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「相馬の金さん」礼賛――大蔵八郎氏との交信

⑴2026年4月日、大蔵八郎氏への私信(『彰義隊士の手紙』)の採録:

しばらくご無沙汰してしまいました。実は拙老このところ体調不順の気味あいで、やむなく病院の門を叩いたところ、年齢相応に座骨神経痛が出ていると言われました。やたら薬をのまされて閉口しています。何しろ眠くて叶わない。これまでなかったことですが、最近パソコンに向かいながら眠り込んでしまったらしい。情けないことです。

また此度は御貴著の御贈呈にあずかり、いつもながらのご熱意に感服すると共に大いに羨望の念を禁じ得ません。貴兄がお持ちの歴史への関心あるいは執心のご根底には、いわば徳川王党派固有の歴史弁償の意欲が感じられますが、それ以上に拙老が感じ入るのは貴兄が彰義隊の史実の顕彰をとば口として――単に僞史の混入・竄入の摘発にとどまらぬ「歴史の正丁」とでも言うべき界域ににじり寄ろうかとしているように見えるからです。

だいたい拙老は文芸評論バタケの人間です。それが柄にもなく、いや憶面もなくというべきか、歴史事象の方面に口を挟みたくなるのには、よくせき史学と文学の間に未知のまま取り残されている広大な空白が意識されているからかも知れません。幸いにも次の拙著の公告が許される秋口までの間、少し余裕があるようです。この貴兄とのやりとりをわがブログに転載するのをご許可願えるでしょうか。

⑵こころよく採録をご承認頂いたので、書簡文をその侭、ならびに新規返信を次に掲げます。

尊兄はまず、迂生が不用意に繰り出した「歴史の正丁」なる用語の曖昧さ(不適格さ)をズバリと指摘されます。たしかに、「歴史の正丁」という概念は存在しません。存在するのは「乱丁」「落丁」であり、そこに出現するのが歴史の空白です。よく「歴史の謎」ともいわれます。それは必ずしも歴史叙述につきまとう必要悪的な事実の朧化――史実の誤解・曲解・歪曲・中傷・誹謗・非難(いわゆる「ヘロドトスの悪意」など)、善意による隠蔽・掩護・黙諾・看過――だけでなく、およそ人が歴史を前にしたとき、どうしても認めざるを得ないような自生的な暗黒点との遭遇です。おおむねは人知を越えた、想定外の、夢にも思わなかった予想外の結末が訪れることがあります。人々が苦しまぎれに「歴史の偶然」なるカテゴリーに押し込んで満足するような種類の出来事群が厳存しています。

歴史にはその全貌に限りなく接近できる――理念にすぎないかもしれないが、いわば歴史記述の測度が100パーセントであるような――「頁」すなわち「丁」が想定されてよいのではないか。宇宙のどこかの図書館には、まだ誰の目にも触れていないそんな未読頁がひそかに蔵されているのではないか――というのが迂生の概念する「歴史の正丁」なのです。すみません。いかにも我田引水ですね。

事ほど左様に迂生には抜きがたい造語癖があります。自分でもそれと知りながら、造語群はたちまち僞手・偽足を伸ばしあって結び付き仮想の構造を作り上げてしまう。そこで話はだいぶ飛躍しますが、「相馬の金さん」のことになります。

貴兄もご自著『彰義隊士の手紙』p.552  以下で、「歴史のプロパガンダとフィクションを論ず」と副題して取り上げておいでのように、この人物は、岡本綺堂の彰義隊物の戯曲『相馬の金さん』(昭和2年)の主人公です。三田村鳶魚によれば、相馬金次郎にはモデルがあり、もともとは家禄百俵の御家人だったのだが、日頃から素行の悪い遊蕩児だったらしい。当時よくいた崩れた人間の一人だったようです。

綺堂の戯曲では、そんな崩れ御家人が「官軍」の兵士と口論になり、鉄扇で額を割られたとき、勃然として彰義隊に加わることを決意し、弟を連れて上野に入ってしまう。弟に告げたその理由は、「おれがこれから上野へ駈け込まうといふのは、主人の為でもねえ、忠義のためでもねえ、この金さんの腹の蟲が納まらねえ」なのである。そして上野戦争の敗亡の後、上野宮の御供をして東北に落ち延びようとするが、途中で突然何もかもいやになり、腹を掻き切ってしまうのです。「江戸っ子は思い切りが肝腎だ。おれはもう歩かれねえ。逃げらねえ。さあ、此ですっぱりとやってくれ。」――その言や佳し、です。

このいかにも性急せっかちな、あまりにも短絡的な、直情径行的な粗暴さ、オッチョコチョイ性の浅薄さと見えるものこそが、実をいえば金さんの身上で」なくて何でしょうか。自分の状況を「逃げられねえものを逃げたって仕様がねえ」と見切らせる眼力は、むしろ、戦場を一瞥するだけで勝敗を見抜くかの「戦局透視眼 クーデーユ」の発露だったのではないか。そしてこの時勢-地殻変動を全身的に感知する別製の能力は、徳川慶喜にも相馬の金さんにも分有されていた独特の歴史感覚ではなかったか。

ざっとこんな事柄が、迂生が「歴史の正丁」と名を付けてみたものの実体なのです。ごたごたしてすみません。いずれまたもっと問題を整理しようと存じます。今回はここまでで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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