連句は楽しくやらなきゃ嘘です。楽しくない人を無理にはお誘いしません。楽しみには色々ありましょうし、人によってさまざまでしょうが、一番楽しいのは自分の才覚で〈前句〉の鼻を明かすことでしょう。
連衆の句は必ず必ず誰かの〈前句〉に付ける〈後句〉であるわけで、その際〈後句〉の句主はかなりのフリーハンドを与えられます。たとえて言えば〈後句〉は〈前句〉を素材にして料理を作るようなものです。もちろん色々な工夫はされねばなりません。〈後句〉は〈前句〉の繰り返しを避けて、これを別世界に切り換えることが大切です。此れが「転じ」と呼ばれるものです。
さて今、初ウ6の場合はどうでしょうか。投句は4つありました。
1 娘横向き無言の化粧 湖愚
2 一人の時はマーラーを聴く 三山
3 不況のまちに鴉のおほき 碧村
4 麒麟の兒らに刻まれし印 里女
皆さんそれぞれによく「転じ」で下さいました。ただ転じ方に若干の精粗差が感じられます。今回の選考では、出来の良し悪しでなく、「付け筋」の適否が問題なのです。前句の「看板は年増マダムの十八番おはこネタ」で、この句からは《年増マダムがいつも閉店時間になるとオハコの芸をして見せる》とでもいった情景が目に浮かびます。この年増マダムの影が4投句それぞれの「付け筋」になっていると見受けられます。
まず2はあまりイメージが合いませんね。このマダムは、演歌ならともかく、マーラーを聴くとは思えません。3もちょっと視野がマクロすぎる。目に入るのはいいとこ「不景気」ぐらではないか。
1と4が残ります。ここでどんな句境でもそれなりに保持されていなければならないリアルさということを考えます。たとえ絵空事でもリアルで或る必要があります。古池の蛙はリアルに水に飛び込むし、大原の月夜にはほんとうに蝶が出て舞うのです。また、事実そのままも「ありのまま主義」というやつで、リアルということとはどこか違う。1は何だか家庭の実景の一齣のような気がします。きっと前句の年増マダムの所は母子家庭なんでしょう。
最後は4です。これは曖昧模糊あいまいもことしたよくワカラナイ句です。句主にも「麒麟」とはビールの広告に使われている霊獣のことか、動物園に入るジラフのことか判然としていないのだと思います。おそらくは[キリン]という音声表象が句主の頭の中で何かの観念と結び付き、何とも名状しがたい聴覚的実体に化してしまっているのではないか。句作の面では、この年増マダムが麒麟児を想像妊娠したというふうにでも解釈するこが可能でしょう。こうした荒唐無稽な感覚の方にむしろリアルさを感じます。
以上のような理由から初ウ6の選考は、里女子の「麒麟の兒らに刻まれし印」に決定します。次は初ウ7の長句で、季は「夏」、「月」の座です。皆さん、どうか御投句下さい。 畢
湖愚 | 2020.02.05 20:03
初ウ7、投句します。
しばりが二つもあるとキツイです。蛮勇の思いで。
「教会の塔の思いや月涼し」