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桃叟だより

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そこへ御自由に書き込んでいただければ、読者が皆でシェアできることになっています。ただし、記入者のメールアドレス書き込みは必須ではありません。内容はその時々のブログ内容に関するものでなくても結構です。

ぼくとしては、どういう人々がわがブログを読んで下さっているのか、できるだけ知っておきたいので、よろしくお願いする次第です。以上

2015-11-15 | 日暦

ハローインとええじゃないか

日本にもハローインの波が押し寄せるようになった。

テレビニュースでは、東京渋谷の雑沓の模様を伝えていた。大勢の若者がゾンビの恰好をして歩いていた。夜、地元関西のテレビを見たら、大阪ミナミの活況を映し出していた。何人かが威勢よく道頓堀川に飛び込んで喝采を浴びた。この前、阪神タイガースが優勝したとき以来の眺めだった。

こういう光景は初めてではない。昂奮したファンがケンタッキーフライドチキンのマスコット人形を川に投げ込んだ時の記憶もさることながら、そのさらに150年ほど前、明治維新の年にも、このあたりは「ええじゃないか」踊りの人波で溢れていた。群衆の騒乱はどちらかといえば関西の方に年季が入っているのだ。

わが国の歴史をさかのぼると、時代の違いを越えて間歇的に、同じ波形がよみがえっているのを感じる。同一シーンがリフレーンのように繰り返されている。日本史はほぼ周期的に人々が踊り狂う躁状態の波に洗われる。それはたいがい、踊りの狂躁――日常羈絆の逸脱――社会不安という一連のサイクルをたどる。

古くは天慶(てんぎょう)8年(945)のこと、京都に奇怪な噂が広まった。何か正体の知れぬ神が入京するというので、万を数える民衆が街道にひしめき、歌舞の声は附近の山を圧した。「天慶の乱」と呼ばれる平将門の乱で大いに世が乱れていた時期である。それから150年ばかり経った永長元年(1068)、「永長大田楽、えいちょうだいでんがく」と語り伝えられるほどの狂乱が都に起きた。大江匡房(おおえのまさふさ)が「一城(平安京中)の人、みな狂えるが如し」(『洛陽田楽記』)と嘆じている。何しろ公卿も武士(もののふ)も庶民もお坊さんもみんな思い思いに仮装し、好みの衣裳で街路に繰り出し、検非違使――つまり当時の警察官――までが歌舞の行列に加わったというのだから、盛況思うべしである。

東京渋谷のゾンビはまだコスプレの範囲に収まっているが、もし大江匡房が生きていたらこれも「妖異の萌す所、人力及ばず」といって眉をひそめるであろうか。

2015-11-07 | 日暦

『花の忠臣蔵』 作者口上

いつのまにか、忠臣蔵とは長いつきあいになりました。最初は『忠臣蔵  赤穂事件・史実の肉声』(一九九四・ちくま新書)、二冊目は『忠臣蔵まで  「喧嘩」から見た日本人』(二〇一三・講談社)、そして今回この『花の忠臣蔵』を読者の皆さんのお目にかけることになったような次第です。

「花の」とはまた、派手好みの、大向こう狙いの、躁状態的発揚のあげくの命名かと思われるかもしれませんが  事実、半ばはそうなのですが  、拙老の見るところでは忠臣蔵事件は元禄という一時代を飾る「花」だったのではないかという気がします。

このホームページを読んで下さる方々のうち、一九七〇年の三島由紀夫事件を知っている人はもう少数かもしれません。でも、この事件が同時代に広げた衝撃波の大きさは理解しているように思います。明治四十三年の「大逆事件」ですでに大正が始まり、大正二年の関東大震災でもう昭和が始まっていたように、三島事件は昭和の胎内に早くも平成を孕ませていたといえましょう。三島は空前の経済繁栄とそれに続く平成バブルの水面下で進行していた精神の荒廃を予感していたのです。三島の死は、拝金と長寿しか生き甲斐にできなくなっていた日本人を何かひやりとさせました。

拙老は、元禄の忠臣蔵事件はその三島事件と似たような役割を果たしたと思うのです。 元禄時代はひところ「昭和元禄」という言葉が流行したくらい、昭和の時代と共通点があります。どちらも経済的に繁栄したというだけでなく、その繁栄を享有し、謳歌することが自然にできるようになったのです。「昭和元禄」なる流行語も「高度経済成長期の天下太平、安逸」をメルクマールにして、第六十七代首相になった福田赳夫が昭和三十九年(一九六四)に言い出した言葉だそうです。元禄の井原西鶴は「何によらず銀徳にて叶わざる事」(『日本永代蔵』)はないと豪語しています。

どちらの社会も今目前にあるこの繁華が、今後いつまでも右肩上がりに、上昇しこそすれ下降したり停滞したりすることがあろうとは、夢にも考えていなかったんですね。忠臣蔵事件も三島事件もこの根拠なき楽観論、永続反映の幻想に水をさし、警告を発する不吉な予言として起きたみたいなものです。

どっちの事件もそれが起きるまでの社会が無理に眼をつぶり、故意に無視してきた影の部分を明るみに引き出しました。なるほど平成不況(バブル崩壊)は三島切腹の結果ではないし、元禄地震や富士山噴火の原因は忠臣蔵事件ではないでしょう。しかし、今も昔も民衆の集団的幻想の世界では物事が不思議な因果でつながるものなのです。

幕末の安政江戸地震に優るとも劣らない規模で江戸を壊滅させた元禄地震が、当時、怨みを呑んで切腹した赤穂義士の怨霊の祟りと信じられ、「亡魂地震」と呼ばれた事実については拙著『花の忠臣蔵』を参照されたし。

このように考えて来ると、忠臣蔵の世界はこれまで知られているよりも、もっと奥深い広がりを持っていたことがわかります。拙老の世代には浪曲・講談・大衆小説・歌舞伎・映画などを通じて血肉化し、一種の共有財産」になった物語であり、若い世代にとっては毎年テレビドラマで繰り返されるオールド・ストーリーですが、それらでおなじみの数々の名場面だけが忠臣蔵のすべてではありません。まだまだ未探索・未発掘の地下鉱脈があちこちに残っていると思われます。

今回の『花の忠臣蔵』には大勢の人間が登場します。武士ばかりでなく、学者・文人・俳人も出て来ます。儒学者荻生徂徠、国学者荷田在満、俳句の宗匠宝井其角などが次々と姿を現して嬉しい限りです。そう、忠臣蔵事件とは、いろいろな文化人が舞台に引っ張り出された文化的事件でもあったのです。

2015-10-21 | 日暦

初口上

このたび、いい年をしてホームページを開設することにしました。「電波に乗らないと世の中について行けないぞ」と勧めてくれる人もいて、それもそうかなと思いましたので、年甲斐もなくやってみようかという気持ちになったようなわけです。

ぼく(以下拙老と自称)は今年で満七十八歳になります。七十にして「古稀」といいます。『論語』では「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」といっています。八十には該当する言葉はありません。孔子様は長寿社会を想定していなかったようです。

どうやら人間八十歳に近づいたら、心の欲する通りにふるまってよい、そうしても決してルール違反になることはないというお墨付きを頂いたみたいです。老人性アナーキーのライセンスです。歌の文句でいえば、〽嬉しいなうれしいな、爺にゃ学校も試験も何にもない、です。何の束縛もないバラ色の老年が行く手に広がっています。

とは言いながら、拙老も寄る年波、なぜか皺こそあまり寄りませんが———だからかえってキモイという人もあります———年相応にいろいろな患いをしました。現在は足が立たず、ロレツがうまく回らず、左手は自由に動かず、この文章も右の中指一本でパソコンのキーを叩いている状態ですが、まだ頽齢という気がしません。まあ、そんなちょっとヘンな老童を想像して下さい。

〽年波はいづこの岸に寄るやらん

波紋はいずれどこかの岸に到着するでしょうが、拙老の場合は間違っても「彼岸」ではなく、いやになるほどの「此岸」でしょう。それも思いっきり下世話な方面になりそうです。

〽久米仙はおとつい桃の谷に落ち

桃李もの言わねど、樹下はおのずから小道をなす。これからは人だかりのする場所にできるだけ顔を出す所存です。

このホームページを『桃叟日暦』と名付けるゆえんはここにあります。平たくいえば「桃色爺さんの日ごよみ」です。人間、年を取ると老人性鬱病になるか老人性ユーフォリズム(多幸症)になるかのどちらかだそうです。どうせ傍迷惑には違いないのだが、どちらかといえば明るい方がいいと思いまして賑やかなのを選びました。灰色かバラ色か。いい年をしてバラ色というのもナンですので、桃色にさせて頂きました。御同好の士も少なくないかと存ずるような次第です。

さて、「日暦」といっても、毎日の動静を律儀に「日録」に書き綴るなんてのは性分にあいませんので、その辺はまったく融通無碍、勝手気まま、自由形競技の形式で、思いついたことを書き連ねて行こうと思います。

まさか身辺雑事をつづるほど老け込んではいませんので、当分は出版予定の本、その他の予定などで拙老いまだ健在なり、ということの広告にしたいと思います。

というのも、最近ウィキペディアに「この存命人物の記事には、出典が全くありません」といった文章をよく見かけるようになりました。読み直してみると、これはどうも「当該人物は生没不明である」ということの婉曲表現らしいのです。もしかしたら拙老などもいつのまにかこの部類になっているかもしれない。

そんなわけでこの『桃叟日暦』は、さしあたりまず拙老の「生存証明書」として発行され、「オーイ、マダ生キテイルゾ」という第一声をお披露目するものでございます。

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