は実在の女性ではない。作者の心の中に住む冷淡な情人である。忘れ草も現実の植物ではなく、むしろ言葉の綾の織物だろう。

このように、「忘れ草」がだんだん実物のワスレグサを詠むことから、たんに「忘草」という言葉としてだけ詠み込むことへの歌風の変化は、③の「撰者時代」になるといよいよ顕著になる。撰者時代は、寛平3年891)から延喜5年(905)、『古今集』撰進の頃まで。いわゆる国風文化の確立期である。

住吉と蜑(あま)は告ぐとも長居すな人忘草生(お)ふといふなり(古今恋5-917、壬生忠岑 みぶのただみね)

「早く帰って来ておくれよ。土地の人がいくらここ長居の浜は住みやすい所だといっても、そこは人を忘れさせる草が生えるそうだから」――この歌には「住吉参詣に出かけた恋人に送る」という詞書が付いている。ここでもまた「忘れ草」は住吉という土地の景物(たくさん自生したのだろう)だというが、作者は伝承を語るのみで実物を見ていない。それにしても住吉が「忘れ貝」「忘れ草」の双方に縁が深いのは興味深い。

平安和歌はその後300年の歳月を経ていろいろ発展を遂げるのであるが、その間ずっといくつもの勅撰集、私家集の標準であり、対抗すべき目標であり続けたのは『古今集』であった。和歌の流れはやがて平安から鎌倉への時代の変わり目に『新古今集』が編纂されて大きな転機を迎える。同集に詠まれた「忘草」の歌はすぐ後で見ることにして、まず八代集の5番目に位置する『金葉集』の一首を取り上げよう。

忘れ草しげれる宿を来て見れば思ひのきより生ふるなりけり(金葉恋下468、源俊頼 みなもとのとしより)

単純には口語訳しにくい歌である。「恋の歌をよみける所にてよめる(かつて恋の歌を詠んだ場所でこの歌を詠む)」という詞書がある。二重の仕掛けになっているのである。ここは。自分が昔、恋の歌を詠んだ場所だ。今来て見ればワスレグサがいっぱい生えている。「宿来て見れば」――「宿来て見れば」ではない――は、「宿」が「来」ではなく、「見る」の直接目的語であることを示す。戻って来て昔の場所をみれば。なのである。生い茂っているワスレグサはなんと自分が相手から身を引いた所から生えているのであった。「思ひ退く」という複合動詞を想定する、その連用形「おもひのき」の「のき(軒)」と懸詞になっている。しかしワスレグサが萱草つまりヤブカンゾウだとすると、果たして忍草(忘草の異名)のように軒端から生えるものだろうか。いずれにしても、「忘草」は実象(じっしょう)としてより心象として詠まれているといえよう。

折口信夫は ,「前代文学を融合」した歌人の一人として俊頼をかなり評価していたらしい。「既に固定した文学用語・枕ごと以外に、古典的な清純な感情を起す体言・用語・助辞なども、現代通用の粗雑な整頓せられない都鄙の口語文法などから」(「女房文学から隠者文学へ」)もどんどん取り上げて歌に用いたと言っている。その私家集に『散木奇歌集(さんぼくきかしゅう)』があるくらいで、自作を奇歌と見なされるのも厭わなかった。――さて、いよいよ『新古今集』の場合を見る番である。

住吉の恋忘草たね絶えてなき世に遭へるわれぞ悲しき(新古今恋5-1419,藤原元真 ふじわらのもとざね)

この歌には本歌がある。『古今集』の「道知らば摘みにも行かん住江の岸に生ふてふ恋忘草」(1111)。この紀貫之の歌では、「忘草」は伝聞ではあるが、少なくとも実物の草を意味している。ところが『新古今集』の方ではどうか。もう絶滅していて一本もないのである。「忘草」さえ生えない時代に生まれ合わせた自分は、もうつらい恋を忘れることもできないのが悲しい、というのだ。

歌に詠まれる「忘草」は、目に見える対象ではなく、ただ心象の中にしかない。イメージだけの存在である。このとき成立しているのは、言葉があれこれの事物をではなく、言葉それ自体を対象化するという非常に高度の言語技法なのである。わが愛する新古今調の名歌についてはいずれまた。

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