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江戸町奉行と東京都知事

江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜は、明治の世になってからもずいぶん長生きしました。死去したのが大正元年(1912)ですから、32歳で政権を失ってから、たっぷり明治の45年間を生き抜いたことになります。明治政府は初めのうちこそ、安倍さんが石破さんを見るように警戒していましたが――たとえば西南戦争(明治10年)の頃まで――だんだん衛生無害と判断して、今度は逆にしかるべき処遇を与えなければならないと心配し始めました。

いつ頃のことだったのか、慶喜を東京市長にまつり上げてはどうかという話があったそうです。東京は明治22年(1889)年から昭和18年(1943)まで市制を取っていましたから、これは当時としての東京の首長になってもらうことを意味します。その時慶喜がしたと伝えられる返事がふるっています。「東京市長と申せば、町奉行のようなものではないか」といって、まるで取り合わなかったそうです。たしかに、天下の将軍だった人物に江戸町奉行なみの役職をあてがうなんて失礼きわまる話です。

では、江戸町奉行というのはいったいどういう官職だったのでしょうか。その職掌は、江戸に居住する町人の生活を、行政・立法・司法・治安警察・消防・災害救助など万般にわたって支配するというきわめて広範囲なものです。映画やテレビドラマでは、奉行所というと、白洲の吟味とか、八町堀の与力・同心に率いられた捕手たちとかあくどく庶民を苦しめる岡っ引きとかのシーンばかりが目に浮かびますが、あれはわずかに奉行所の司法機能ばかりが取り上げられているだけで、奉行所が持っている職務権限はもっと広いのです。犯罪者を取り締まるだけでなく、その法的根拠である法度(はっと)や禁令を公布するのも米価や諸色の値段を定めるのも奉行所の役目でした。立法権もあったのです。

風紀取締りはもとより、悪名高い文芸・思想統制など文教政策も奉行所の行政権に属します。それらいわば平時における職分の他に、幕末期には開国に伴って外国掛・開港掛などが新設され、幕府瓦解まで多事多難をきわめました。そして慶応4年(1868、9月に改元して明治元年)3月、江戸は無血開城され、5月15日に上野彰義隊の抵抗が鎮圧された後の19日、東海道鎮撫総督府から一片の通達が送られてきました。このたび旧幕府の町奉行所を廃止し、新たに江戸鎮台府を設置する、ついては南北両奉行所の建物施設及び諸記録一切を鎮台府に引き渡せという命令です。

引き渡しの任に当たったのは、南町奉行の佐久間信義でした。信義はそれまで平の与力でしたから、務整理のために奉行にされたようなものです。北町奉行には石川利政という人物がいたのですが、このどさくさに歴史の表面から姿が 消えてしまいました。公式には病死と発表されましたが、真相は自殺と見られているそうです。当時他に人材がないので佐久間が至急引っ張り出されたらしいのです。

東京都知事が江戸町奉行の後身だとは申しません。むしろ、その前身は江戸鎮台府――間もなく東京(とうけい)鎮台府と改称――にあると見るべきでしょう。東京の首長には、つねに占領地を統治する緊張感が潜在的につきまといます。敵地に乗り込んでこれをうまく支配する政治力が要求されるわけです。地方自治法とやらが制度化された後の東京都知事はまた別なのでしょうが、それにしても東京が江戸の治政を受け継いだことの原始記憶はまだ持ち伝えられていると思います。

それが証拠には、このところ、東京都知事のポストをただ名聞欲・金銭欲・権力欲のために利用しようとなさった方々――あえて固有名詞は出しませんが――は皆さんしくじっておいでです。歴代江戸町奉行は最後の佐久閒信義まで全部で114人を数えますが、その中で人々の記憶に残っているのが大岡越前守忠相(ただすけ)と遠山左衛門尉(さえもんのじょう)景元(かげもと)――有名な「遠山の金さん」です――ぐらいのものであることと無関係ではないでしょう。人気のある町奉行はすべて民情をよく解し、民政に力を注いだ人物ばかりです。

今回都知事になられた女性政治家の手腕は未知数ですが、このポストについて回る歴史定数のごときジンクスとして忘れないことが大切でしょう。公約やらスローガンやらは、付け焼き刃だったらすぐ剥がれます。最近は「東京都民」などとだいぶふやけましたが、まだ健在なはずである生き残りの江戸っ子は目だけは高いのです。(了)

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