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史論・史観・史眼――桃叟書窟:山内昌之『将軍の世紀』追評  付 蝉声3首

史論・史観・史眼

人間は誰でも各人各様の「歴史とは何か」を持っている。それぞれの歴史像にはもちろん個人差はあろうが、一つの時代社会は、よし画一的でなくてもだいたい統一された支配的枠組みで歴史を理解し、受容してきたといえる。近代日本の歴史思想は、概言すれば、明治以来の皇国史観が昭和のマルクス主義史観に押し退けられてゆく過程を大枠として進行した。対立軸をなしていたのは、わが国の歴史を縦貫する原理の源泉は何か――君主か平民か、という課問だ。近代日本の主要な歴史著述は、徳富蘇峯の『近世日本国民史』にしても、大佛次郎の『天皇の世紀』にしても、いずれもこの択一の近傍にあった。

現今のいわばポスト昭和期は、あれこれの歴史原理のどれかを選択するのでなく、そもそも「原理」というものをまるごと拒絶するのが特色である。いっそ「没・歴史原理」の時代と呼びたくなるような季節が到来している。極端にいえば「ゼロ史観」の時代なのである。謡曲『卒都婆小町そとばこまち』にある前仏は既に去り、後仏は未だ現れない「夢の中間ゆめのちゅうげん」という詞章がぴったりの状態だ。

およそ歴史というものに関心を持っている人々の間では、前世紀末葉の1990年代から一種のIT革命が展開した。世界的な冷戦構造の終焉と勢力の遠心化・分散化という大情況の進行とコンピューターの普及が相俟って、歴史学の「グランドセオリー」を退場させると共に、①大量な記録のデジタル化、②史料アクセスの簡単化、③史料の相互参照、④情報処理のスピードアップなどの諸作業が身近になったのだ。その結果、これまで歴史の《空白域》だった領域・部分が続々と埋められている。従来支配的だったイデオロギーや原理決定論の歴史への持ち込みが排除され、代わりに精密な実証研究が重んじられるようになり、歴史の見直しが行われた。原理的な思考は観念的な思い込みとして斥けられ、「史実」の掘り起こしが盛んになり、通俗的な歴史小説の世界でも「リアルな」という形容句が流行しているくらいだ。

だいたい以上が、『将軍の世紀』を山内昌之氏に構想させるに至った歴史思想の季節の概況なのではないか。根底に広がるのは、索漠たる歴史意識の《無主状態》である。いかなる歴史原理も《大文字の物語》として否認され――だから進歩史観も頽落史観もない――、そこにはただノッペラボウな時間の経過と小文字で記される事象の継起があるだけだ。――こんな精神風景に耐え抜くには、歴史家はよほどタフであるか、それともまったく新しく人心を賦活する歴史のヴィジョンを切り拓くかしなければならない。山内氏が果敢に引き受けたのは、こうした疲れ仕事であったと思われる。

慶長8年(1603)に樹立され、慶応3年(1867)に「大政奉還」の結果解体する徳川幕府は、徳川将軍を頂点とする国家支配を前後3世紀にわたって持続した長期政権であった。著者は、これを三つの世紀が一つの「束になった世紀」ととらえ、《将軍の世紀》と命名する。もともと「将軍」とは臨時に朝廷から任命され、戦地に派遣される武官職の名にすぎなかったが、徳川家康の就任以来、武士政権の主催者・軍事力の総覧者・事実上の国家元首などの地位を獲得するに至ったのだ。過去に面しては戦国時代の無政府状態を治めただけでなく将来に向いては 「グローバルな生存競争を生き抜く近代の基礎体力を準備した」という双方向性を具えていた。

しかしこの世界史にも稀な長期安定政権、いわゆるパクス・トクガワーナの世といえども、決して永久国家ではあり得ない。すべての有機組織が不可避的に蒙る「エントロピー増大の法則」――「物事は自然に乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的には元に戻らない」という理法にしたがって衰退への回路をたどる。しかもこの場合、徳川国家に長期的な安寧と繁栄を保障するとして奨励された治策そのもの――たとえば商品生産の増大・貨幣流通の広域化etc.――が反対物に転化したことに起因する。家康の江戸開府はいわば天下の「大政」を受託したのだったが、その260年後、慶喜はそれを「奉還」して江戸国家に終焉をもたらしたのである。

初代家康から15代慶喜まで全63巻、上巻735頁・下巻760頁というこの大著を逐章的になぞることはできないので、以下ではトピックを各代将軍の諸事蹟中、徳川国家の《権力――維持――衰亡》という大筋のプロットに当て嵌まる問題点に限定して眺めてゆくことにしよう。

本書の特色として目立つのは、著者の史料博捜ぶり、広範囲にわたる文献への目配りである。第一に『オランダ商館日記』『風説書』など豊富な外国関係文書の活用。これら「外」からの目の導入は、ともすれば閉鎖的に自足しがちな国内の判断を相対化する思いがけない視角をもたらすことはいうまでもない。第二に、政治的要人たちの公生活の記録のみならず、側らで書き残された日常の記録・メモランダム、時にはゴシップめいた私事・小事・秘事のたぐいのあくなき繙読。たとえば『遠近橋をちこちばし』は、水戸藩の徳川斉昭が藩主になるまでの激しい政争の記録であるが、中に混じっている斉昭の乱淫ぶりや男色趣味を窺わせる記載も目敏くキャッチされ、大状況・小状況が一つに落ちかぶさる歴史の機微を浮かび出させる。そしてもう一つ、ちょっと見では遠く離れていて、いかにも無関係であると思われそうな大名家記・権臣の政務記録・手控え雑記その他の援用がたくみである。それらはいささか乱雑に列記すれば、『肥後藩国事史料』・『南紀徳川史なんきとくせんし』・『京都守始末始末』(旧会津藩老臣の手記)・『中山忠能履歴資料』(公卿日記)・『休明光記きゅうめいこうき』(松前奉行の記録)などと枚挙に暇がない。これらの個々の記述を読み合わせると、そこにはいわば補助線が引かれて、人物や出来事の関係が新たな遠近法のうちに現れ出る。事件や事象間相互の距離、内部のからくり、物事の噛み合い方など、これまで朧ろにしか見えなかった幕末日本の全体構図がくっきり見えて来るのである。

こうした広範囲にわたる博引旁証、慎重な文献批判、相互照合の結果、幕末日本の進路を左右した諸事件はいくつも異なる角度から照らし出され、以前には隠されていた相貌を晒すことになる。人物と事件とを結んでいた思いがけぬリンクが突然見えて来て、歴史がなぜあの時ああ急速に旋回したのか、「不思議の勝ち」あるいは「不思議の負け」といった番狂わせがなぜ生じたのか、が問い直される。こうした問いかけの事例は特にもろもろの情勢(=conditions 諸条件)が束状に寄り重なる「第十一章 家茂」から目立って多くなる。まだ十分探索され切っていない歴史の薄暗がりに潜む未解決の謎の結節点がいくつもあるのだが、それらは氏にあっては、そこから内部に分け入って複雑に絡んだ糸目を解きほぐすべき綻び口なのである。

それらのうちから特に、寺田屋事件と生麦事件の二つが注目される。そのどちらもが幕末の時勢を急展開させながらなお真相不明の部分が多いというばかりでなく、この二つの出来事には隠微な因果関係が想定されており、両者相つながって歴史を動かしたと目されるからである。このような動態の背景には、著者の卓抜な人物眼がある。山内氏は、町田昭広氏の『島津久光=幕末政治の焦点』など近年の研究動向を視野に収めつつ、これまで実像をよく知られず評価も低かった島津久光の周辺を発掘して動きを立体化するのである。

といっても、久光の隠れた野望――極論すれば、徳川幕府に替わる島津幕府の樹立というような権力意志――が幕末情勢に底流する動力源であったとする単線的な史論はこの著者の取る所ではない。今ここにあるのは、一つの権力意志が他者と衝突し、せめぎ合うダイナミックな「場」であり、その意欲は他者との摩擦のうちに少なからず妥協変形せざるを得ない現実である。久光とその股肱たち――寺田屋事件・生麦事件に共通する当事者――が、みな開国と攘夷の両極の間に揺れるのはそのためだ。著者の史眼が光るのは、これら外見では矛盾撞着でしかない屈折した心情の奥で蠢いている関係者の真情を複眼的に見通していることであろう。そして氏は、この両事件を合わせ鏡のようなレンズにして久光という人物の真姿に迫ったのと同じ方法を用いて、身分や立場こそ違え、同一の「場」に轡を並べていた何人かの有為の人物に論じ亘ろうとしていたかに見受けられる。名前だけ列挙しておけば、大久保一蔵、原市之進、小松帯刀。

人間の歴史の大きな節目をなす政治闘争は、最後には権力闘争に圧縮され、権力闘争はけっきょく人事抗争に帰着し、究極は個々人の人間性がナマでぶつかり合う。著者が好んで口にする「歴史への畏れ」とは、時として歴史の表面に発露する超人間的な意志・真情・決断などから発するオーラに対して発される畏怖の念だろう。「歴史の謎」といわれてきたものは、必ずしも歴史叙述につきまとう必要悪的な事実の朧化――史実の誤解・曲解・歪曲、史家の意図的な異論・中傷・誹謗・非難(いわゆる「ヘロドトスの悪意」など)、善意による隠蔽・掩護・黙諾――のことばかりではない。およそ人が歴史を前にしたとき、どうしても認めざるを得ない自生的な暗黒点との遭遇である。記念碑的な歴史事象といえども常に予期したように起こるとは限らない。おおむねは人知を越えた、想定外の、夢にも思わなかった結末が訪れるのだ。決定要因はよそからやってくる。当事者の急死とか体調悪化とかまったくの不運・災難とか。人々が苦しまぎれに「歴史の偶然」なるカテゴリーに押し込んで満足するような種類の出来事群が厳存しているのは確かであり、それを前にしては人間はただ戦おののくしかないのだ。

今から45年ほど昔に『江戸の歴史家』を書いた時、評者わたしは、その冒頭を中島敦の小説に紹介されているアッシリアの一歴史学者の言葉を引用することから始めたのを覚えている。――「歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのだろうか。」たしかに歴史とは「過去の人間的事実の記述」である。だがその場合、「歴史」とは、事実の堆積をいうのか、それを記述することをいうのか。この曖昧な二義性は「史」の字義に終始付いて回っているようだ。一面から見れば、その曖昧さは語義の幅の広さでもあり、「史論」「史観」「史談」「史録」「史眼」など、意味は異なるが連続的で、境界もしかとは引きにくい幾多の熟語群が生まれたのもそのためだ。歴史学は《科学か文学か》という古くて新しい論争も、「歴史」の語義幅が広いことから発している。著者がそうである歴史家は、度合の違いこそあれ、いつもこの両極の間に引き裂かれる宿命の星の下にある種属である。せいぜい「史譚」ぐらいにしか興味をもたぬ評者のごときはもちろん論外である。 畢

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蝉声3首

〽梅雨明けて夏空けざく広がりて耳朶にとよもす蝉の諸声

〽これでもか注ぐ日ざしにじりじりと身を焦がしをる油蝉かな

〽やがて来る焦熱の日をあらかじめ世に知らせんと蝉のもろごえ

 

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