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桃叟書窟:山内昌之『将軍の世紀』

山内昌之『将軍の世紀』上下(文藝春秋)

山内氏は、この歴史書のタイトルを大佛次郎の『天皇の世紀』に触発されたと書いている。そうかもしれない。しかし桃叟の見る所では、本書は「将軍」「天皇」など日本史の境界・範囲の問題を越え出た広大な領域に焦点を結ぼうとしている。執筆の発端には、たとえばギボンの『ローマ帝國衰亡史』の塁を摩そうとする壮図が秘められているに違いない。いうなれば本書は首尾一徹した『徳川王朝興亡史』を構想しているのである。

氏にはつとに、浩瀚な『中東国際関係史研究』の著がある。だから氏の着眼が世界史的だとか国際的視野を持つとかいうのではない。歴史の深奥には、いかに尨大な「史実」の積み重ね、いかに緻密な相互照合、厳正な文献批判がなされようとも復元しきれない不可知の部分がある。いわば「歴史それ自体」の層理である。歴史の視界の涯は、何か根源的な「謎」を蔵したとてつもない暗黒に面しているわけで、氏はしばしばそこに佇む戦慄を「歴史への畏れ」と表現している。

こうした「歴史への畏れ」を味到するにはどうしたらよいか。一国,一地域、一時代の個別的な歴史事象の枠にとらわれず、いきなり歴史原像へ参入する方途もある。裸で歴史そのものに肉薄するのである。若き日の氏はそうすることにいささか急であった。そのせいで昔は、「狙いは野心的だとしても、看板倒れの観を否めず、外面的に華やかな美辞麗句の羅列は、無内容さを押し隠すもののように見えてならなかった」(『納得しなかった男』書評)などと書かれもした。だが氏はそんな段階はもう卒業している。

『将軍の世紀』の構成は、初代家康から15代慶喜まで各代将軍の編年体の様式を取るが、各章の比重はかなり不均等であり、必ずしも各将軍の治世の長短、行事こうじの多寡を反映しない。むしろそれぞれの治世下に生じたもろもろの摩擦点・問題点の総量に比例する。いきおい、時代の経過につれて増加する社会的エントロピー、「興亡史」を「亡」の視点から眺める構図がしつらえられる。『将軍の世紀』も下巻(第八「家慶いえよし」以下)になると、分量が俄然多くなり、叙述がひとしお生彩を放つゆえんである。

幕末の為政者たちは、まさか徳川幕府が倒壊するなどとは夢にも思っていなかった。ところが実際には、未来永劫続くと信じられていた徳川政権が実にあっけなく終焉を迎えてしまったのだ。「不思議の負け」が起きたのである。品川まで官軍が迫って来ているのに江戸っ子は幕府の瓦解を信じなかった。今が「幕末」だとは誰も思ってもいなかったのだ。 歴史の現場で人々が直面し、せめぎあうのは、その都度当事者の死活にかかわる特定の・具体的な・解決を要する問題葛藤だから、対立はいやでも政治的な色彩を帯びる。常に緊張を孕み、いつでも円満な話合いで片付くとは限らない。最後は軍事的な手段をもって決着を付ける外はない。内戦である。やがて幕末の維新変動期には、まさにその通りのことが起きるであろう。

政治の究極には権力闘争があり、権力闘争の核心は人事抗争である。この領域ほど、人間行動に非合理な判断が雑じり込むものはない。心情とか情念とか、俗に「理窟じゃ割り切れない」といわれるような傍からは理解不能な心理がひとを動かすことになる。一つの人事抗争はその周辺に複雑な人間関係の連鎖を作り出し、それがまた縦横に輻湊ふくそうして濃密な人間模様を織りなす。たとえば誰を将軍にするかの人事抗争は、徳川国家の大綱を決する権力闘争の中でも最高位にランクされるはずだが、幕末政争で実際に目立つのは、わが子慶喜を将軍にしたい一心に凝り固まった水戸斉昭なりあきの盲愛、歴史の一頁を飾る親バカぶりばか,という具合である。

山内氏はこうした幕末期固有の人事問題を読みほぐし、人間関係を解読する。いやむしろ人間模様を解像する。時には信じられないほど意外な組み合わせ――ex.突然の薩長同盟――の出現も、「なぜそうなるか」の根を政治情勢ばかりでなく人間関係の葛藤の中にも探って解明する。そうした作業を進めるに当たって、氏はこれまでただの随筆として、必ずしも「史料」扱いされて来なかった民間筆録・日記・聞書等の文献をもレパートリーに加え、史料の幅を広げている。おそらく特別な嗅覚が備わっていて、もたらされた歴史情報の真贋を嗅ぎ分けるのだ。

複数の史料の同時繙読・相互参照はたんに文献批判の精度を高めるだけでなく、行間に非・明示的な「史実」を浮かび出させる。「歴史への畏れ」が望見する極限には人智では永久に到達不能な「歴史それ自体」が鎮座し、その周囲にはいわば同心円状にいろいろな光度の星雲が連なっているが、それらの中でさしずめ暗黒星雲にあたるものは、歴史の暗がりにひそむいくつもの「謎」だろう。たとえば大政奉還の実現に力のあった薩摩藩の小松帯刀こまつたてわきが役目を終えたあと、突然幕末史から消え失せるのは何故か、等々。

――――『将軍の世紀』は以上のように「歴史への畏れ」に貫かれた野心作であり、桃叟はもちろん賞賛するが、一つだけ不可解な点がある。本書は関ヶ原に始まるが終わりは鳥羽伏見ではない。つまり「大政奉還』で筆が投じられ、「王政復古」まで叙述するには至っていないのである。なぜなのだろう。その点だけが疑問を残し、また惜しまれてならない。   畢

 

 

 

 

 

 

コメント2件

 堀江珠喜 | 2023.04.30 22:03

野口先生、ご無沙汰しております。3年前、定年退官し、今は、大阪府立大学名誉教授です。大阪府立大学は、昨年、大阪公立大学、俗名がハム大になっちゃいましたけど。
一昨日、断捨離中、44年前に博士課程で先生の演習で使った三島由紀夫関係のノートが出てきて、本日、ブログの存在を、某氏から教えられました。
先生、猫好きでいらしたのに、ブログには狐さんだらけ。いつから宗旨替えされました?ご自愛くださいませ。珠喜

 ugk66960 | 2023.05.01 16:16

びっくりしました。お元気だったんですね。老生なぜだか貴姐はてっきりもうこの世にいないお人だと思い込んでいたのです。とんでもない思い違いでした。ごめんなさいね。これも最近、人の生死があまり気にならなくなったせいかもしれません。

 〽よどみなくうたたただよふ堀水に玉藻の芽苅る昔ありけり

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